「スパツィアーレは受胎していませんでした」
碧雲牧場の慈さんからそう告げられました。文字だけを見ると、無慈悲に感じられるかもしれませんが、サラブレッドの生産においてはよくあること。もちろん、一発、いや一回で受胎するに越したことはありませんが、子どもは神様からの授かりものであることは馬も同じですから、いくらタイミングを見計らっても妊娠しないこともあるのです。
種付けからおよそ15日後に、ニンカンと呼ばれる妊娠鑑定を獣医師に行ってもらい、受胎していることが確認されたらオメデタであり、受胎していなければすぐ次の種付けを考えなければなりません。繁殖牝馬の排卵の周期はおよそ2週間ですから、ニンカンのタイミングと種付けのそれはほとんど同じになります。スパツィアーレが受胎していないことが判明してからすぐに慈さんはチュウワウィザードの空き状況を確認してくれ、空いていた1枠に何とか滑り込んで、次の種付けをすることができたそうです。
次のニンカンは4月の中旬になります。さすがにこの時期は種付けを希望する繁殖牝馬の数もピークを迎えており、スパツィアーレと同様に受胎が確認できなかった繁殖牝馬も再来するため、人気のある種牡馬は目が回る忙しさでしょう。種牡馬になれるのは一握りの馬であり、淘汰されていった馬たちのことを考えると、血を残せることの意義や価値は大きく、どれだけ大変でも仕事として割り切る覚悟は必要、というのはあくまでも人間の論理です。種牡馬は幸せなのでしょうか。考えても仕方ないことばかり最近は考えてしまいます。
2回目の種付けで受胎が確認できなければ、3回目もチュウワウィザードに種付けしてもらえる保証はありません。前回も今回もギリギリ入り込めたであったことを考えても、さすがに次は難しいと予測するのが妥当です。また、チュウワウィザードとスパツィアーレの相性が良くない可能性も考えて、他の種付け候補を考えておかねばいけません。
受胎しない原因としては、大きく3つが考えられます。ひとつは、繁殖牝馬の状況が良くない。しっかりと卵が大きくなって、排卵をしつつあるタイミングを外して種付けしてしまうと受胎確率は下がりますし、毎年子どもを産んでいる繁殖牝馬は膣や子宮が傷んだり、汚れたりしていることがあって、受胎をさまたげてしまうこともあります。こまめにチョッケン(直腸検査)をして、まさにこの日というタイミングで種付けに行くこと、また膣内を洗浄したりして少しでも受胎する環境を整えることが大切です。
2つめは種牡馬の受胎率の問題です。たとえばミスタープロスペクターの血を引く種牡馬は種付け意欲も旺盛で、受胎率も高いと言われているように、種牡馬ごとに受胎率は異なります。どんな繁殖牝馬でも妊娠させてしまうロッキー・バルボアのような種牡馬もいれば、10頭に種付けをしても受胎するのは1、2頭なんていう種牡馬もいます。種牡馬の受胎率は公表されているわけではありませんが、風の噂というか、生産者たちの間ではあの馬はこう、この馬はどうというように情報が共有されていきます。チュウワウィザードに関しては新種牡馬ということもあり、受胎率が高いのか低いのか分かりませんが、2回とも受胎しなかったのはスパツィアーレだけに原因があるとは限らないのです。
3つ目は、種牡馬と繁殖牝馬の相性です。素人からすると、相性なんてあるのかと疑問に思いますが、慈さんは「あります」と断言されるので、経験豊富な生産者の間では相性は存在するということです。どれだけ最善を尽くしても受胎しなかった場合、1頭の種牡馬に固執することなく相性が悪かったとあきらめて、次の種牡馬に目を向けるためにも必要な考え方だとも思います。
スパツィアーレのニンカンが4月21日に決まりました。ちょうど前日に社台スタリオンステーションでの取材が控えていましたので、その足で碧雲牧場に向かう予定を立てました。今年は取材で北海道に行くついでに、ダートムーアやスパツィアーレ、そして彼女たちの仔どもたちに会うことができるのです。行くべきところというか、僕にとってのサードプレースができた気がします。
前回の訪問から約1か月しか経っていませんが、仔どもたちがどれだけ成長しているのか楽しみです。特にスパツィアーレの男の子は、「ここにきてグッと大きくなってきました。さすがルーラーシップの仔ですね」と慈さんが褒めてくれました。母親の種付けに同行して、疲れて座り込んでいたチビが、この1か月の間にどれぐらい大きく成長したのか、この手で触れて確かめたいと思います。
前入りするために、夕方の飛行機に合わせて出発しました。会社の扉を開いて、足を踏み出そうとしたその瞬間、僕の左足がグニャっと捻じれました。入口玄関は細かく3つの段差になっていて、これまでもそこで何回か躓いたり転んだりしたことはあったのですが、今回は全体重が左足に乗った形でひねってしまったのです。「パキッ!」という木の枝が折れたような乾いた音がたしかに聞こえました。しばし目をつぶり、すぐさま「やってしまった…」という想いが湧き上がってきました。明日の取材はキャンセルしなければならないし、もちろん牧場に行くこともできません。左足を引きずりながら、関係各所に電話をかけました。
碧雲牧場にも連絡して、怪我をしてしまったので明日行けなくなったことを慈さんに伝えると、「しばらくは舎飼いですね(笑)」と業界用語でなぐさめてくれました。舎飼いとは怪我をした馬を安静にするために、放牧に出さずに厩舎の馬房の中で過ごさせること。僕も「ダートムーアやスパツィアーレの仔が骨折したのではなく、僕で良かったです」と冗談で返しました。いえ、冗談ではなく、半分本気でそう思えたということは、僕も生産者の端くれぐらいにはなってきたのでしょうか。
(次回へ続く→)