年齢を重ねていくと、人生のターニングポイントとなる年が必ずある。
毎週を「競馬開催メニュー」で区切っていけば、それを52回繰り返すと一回りする。そこには、様々な世代のヒーロー、ヒロインが登場し、52週の物語を作り上げていく。私たちは競馬場で、あるいはモニターで、彼らの命を懸けた疾走に喜怒哀楽を爆発させて、毎週の「競馬開催メニュー」を楽しんでいる。
この楽しみを長く繰り返していくと、知らぬ間に「1年が年々早く感じるようになる」ジレンマに陥ってしまう。そして競馬場への来場者が、私より年下の比率が年々増えていくことに気づく。東京に引っ越してきた頃「年少組」だった私も、既に「年長組」の域に入っているのだろう。競馬場でG1レース出走の前にターフビジョンで流れる「私は、そこにいた~I was there~ 」のPV。そこに登場するG1レースのほぼ全てが「私は、そこにいた」なのである。それを一緒に観戦している仲間たちに自慢している事こそ、「年長組」の証だ。
──私にとって、人生のターニングポイントとなった年はいつだろうか。
大学入学を機に大阪の実家を飛び出した私は、競馬中継の無い「競馬空白地域」での生活を強いられた。そこから解放されたのが、1989年秋。関西圏の競馬に戻るのでは無く、首都圏居住により「府中、中山を主戦場にする競馬スタイル」に180度転換した。
1989年秋。オールカマーから始まる、オグリキャップの「怪物伝説」誕生となった秋である。天皇賞(秋)の惜敗、マイルCS優勝から連闘で臨んだジャパンカップでのホーリックスとの死闘。そして雨の有馬記念。直線で馬群に飲み込まれるオグリキャップの姿。それらのレース全てを、競馬場の最前列にしがみついて観戦している。1989年秋、馬たちと過ごせる週末が帰ってきた。
そして、1990年。金杯のメジロモントレーから始まり、有馬記念のオグリキャップのラストランまで。関東圏で1年を通して「競馬づくし」の生活を送った。以降、延々と52週で1回りするライフスタイルを現在まで繰り返している。
私にとっての人生のターニングポイントは、間違いなく1990年である。
1990年秋への序章
1990年はセンセーショナルな1年だったと私は思う。
慣れない首都圏の生活で、冬から春への季節の移り変わりを感じながら、初めて現地観戦する牡馬のクラッシックレース。子供のころの推し馬、ハイセイコー産駒ハクタイセイが優勝した皐月賞。そして初めて競馬場で観た東京優駿と、ナカノコール。観客の多さに毎週圧倒された、春のG1戦線…。1990年の前半は夢中で競馬場に通い、瞬く間に時間が過ぎていった。
そして、1990年秋。
クラッシック三冠目の菊花賞を目指す4歳馬(現3歳)の便りが届き始める。好みの「ステイヤー芦毛」メジロティターンの仔、メジロマックイーンが北海道シリーズで開花。春のダービー組ではアイネスフウジン不在も、2着のメジロライアンが京都新聞杯を楽勝。3着の芦毛馬ホワイトストーンは、+16キロでセントライト記念に登場。パワーアップした馬体で2着馬を4馬身突き放した。
11月の菊花賞(当時)に向けて有力馬が話題になる中、古馬陣はオグリキャップの「最後の秋ローテ」に注目が集まる。前年の有馬記念以降休養していたオグリキャップは春の安田記念で復帰し優勝するものの、続く宝塚記念ではオサイチジョージに逃げ切りを許す。レース後に脚部不安を発症したオグリキャップは予定していた夏のアメリカ遠征を断念し、天皇賞(秋)に備えることとなった。
前年秋にオグリキャップと共に戦った盟友たち。
有馬記念でスーパークリークを差し切ったイナリワン。春の宝塚記念4着後、秋はオールカマーから天皇賞(秋)へのローテーションが発表されていたが、右前脚に不安が発症して秋ローテが白紙となっていた(その後現役引退を発表)。
天皇賞(秋)でオグリキャップの追撃を封じて優勝したスーパークリーク。
春は産経大阪杯を楽勝後、天皇賞(春)でイナリワンに競り勝って天皇賞秋・春連覇を達成。秋は京都大賞典から始動、ここを勝利して天皇賞3連覇に照準を当てた。しかし、レース直後に繋靭帯炎を発症。スーパークリークも天皇賞(秋)への出走を断念した(年内に引退発表)。
それでも、天皇賞はスタートする
古馬の主役たちが次々と断念していく中、天皇賞(秋)の日が近づく。出走表明しているオグリキャップも決して順調ではなかった。実際、10月に入って「調整遅れで回避か」のニュースも流れる。
それでもオグリキャップは鞍上に増沢末男騎手を迎え、出走に踏み切った。その他の主力メンバーは春の宝塚記念でオグリキャップを倒したオサイチジョージ、前年のマイルチャンピオンシップでオグリキャップにハナ差惜敗したバンブーメモリー、一昨年の皐月賞馬ヤエノムテキなど。スーパークリーク、イナリワンを欠いたため、当初の想定と比べると出走メンバーの小粒感は否めない。
このメンバーなら、オグリキャップが楽勝するはずだ。いや、負けてはいけないメンバー構成だ、という見方すらあった。実際、オグリキャップは1番人気(2.0倍)の支持を得る。以下、オサイチジョージ、ヤエノムテキ、バンブーメモリー、メジロアルダンと人気が続くが、言葉を選ばずに言えばどの馬も「帯に短し襷に長し」の馬たち。気になるのは、オグリキャップの状態が万全ではないという不安だけだ。そのモヤモヤ感が、波乱ムードを漂わせている。
根幹距離の2000m、紛れのない府中コース、左回りと長い直線…。
オグリキャップ以外の出走馬を横並びしてみれば、浮上してくるのがヤエノムテキの存在だった。
ヤエノムテキという馬…漢字でも書けそうな、大相撲の力士のような馬名である。しかし、名前から来るイメージとは程遠い、美しい栗毛と四白流星の6歳馬(現5歳馬)だった。ただ気性は荒く、返し馬やゲート入りの際、気難しいところを見せることも多々あった。
一昨年の皐月賞を制しているが、開催地は中山ではなく府中の2000mで優勝している。三冠レースは東京優駿4着、京都新聞杯優勝後の菊花賞は10着。古馬になって鳴尾記念、産経大阪杯を勝ち、中距離では安定した戦績を残していた。今春の安田記念から鞍上に岡部騎手を迎え、その安田記念ではオグリキャップの2着に好走している。
天皇賞(秋)の返し馬が始まった。
1コーナーに向かって、一斉に近づいてくる各馬たち。オグリキャップが登場すると、場内に歓声が湧き上がる。増沢騎手はゆっくりと歩を進め、状態を確認するかのように目の前を通り過ぎていく。
メジロアルダン、オサイチジョージと共にヤエノムテキもやって来た。
一斉のスタートから、飛び出したのは内枠のロングニュートリノ。ダイユウサク、メジロアルダンらもすかさず好位に取りつく。ヤエノムテキは5番手の内、中段にいたオグリキャップも、外を回り先頭集団のすぐ後ろまで、ポジションを上げる。
1000mを58秒台のハイペースで引っ張るロングニュートリノとラッキーゲラン。ターフビジョンにオグリキャップが映し出されると、場内から大きな歓声が湧く。3コーナーの大欅を過ぎると、オグリキャップが外を回って進出。ヤエノムテキは中段最内でじっとしている。後方から脚を伸ばしてきたのがランニングフリーとバンブーメモリー。
4コーナーを回り直線に入ると、いつものオグリキャップが大外から先頭に並んだ。
歓声と共に、オグリキャップが横並びの馬たちを突き放すと、多くのファンが確信した。しかし、今日はいつものオグリでは無く、増沢騎手のムチにも反応していない…。
直線横並びから先頭に躍り出たのは、最内でじっとしていたヤエノムテキ。ぽっかり空いた内側から、いつのまにか先頭に立っている。あと100m、ヤエノムテキを目掛けて突っ込んできたのがバンブーメモリーとメジロアルダン。オグリキャップは先頭争いから遅れ出した。
余裕を持ってゴールを目指すヤエノムテキと岡部騎手。最後にメジロアルダンが、ひと伸びしてヤエノムテキに迫ったが、頭差まで。岡部騎手は、右手でヤエノムテキの首筋をポンと叩き、勝者を称えた。オグリキャップはズルズルと後退し、6番目にゴール板を通過する。
勝ちタイム1分58秒2は、当時のレースレコード&コースレコードとなった。
どんなに調子が悪くとも、絶対にオグリキャップが通るだろうと思っていた、レース後のビクトリーロード。ウイニングランは岡部騎手の笑顔を背にヤエノムテキがゆっくりと通過する。オグリキャップが帰ってきたら「オグリ・コール」をすると宣言していた周りの連中も、拍手でヤエノムテキを迎えた。
ヤエノムテキは天皇賞出走馬中、唯一のクラッシックホースとして、絶対本命馬オグリキャップに替わって戴冠。自身もG1レース2勝目となり、キャリアを積み上げ、伝統の天皇賞を盛り上げた。
ヤエノムテキはこの後、ジャパンカップ、有馬記念の2戦で引退することが発表される。
悔しさが残ったジャパンカップ
スーパークリーク、イナリワンの主力古馬陣を欠いた状態で、海外の有力馬を迎えるジャパンカップ。15頭出走中外国馬10頭に対し、迎え撃つ日本勢は、天皇賞後も精彩を欠くオグリキャップが1番手の評価を受けていた。4歳勢からは中2週でホワイトストーンが菊花賞から転戦し、ヤエノムテキ、オサイチジョージと地方代表のジョージモナークの5頭。1~3番人気を外国馬が占め、オグリキャップが7.0倍の4番人気となった。ヤエノムテキは8番人気でレースに臨んだ。
レースは、外国馬たちの独壇場。直線まで先頭のオサイチジョージを飲み込んだ外国馬たちは、3頭の激しい叩き合いの末、2番人気ベタールースンアップがオード、カコイシーズを抑えて優勝した。日本勢は外国馬3頭に迫ったホワイトストーンが4着、中段から内を突いたヤエノムテキが6着。オグリキャップは、直線で外に出して追い込むものの全く伸びず、生涯最低の11着に敗れる。
ジャパンカップ後のオグリキャップに、「もう負ける姿は見たくない」「このまま引退させてあげて」などの意見を耳にした。競馬に興味の無い人々も巻き込んだ「オグリキャップへの同情」が噴出し、SNSの無い時代にもかかわらず世間に拡散していった。
オグリキャップ陣営は、「有馬記念をオグリの引退レース」とし、鞍上に武豊を迎えることを発表した。ここからオグリキャップへの「同情」が「応援」へと、一気に流れが変わる。ファン投票は断トツの1位で、オグリキャップのラストランを盛り上げた。
その波は、年末が近づくにつれ社会現象化していく。スポーツ新聞の1面にオグリキャップの顔写真が掲載、スポーツニュースやワイドショーでもオグリキャップの話題が登場した。
「オグリ・コール」は誰へのもの?
1990年12月23日
中山競馬場に177,799名の観戦者が見守る第35回有馬記念。
場内は、昼過ぎには身動きが取れない状態になる。マークシートも、販売機もない時代。前売り窓口で午前中に買っておいた馬券以外、買い足しのため移動して窓口に並ぶこともままならない状態。
パドックに行けば戻れない状態を悟った私は、ゴール近くの最前列で、出走馬16頭の本馬場入場を待つ。
1番人気はホワイトストーン。メジロアルダン、メジロライアンのメジロ勢が続き、オグリキャップは4番人気。これがラストランとなるヤエノムテキは6番人気のポジションとなった。
本馬場入場のテーマ曲が流れ、誘導馬が馬場に登場すると、場内は異様な盛り上がりを見せる。17万を超える観衆のどよめきと歓声は、春の東京優駿の時にも感じなかった迫力だ。唸るような歓声で、場内アナウンスも聞こえない。ダートコースを横切り、登場してくる出走馬たちの興奮状態もターフビジョンから伝わってくる。
その時、アクシデントが起こった。
オースミシャダイの次に登場した栗毛の馬が、大観衆と歓声に驚き、騎手を振り落とす。落馬したのは岡部騎手。そして、騎手を振り落とした馬は…ヤエノムテキ。
ラストランとなるヤエノムテキは本馬場に出ると、4コーナーに向かって疾走する。
場内の歓声はどよめきと共に、更にボルテージアップ。地響きのような歓声がスタンドから本馬場へ向かって波打つ。その歓声を横から受けたヤエノムテキは、心地よさそうに、四肢を目一杯広げて駆けて行く。
そのシーンは、まるでヤエノムテキの引退式。
自由奔放なヤエノムテキらしく、歓声を浴び、伸び伸び走る最後の返し馬となった。
「これは放馬ではなく、俺のラストランだ」
遠ざかっていく彼の後ろ姿から、そんな声が聞こえてきそうだった。
機嫌を直したヤエノムテキも、岡部騎手を背に無事ゲートインに至り、スターと同時に先頭に躍り出た。レースは超スローペースになり、先頭を行くオサイチジョージにヤエノムテキが追いかけ、1周目のゴール板を通過する。オグリキャップは引っ掛かることなく終始先行集団の外に付け、前を伺っている。
そして、残り800mで先頭各馬の外に付けたオグリキャップは、中山競馬場の直線310mで奇跡のドラマを演じる。
「奇跡の復活」「感動のラストラン」、翌日のスポーツ紙の一面を飾る、数々の見出し。
ファンの夢と願いを背負い、最後の最後を飾ったオグリキャップは、伝説の馬となった。
オグリキャップと共に、1990年の秋を背負ったヤエノムテキ。
7着でゴールインし、ヤエノムテキが検量室前に戻ってくる。多分、彼も耳にしたであろう「オグリ・コール」。孤軍奮闘するオグリキャップを間近で見てきたヤエノムテキには、どう聞こえただろうか。
感動のエンドロールが流れる中山競馬場。
決してオグリキャップ一頭だけへの祝福ではなかったはずだ。
「オグリ・コール」はオグリキャップの盟友として日の丸を背負い、共にラストランに臨んだ、ヤエノムテキへの感謝のコールとも言えるだろう。
1990年の秋を、彼らと共に競馬場で過ごせたこと。
彼らと感動を共有できたから、私の「競馬を楽しむスタイル」が確立したのだと思う。
振り返ると、今でも胸が熱くなる1990年秋。
はじまりは、きっと1990年秋である。
Photo by I.Natsume