ワンアンドオンリー - ”唯一無二”にして”もう一つ”の輝き

『すべては、この熱き日のために』

その舞台に辿り着くことは、それ自体がサバイバル。幾多の関門を乗り越えて誉あるゲートに辿り着いた18頭は、灼熱の府中で全力を尽くして勝利を争い、たとえその後の全てを投げうつことになろうとも、たった一つの栄光に手を伸ばす。

──それがダービー、それがホースマンの夢である。

私たちが過去を思い出す時、その時代、その世代を表す記号はダービー馬であることが多い。

ダービーのタイトルを手にした者は、世代のプライドを一手に背負う存在としての責務を課されるように感じる。それは時に、孤独で過酷な闘いへの片道切符となる。

第81代日本ダービー馬・ワンアンドオンリー。

橋口弘次郎調教師の悲願を叶えた、ノースヒルズの栄光の一頭だ。


彼はダービーの後、6歳の暮れまで現役生活を続けた。

その戦績は24戦1勝。古馬として勝ち星を挙げることは無く、晩年は二桁人気と二桁着順を繰り返した。

歴代のダービー馬の中でワンアンドオンリーの評価は残念ながら決して芳しいものではないだろう。あの日の栄光から10年が経ち、橋口師も引退した今、ワンアンドオンリーの記憶は薄れつつあるかもしれない。

ワンアンドオンリーの名に触れた時、多くの人は皇太子殿下の元で行われた灼熱の2分24秒6を思い出すに違いない。

だが、私はそのもう一歩先――彼にとって生涯最後の勝利となった神戸新聞杯のことが忘れられない。

それはダービー馬となった彼が残した、”唯一無二”にして”もう一つ”の輝き。

ダービー馬としての矜持を示そうと、力を振り絞って掴み取った2分24秒4の栄光だった。


その日に至る前に、彼の蹄跡を振り返ろう。

2歳夏。小倉でデビューを果たした彼の初陣は10番人気12着だった。

いま、そのレースのVTRを見ても、画面から大きく見切れて後方に消えていくワンアンドオンリーの姿からは、後に大仕事をやってのける片鱗はどこにも感じられない。

だが、彼の内に秘められたエネルギーは彼が凡庸なまま終わることを許さなかった。

2戦目で2着と一変を見せ、3戦目で初勝利を挙げると、暮れのラジオNIKKEI杯ではクリストフ・ルメール騎手の手綱に導かれ重賞制覇を果たす。年明け初戦の弥生賞でも猛然と追い込み2着に入ると、皐月賞でも最後方からしぶとく脚を伸ばして4着に食い込んだ。

彼はキャリアを積み重ねるうちに強さを備え、世代トップの一角へと上り詰めていった。

その走りは俊敏というよりはパワフルで、どこか不器用で、叩き上げだった。

勝負処で手応えが怪しく見えてからが彼の真骨頂。先行勢の脚が鈍る残り200mを迎えても力強く大地を蹴り続け、頭の高いフォームで土煙を巻き上げ、ブルドーザーのような重厚さで前を行くライバルを一掃した。そのフォームには他のどの馬にもない「ワンアンドオンリー」のアイデンティティがあった。その瞳の奥には狂気と見紛うほどの根性と気迫が宿っているようにも思えた。

──ダービーは、彼の執念が結実した会心のレースだった。

これまでにないトップスタートを切ったワンアンドオンリーは、横山典弘騎手に導かれていつもより前目のポジションを確保する。それは差し届かなかった近2走を踏まえた策。横山典弘騎手の勝負勘は、前半に体力を使うリスクを負ってでもポジショニングに拘り、ライバルを射程に捕えて運ぶことを選択していた。ワンアンドオンリーは円熟の手綱に従い、好位で静かにその時を待った。

迎えた直線。悲願に向けてしなやかに加速した皐月賞馬イスラボニータ目掛け、進路を確保したワンアンドオンリーが加速する。30度を超えて目が眩むような強い陽射しの下で、両雄の馬体が並ぶ。食い下がるイスラボニータとねじ伏せるワンアンドオンリーの死力を尽くした競り合いが続くこと十数秒。イスラボニータの身体が遅れ始め、ワンアンドオンリーの身体が半馬身、一馬身と前に出る。

第81代ダービー馬の誕生を祝福する歓声が府中を包み込んだ。ワンアンドオンリーの強さは、彼と彼を取り巻く全ての人々に最高の栄誉をもたらした。


ダービーを終えたワンアンドオンリーは、ノースヒルズの西の拠点、鳥取県の大山ヒルズで英気を養った。そして8月下旬、最後の一冠を目指して、栗東トレセンへと戻ってきた。

神戸新聞杯から菊花賞へ。ワンアンドオンリーの調整は王道の青写真に沿って進められた。だが神戸新聞杯の最終追切りでは加速に手間取り、格下の馬に煽られた。叩き良化型とはいえ不安の残る内容に見えた。

レース当日の装鞍所では何度も尻っぱねを繰り返し、蹄鉄が外れ、外れた蹄鉄を打ち直しにも相当な時間を要したという。

もしかしたら、彼の内奥には未だダメージが残っていたのかもしれない。あるいは世代王者として臨む秋初戦のプレッシャーを一身に受け止めていたのかもしれない。

ワンアンドオンリーは苦しさを押し殺し、王者たらねばならぬ自らと懸命に戦っていた。

ファンの前に姿を現したワンアンドオンリーは、装鞍所でのトラブルが嘘のように堂々と周回していた。馬体重はダービーとの比較でマイナス4キロ。ひと夏を超えても大きく馬体を増やすことはなく、身体をきっちり作ってきたようにも見えた。横山典弘騎手を背にコースへ飛び出し、詰めかけた観衆の前を駆け抜けていった。

ゲートが開く。

トップボンバーがハナを奪い、ウインフルブルームが番手を務めた。大器・サトノアラジンと尾花栗毛が美しい上がり馬トーホウジャッカルは中団、その直後にトーセンスターダムとサウンズオブアースが追走する。ワンアンドオンリーはこれらライバル達を横目に、後方4番手で睨みを利かせる。

1000mのハロン標を通過したところで、横山典弘騎手はワンアンドオンリーを馬群の外に誘導する。阪神外回りの一番奥。まだゴールは遥か彼方の地点だったが、瞬間、ワンアンドオンリーはハミを取って加速する。馬群の大外5,6頭分から進出し、4角入り口で早くも先頭に並びかける。

直線前半、一寸先に先頭に踊り出たサトノアラジンが先頭を譲るまいと必死の抵抗をみせる。

横山典弘騎手の叱咤に応え、ワンアンドオンリー二度、三度とサトノアラジンにプレッシャーを掛けるがなかなか交わせない。それでも残り200m、力業でサトノアラジンをねじ伏せ、先頭に躍り出る。

次の瞬間、今度は外からワンテンポ仕掛けを遅らせたサウンズオブアースが迫る。さらに外からは、進路を切り替えながらトーホウジャッカルが荒削りなフォームで迫る。

サトノアラジンとの争いで消耗したワンアンドオンリーに余力は残っていない。

残り100mで身体が並び、サウンズオブアースの鼻先が前に出る。

勢いは完全に外2頭。ワンアンドオンリー、王者陥落か──。

次の瞬間、再びワンアンドオンリーの身体に再び力が宿った。

完全に勢いで勝るライバルをがっぷり四つで受け止め、食らいつき、そして再び力強く押し返し始めた。もう彼の身体はライバルの影に隠れて殆ど見えないけれど、闘志の炎が未だ消えていないことだけは伝わってくる。

最後の力を振り絞るように、ワンアンドオンリーはもうひと踏ん張り、ふた踏ん張りを見せる。

ワンアンドオンリーか、サウンズオブアースか、トーホウジャッカルか…ファンの思いが交錯する中で、3頭は競い合いながら、もつれるようにゴール板を駆け抜けた。

入線の瞬間、ワンアンドオンリーの鼻面はほんの少しだけ、ライバルたちに先んじていた。

ワンアンドオンリーは迫りくるライバルたちをなんとか凌ぎ切り、ダービー馬に相応しい勲章を一つ手に入れた。


続く菊花賞、私は京都競馬場でワンアンドオンリーとの対面を果たした。

ワンアンドオンリーは伸びやかに周回しているようにも見えた。だが、闊達に歩くトーホウジャッカルやサウンズオブアースらと比べると、発汗が目立ち、周囲をたびたび伺い、どこか散漫なようにも見えた。

神戸新聞杯で力を振り絞ったワンアンドオンリーに、多くの力は残っていないように見えた。

レースでは不運も重なった。外枠を引き当てたワンアンドオンリーは、前に馬を置けないまま外々を回る形となる。サングラスが速いペースで馬群を先導する中で、ワンアンドオンリーはエキサイトした様子でホームストレッチを駆け抜けていく。

2周目の下りでシャンパーニュが早めのスパートを開始する。緩むことのないペースを外々で追走し続けたワンアンドオンリーは、世代王者として更に一歩早く踏み込むことを強いられる。それでも格好を作り、4角で前を射程圏に入れ、横山典弘騎手はGOサインを送る。

……だが、彼の菊花賞はそこまでだった。

道中で体力を使い果たしたワンアンドオンリーはそこからの脚を使うことが出来なかった。

トーホウジャッカルがレコードで駆け抜け、サウンズオブアースが再びの銀メダルに唇をかむ中、神戸新聞杯で両者を退けたワンアンドオンリーは力なく馬群に沈んでいった。

以降の戦績は、彼の競走生活が終わった今となっては、長く、少し寂しいエピローグに思える。

ダービー馬として、彼は国内外を行脚し、挑戦を重ねた。だが彼の身体に再びあの日の気迫と根性が宿ることは無かった。彼はついに再び勲章を手にすることは無かった。

ワンアンドオンリーはこの先も「名伯楽に悲願のダービータイトルを贈った馬」として語られるかもしれない。

それはワンアンドオンリーを取り巻くドラマの中で、かけがえのない大切な1ページである。

だが私は、ワンアンドオンリーを語り継ぐ”もう一つの物語”として、死力を振り絞った神戸新聞杯のことも忘れずにいたい。

ロングスパートで食い下がるライバル達を封じ込め、出し抜こうと切りかかったライバル達を制しきったあの日のワンアンドオンリーの走りは、間違いなく横綱の立ち振る舞いであり、ダービー馬の名に相応しいものだった。

彼が示したのはダービー馬の誇りと矜持。

苦しい状況から繰り出されたラスト数完歩の鬼気迫る走りは、紛れもない彼の意地とプライドだった。

ワンアンドオンリーはやっぱり…いや、疑う余地もなく、唯一無二の強さを持つ王者だった。

写真:norauma

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