放たれた矢は終わりから始まりへ - 2000年フェブラリーステークス

冬場の地味なダート戦だったフェブラリーステークスもG1に昇格して4年目を迎えていた。

まるで田んぼのような泥んこ馬場で行われた記念すべき第1回(1997年)の王者は、岡部幸雄騎手と「嚙みつき馬」シンコウウインディだった。
このレースの売上げは203億を超え前年比345%と驚異的な数字を残し、この日の東京競馬場の入場者数は9万7555人とこちらも前年比210%となった。

第2回は芝の重賞中山金杯から異例のステップを踏んできたグルメフロンティアが優勝。
6番人気ながら並みいるダートの強豪馬を蹴散らした。
当時、金杯馬が勝つG1といえば宝塚記念か有馬記念が相場だっただけに「まさかこの手があったか」の勝利であった。
このときの鞍上は前年に続き岡部幸雄騎手。
調教師も前年度と同じ田中清調教師で、同一騎手&同一調教師でのV2劇となった。

第3回はみちのく岩手からやってきたメイセイオペラが地方競馬所属馬にして初の中央G1制覇を成し遂げた。
鮮やかな流星を持つ栗毛馬は、白と黄色の四つ割の勝負服をまとった騎手を背に新たな歴史を刻んだ。

かようにフェブラリーステークスは、G1としての歴史は浅くとも、毎年心に残るドラマを演じながら着実にファンのなかに浸透していった。


そして迎えた20世紀最後のフェブラリーステークス。

この年は秋のG1戦線に国際招待レースとしてジャパンカップダートが新設されていた。
その賞金はフェブラリーステークスの9400万円をはるかに上回る1億3000万円。
日本のダート競馬が世界を見据えて羽ばたく準備が整い始めており、その国内前哨戦とも捉えられるこの年のフェブラリーステークスには、実に出走16頭中15頭が重賞ウイナーという豪華な顔ぶれが揃った。

前年の優勝馬メイセイオペラを始めとする3頭の地方馬をはじめ、ゴールドティアラ、ファストフレンドなど名だたるダート巧者にまじって、グルメフロンティアの「2匹目のどじょう」を狙えとばかりに芝の重賞でも活躍していたシンボリインディやキングヘイロー、キョウエイマーチなどの芝馬までが参戦してきた。

そんなフェブラリーステークスに万感の思いを込めて参戦する競馬人がいた。
このレースが最後のG1チャレンジとなる調教師の工藤嘉見氏である。
工藤調教師はこの2月いっぱいで定年を迎え引退することが決まっていた。
57年の調教師人生で、それまでに勝利したJRA重賞は12勝。
G1(級)の勝利は実に昭和45年のオークス(ジュピック)までさかのぼらなければならず、G1勝利からは随分遠ざかっていたともいえる。

その工藤調教師が最後に送り込んだのがウイングアローであった。

ウイングアローは4歳時にダート重賞を4連勝するなど勢いに乗っていたが、その後は脚部不安もあって1年4カ月勝利から遠ざかっていた。
4歳時の主戦・南井克巳騎手は1年前に騎手を引退しており、その後、武豊騎手、菊沢隆徳騎手、河内洋騎手と跨ってきたが、あと一歩の惜しい競馬が続いていた。

勝利に近づくためにはできることは何でもやる──そんな意図が働いていたかは定かではないが、今回鞍上に指名されたのは短期免許で来日していたオリビエ・ペリエ騎手だった。
1994年にヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップで初来日。
翌1995年には京都金杯をワコーチカコで制し、さっそくJRA重賞初制覇を飾った。
更に1998年にはJRA100勝を達成、凱旋門賞では三連覇を果たしたが、意外なことにこの時点ではJRAのG1は未勝利であった。

この日のパドックに出てきたウイングアローの馬体重はマイナス18キロ。
工藤嘉見調教師が、調教師人生のすべてをかけて渾身の仕上げを施したようにみえた。
ペリエ騎手もニッポンの名伯楽から託された最後の手綱になんとか応えようと強いまなざしで前を見据えていた。


早春の東京にG1のファンファーレが鳴り響く。
16頭が飛び出した。

スタート直後の芝生を生かして桜花賞馬キョウエイマーチが先手を奪おうとするが、ダートコースに入るや大井から参戦のオリオンザサンクスが騎手の懸命な手綱しごきに応えて内からハナを奪い返す。

前年の覇者メイセイオペラが絶好位の3番手に付け、NHKマイルカップ馬シンボリインディが続く。さらにキングヘイローはシンボリインディの後ろで虎視眈眈。

船橋の雄アローセプテンバー、4年連続での参戦となった古豪バトルライン、武豊騎手を背にした2番人気ゴールドティアラがその後ろでじっと脚をため、ウイングアローは更に後ろ、最後尾を追走した。

3コーナーに差しかかるころにはオリオンザサンクスが2番手キョウエイマーチを大きく引き離した。
1000メートルの通過タイムは57秒7。かなりのハイペースだ。
キョウエイマーチの後ろも2~3馬身離れ、3番手以下がある程度のかたまりで隊列をなしている。

4コーナーの手前、オリオンザサンクスはまだ大逃げを打っている。
メイセイオペラがキョウエイマーチの外にじわっと並びかける。

直線。
余力がなくなったオリオンザサンクスの脚が止まる。
キョウエイマーチが一瞬伸びかけるが外からメイセイオペラ。
抜群の手応えだ。
ぽっかり空いた内に進路を取ったのはシンボリインディ。

メイセイオペラが先頭に立つ。
そのすぐ外から伏兵のセレクトグリーンが伸びてくる。
間を割ってダートの女傑ファストフレンド。
内のシンボリインディは苦しそうだ。
大外からはゴールドティアラが伸びてくる。
ウイングアローはその更に外。じわじわとしか差が詰まらず、なんとももどかしい。

──また惜敗か。

残り100メートル。
メイセイオペラが押し切るかに思えた次の瞬間、絞りに絞られた矢が放たれた!

2馬身、1馬身、半馬身……見る間に差が詰まる。
「メイセイオペラ! 外からウイングアロー! メイセイオペラ! ウイングアロー! ウイングアロー! ウイングアローが差し切った! ゴールイン!」
鞍上のオリビエ・ペリエ騎手の右手があがった。
終わってみれば、道中最後方から前を走る全ての馬を差し切っての勝利であった。


「ペリエさんがうまく乗ってくれました。最後を飾ることができて本当にうれしい。感無量、本当に幸せです」
レース後、工藤調教師はこうコメントしている。
見事な有終の美であった。

そして、JRAのG1初勝利となったオリビエ・ペリエ騎手の手綱は、このフェブラリーステークス以降ますます冴えわたっていく。翌年にはJRA史上初となる3週連続G1制覇を達成。ブリーダーズカップでも勝利を挙げるなど更なる飛躍を遂げた。

ウイングアローは、勇退した工藤嘉見調教師から弟子であり主戦騎手でもあった南井克巳調教師に引き継がれ、秋には第1回ジャパンカップダートの初代王者となった。

終わり、そして、始まり。
工藤調教師が最後に放った矢は、ペリエ騎手、そして弟子の南井克巳調教師の新たな始まりへとつながった──2000年のフェブラリーステークスはそんなレースだった。

写真:かず

あなたにおすすめの記事