調教師「田島良保」という名前を耳にしたとして、同氏の管理した競走馬が頭に思い浮かぶ方は、もしかすると少数派かもしれない。
……とは言え、あのテイエムオペラオーを大阪杯において4着に沈めたトーホウドリームや、揃って重賞ウイナーに上り詰めたスプリングバンブー&バンブーユベントス母子を育てたのだから、「名伯楽」とは呼べないまでも師が相応の手腕を備えていたのは明白だ。
G1タイトルに恵まれなかったのも、今の時代、巡り合わせの問題もあるだろう。
田島氏の調教師時代の成績が霞んで見えてしまうのはむしろ、騎手として挙げた華々しい成績に依拠しているのではないか。
“伝説的追い込み馬”ヒカルイマイと、1971年の皐月賞・ダービーを『戦後最年少』である23歳7ヶ月で勝利。またノースガストで1980年の菊花賞を制覇し、クラシック三冠を制覇したジョッキーに。他にも、抜群の先行力を武器に宝塚記念を逃げ切ったハマノパレード、ダート時代の札幌記念を連覇したオーバーレインボーらの主戦騎手として活躍し、70年代から80年代の競馬界において独自の存在感を示した。
キャラクターはあくまで“渋い実力派”。
全国ランキングでも、ひと桁台のランクを賑わす機会はあまり無かった。
それでも時として大レースで大物食いを果たし、競馬場の主役になり代わった田島騎手は「必殺仕事人」と呼称された。
元・関西テレビの杉本清アナウンサーが名付けたこの異名は、田島騎手の渋さと勝負強さを一言で表現している。騎手生活終盤の1989年にも、ライトカラーでオークスを制覇──その際も、10番人気馬で大本命シャダイカグラを見事打倒し、「必殺仕事人」健在ぶりをアピールした。
そんな田島良保騎手の、騎手としての引退が間近だった頃のお手馬に、プリンスシンがいた。
栗東の安田伊佐夫厩舎所属の彼は、当時としては珍しい外国産馬であった。
1987年1月29日、米国ケンタッキー州のバンカー・ハント牧場にて生誕。
父のシャムは現役時代、“米国史上最強馬”セクレタリアトと三冠レースでぶつかり、先の2戦は共に2着に踏ん張ったものの最終戦のベルモントSにおいて、大惨敗を喫した。
要は三冠を制したセクレタリアトの引き立て役になってしまったというわけだ。
引退後のシャムは種牡馬として一定の成績を残したが、現在直系子孫はほぼ残っていない。ちなみにシャムはネアルコどころかファロスを経由しないファラリス系という、現代競馬では非常に貴重な父系出身でもあった。
明け2歳となった翌1988年。
不幸にも生産牧場が倒産し、プリンスシンは売りに出された。早い話が競売に掛けられたわけである。幼くして故郷を失った彼に目を付けたのは、その当時競走馬の売買の仲介人として著名だった日本人・佐藤伝二氏。
歩く様子を佐藤氏にいたく気に入られた黒鹿毛のプリンスシンは、そのまま3万ドルで競り落とされた。これは当時のレートでも400万円にも満たない安値だ。
母のヘンパンスシンは現役時15勝を挙げた活躍馬で、二束三文の血統というわけでは無かったが、もしかすると、1970年生まれの父シャムに古臭いイメージを持たれたのかも知れない。その後、冠名“エーピー”や“リンド”で知られるデルマークラブの所有馬となったプリンスシンは、社台ファーム千葉で育成されてデビューの日を待った。
デビュー戦は3歳馬となった1989年11月のこと。育成前の検疫時に大怪我を負ったり、入厩後もソエを気にしながらの調整を余儀無くされたりと、順風満帆の船出とは言えなかった。
事実、初戦の芝レースは7番人気の7着に敗れている。
2走目、3走目とダート替わりで楽に連勝し、翌1990年2月にはG3・きさらぎ賞にコマを進めることになったものの、当時4連勝中のハクタイセイに歯が立たず5着に敗退。
オープン特別のすみれ賞でも2着に負けた後、管骨骨折が判明。
大事な成長期を棒に振ってしまった。
ここまで5戦、全てで田島良保騎手が手綱を取っていた。
だが4歳時に無理使いしなかったことが、逆にプリンスシンの成長を促すこととなる。明け5歳を迎えた1991年1月、前走比プラス26kgの520kgで京都競馬場に戻ってきた彼は、田島信行騎手(田島良保騎手と同姓・同郷だが血縁関係は無い)を背に900万下条件の睦月賞を先行して押し切り3勝目。続いて準オープンの松籟Sは、乗り替わった武豊騎手の手綱に応えて快勝した。
これで復帰後2連勝としたプリンスシンを、陣営は2月17日のハンデG2・京都記念(当時は京都芝2400m)へと送り出した。
前2走は共に淀の同じ距離。
そんな臨戦過程とハンデ54kgを評価されて、不気味な“黒い外車”プリンスシンは11頭立ての2番人気に推された。本命視されたのは同じく5歳馬で、前走有馬記念にて7番人気になった(9着)ハンデ55kgのゴーサイン。
以下、かつてダービー候補と目され、只今復調途上のヤマニングローバル(ハンデ56kg)、実績ある長距離砲だが59.5kgを背負うミスターシクレノン、恵量53kgで条件馬ながら舞台適性に優るエリモパサーなどが続いた。
スタート後、出が悪かったグレートモンテが最内枠からハナを主張。これに外からヤマニングローバルが競り掛けたが、内が先手を奪い切った。本命馬ゴーサインは道中先団の後ろに付け、再コンビの田島良保騎手が駆るプリンスシンは抑えて後ろから3頭目を追走する展開。馬群は固まり気味で、前半は静かに流れた。
レースが動いたのは3コーナー。
桃帽のエリモパサーとミスターアダムスが中団外から揃って進出し、逃げ馬を激しく攻め立てる。内で鞍上の手が頻繁に動くゴーサインや、早々と一杯になったヤマニングローバルを尻目に、外を通ってスーッと音も無く上昇した田島騎手とプリンスシンは手応え抜群。
──これは、イケる!
外を回したプリンスシンが、直線入口で先頭のエリモパサーをとうとう捕まえた。
粘り強く内で応戦するエリモパサーだったが、プリンスシンに力でねじ伏せられてしまう。
前の2頭で勝負あったか……といった直線半ば、さらに外から小柄な牝馬が差を詰めてきた。2年前の秋、京都記念と同じ距離条件のエリザベス女王杯を20頭立ての20番人気で制覇した、あのサンドピアリスだ。
これが引退レースのサンドピアリスは、前年の京都大賞典でも僅差の3着に食い込んでいた。「またあいつか!」「二度あることはサンドピアリス!」伏兵の激走に京都競馬場の観衆は騒然としたが、結局エリモパサーを交わして2着に上がったところがゴール。
プリンスシンがデビュー8戦目で重賞初制覇を決め、鞍上の田島良保騎手は前週の共同通信杯4歳Sに続いて2週連続重賞制覇となった。
「次の目標は大阪杯。そこから宝塚記念」※1と安田師は言った。
春の天皇賞という選択肢は、当然存在しない。1991年当時は外国産馬冬の時代。クラシックや天皇賞から締め出されていた彼らは、限られたレースを選び取ってローテーションを組まざるを得なかった。
海外競馬の情報を得るのが困難であるが故に、どれだけ強かろうが背景に“物語”を持てない哀しき存在、それが当時のマル外だった。
そして好事魔多し。調整中に厩舎で寝違いを起こしてしまった彼は、長い休養に入った。春をやり過ごし夏を諦めて、復帰戦は秋のマイルチャンピオンシップ。不慣れなマイル戦ながら直線だけの競馬で4着に健闘したが、続く有馬記念では4番人気に推されるも9着惨敗。ブービー人気のダイユウサクの大駆けによって締めくくられたこのグランプリの後に骨折が判明し、またしてもプリンスシンは長期休養に入ってしまった。
プリンスシンが休養に入って間も無い1992年2月、主戦の田島良保騎手が引退を表明した。2月23日、京都競馬場にて引退レースを終えた田島騎手が引き上げてくると、待ち構えた弟弟子の田原成貴騎手は感極まって泣いていたという。その際、決して涙を見せなかった田島騎手だが、戦場に最後のG1パートナー・プリンスシンを置いてきたことに関してはどう思っていたのだろうか。
当のプリンスシンはそのまま復帰叶わず、1993年6月10日付で競走馬登録を抹消。引退後は一旦種牡馬登録されたものの、ただの1頭にすら種付けすること無く、1994年4月に用途変更の憂き目に遭った。
「必殺仕事人」の栄光は歴史に永く刻まれども、競馬場にて妖しい輝きを一瞬見せた“黒い外車”の痕跡は、今となっては京都記念の記録上にその馬名を残すのみである。
(馬齢表記は旧表記で統一)
※1「優駿」1991年4月号
写真:Y.Noda