[セントライト記念]持ち前の勝負根性で菊花賞への切符を奪取 - 2004年・コスモバルク

2004年の3歳クラシック路線は、地方競馬からやってきた1頭の馬が競馬ファンの注目を集めていた。彼の名前はコスモバルク。ホッカイドウ競馬所属のまま長きに渡って中央競馬で活躍し、今なお根強い人気を誇る「道営のエース」だ。

コスモバルクはデビュー前から評価の高い馬であった。馬体の作りに無駄がなく、筋肉の質もよく、心肺機能も申し分ない。育成先のビッグレットファームの中でも1番高い評価を得ていたような馬である。通常であれば最初から中央競馬でデビューさせて日本ダービーを目指すような素質馬が、なぜホッカイドウ競馬でデビューしたのか?

コスモバルクが産まれた2001年当時のホッカイドウ競馬は売上不振に悩まされて廃止の危機に追い込まれていた。強い馬を作らないとファンは盛り上がらない……。そのためにも「1番強い馬をホッカイドウ競馬でデビューさせて、その馬で日本ダービーを勝つ!」というのはどうか──コスモバルクがホッカイドウ競馬でデビューした裏には、ホッカイドウ競馬の運営改善対策の中心人物でもあった故・岡田繁幸氏のこんな思惑があったとも言われている。

デビュー後にホッカイドウ競馬で4戦した後、コスモバルクは満を持して中央競馬に参戦する。百日草特別(1勝クラス)→ラジオたんぱ杯2歳ステークス(G3)→弥生賞(G2)を3連勝。トライアルレースの弥生賞を勝ったことで、皐月賞の優先出走権も獲得した。

皐月賞では中央競馬で3連勝した地方所属馬という話題性もあり、単勝2.4倍の1番人気に支持されたが、最後の直線で先に抜け出したダイワメジャーをとらえることができず、惜しくも2着。続く日本ダービーでもキングカメハメハやハーツクライらを相手に8着と敗れてしまい、残った最後の一冠・菊花賞への出走権を掴み取るために出走したのが、セントライト記念であった。

そのセントライト記念でもコスモバルクは単勝1.3倍という断然の1番人気に支持されていた。8枠13番に入ったコスモバルクはスタートするとすんなり前目の位置につけ第1コーナーをカーブしていく。しかし外枠のため、前に壁となる馬がいなかったのが災いしたか、第2コーナーに入ると引っかかり気味に前の馬を交わして先頭に立ってしまう。最初の1,000mの通過タイムが58秒9。2,200mの中距離戦としては若干速めのペースだ。

──このままのペースで走って果たして最後まで持つのだろうか?

見守る競馬ファンの心配をよそに、第4コーナーを回って直線に入ってもコスモバルクはバテることなく先頭を走り続けていた。

最後は2番人気のホオキパウェーブにクビ差まで迫られるも、見事に粘り切り1着でゴールイン!

その勝ちタイムは、なんと2分10秒1。当時の日本レコードというおまけ付きで、菊花賞への優先出走権を勝ち取ったのである。

当時主戦を務めていた五十嵐冬樹騎手はコスモバルクについて次のように語っている。「コスモバルクの良さは勝負根性。最後は抜かせない。それが時にはデメリットにもなるが、とにかく前向きで最後まで頑張って走ってくれる馬」。セントライト記念でのコスモバルクの走りは、まさにその言葉が示す通り、負けん気の強さ・最後まで抜かせない勝負根性、これらコスモバルクの良さが上手く引き出された勝利だったのではないだろうか。

また、このセントライト記念には後にG1戦線を沸かせることになるエアシェイディやポップロックも参戦していた。そういった馬たちを抑えきっての勝利は価値が高かったのではないだろうか。

そして臨んだ最後の一冠・菊花賞。コスモバルクにとって3,000mは距離が長いようにも思われたが、スタートが切られると果敢に先頭に立っていき、17頭を引き連れ逃げていく。さすがに最後は抜かれてしまったが、ここでも持ち前の勝負根性を見せつけ、1着とはあまり差のない4着に粘り込んだのであった。

こうしてコスモバルクの3歳クラシック挑戦は幕を閉じた。結果的にクラシックで勝つことは叶わなかったが、競馬ファンの記憶にはホッカイドウ競馬所属のまま世代の頂点を争って戦い抜いたコスモバルクの雄姿が深く刻み込まれたに違いない。

セントライト記念が近づくと、この年のコスモバルクの活躍を思い出すのである。

写真:ふわまさあき

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