
研ぎ澄まされた小さな馬体が、極限までしなり、解き放たれる。
瞬間、加速する。少しでも大きなストライドで、少しでも早いピッチで。
その蹄音がライバルを飲み込んでいく。
道が閉ざされれば、すべてが終わる。刹那の判断が、運命を決める。
放たれた光の行く末は、誰も知る由もない──。
追い込みを得意とする馬はいつだって不自由だ、と思うことがある。
次の一歩が敗着かもしれない。最後まで道は開かないかもしれない。どんでん返しの結末は最初から用意されていないかもしれない。
それでも彼らは、誰よりも速く駆け抜けられると信じる。ペースも進路も、先行馬たちにただ委ねるのみ。ライバルにレースの主導権を渡し、与えられた運命に挑む。ただ一瞬の輝きに全てを賭け、己の時が来るその瞬間を待つ。
歴史にその名を刻んだ追い込み馬は数多い。
その中でもナリタタイシンの末脚には、ある種のカタルシスがあった。
小さな身体に宿した、大いなる魂。
彼は、身を削るかの如き激烈な末脚を以って、駆け抜けた。
運命の3強が覇を競った、燃え上がるクラシックの舞台を──。

1990年6月10日。馬産地の出産シーズンもすっかり終わった北海道新冠町。川上悦夫氏の牧場で一頭の鹿毛馬が産声をあげた。
彼がこの世に生を受けたとき、同期たちはすでに青草を食み、大地を蹴り、競走馬としての第一歩を踏み出していた。アスリートである競走馬にとって、遅生まれは大きなハンデキャップとなる。その小さな命に期待と不安が入り混じっていたことは、想像に難くない。
この若駒が秘めた才能を、この時点ではまだ誰も知らない。
その脚が、運命を切り拓くことになるのだと。
育成期間を経た彼は、「ナリタタイシン」の名を授かり、栗東の名門・大久保正陽厩舎の門を叩いた。古くは「気まぐれジョージ」ことエリモジョージや、中央競馬の全競馬場を行脚したヤマノシラギクを輩出した名伯楽。ナリタタイシンのデビュー直前には、個性的な逃げ馬メジロパーマーがグランプリを制し、厩舎を熱く沸かせていた。
遅生まれという点を差し引いても、ナリタタイシンの馬体は大きくならなかった。3歳(旧馬齢)7月に初めて競馬場に現れた彼の馬体は422キロ。500キロを超える馬も珍しくないサラブレッドの世界では華奢とも言えよう。牡馬としては、なおさらである。だがその心には、どんな巨体にも怯まぬ闘志を宿していた。
札幌芝1000m。1番人気の支持を受けた初陣は先行策から伸びを欠き6着に終わった。だが3ヶ月の休みを挟んで初勝利を挙げると、きんもくせい特別5着、福島3歳ステークス2着、千両賞2着。2か月の間で3度の福島遠征を含む4度の出走を重ねた。ナリタタイシンはハードな日程にもへこたれず、実戦を通じて、心も体も鍛えぬいていった。
目覚めのとき、静かなる決意
そんなナリタタイシンの最初期を支えた立役者として、清水英次騎手を忘れてはならない。
かつてトウメイ、テンメイの母子やリーゼングロスを駆りビッグタイトルを獲得した名手は、この時既に40代後半。大ベテランの域に達してなお、精力的に騎乗を続けていた。
若き日のナリタタイシンは、デビューから7戦のうち5戦を清水騎手と共に戦った。その成績は2勝2着3回。ほぼパーフェクトな成績を収める中で、ナリタタイシンは清水騎手から競馬を教わり、彼の中に眠る「末脚」という武器を磨き上げていった。
競走中の事故から復帰叶わず、静かに鞭を置いた名手、清水英次──ナリタタイシンが一頭の競走馬として成熟するために、氏の導きは欠かせなかった。
そして千両賞から、わずか一週間。ナリタタイシンは疲れをみせることなく、連闘でラジオたんぱ杯3歳ステークスへ駒を進めた。2戦2勝の評判馬やオープン勝ちの実績を誇るライバルを前に、目立つ戦績のないナリタタイシンは脇役の評価に留まっていた。
だが、地道に経験を重ねる中で強さを増したナリタタイシンは、ついに真価を発揮する。
道中は最後方を追走。3角からじわりと馬群を縫ってポジションを上げる。直線入り口、トップギアを入れた瞬間、他馬と接触し、進路が塞がる。
致命的なロス。しかしナリタタイシンの瞳は、なおも前だけを見据えていた。
瞬時に体制を立て直して狭い隙間に迷いなく飛び込むと、あっという間に馬群から抜け出し、先頭に迫る。阪神の急坂を迎え、その脚はなおも加速する。420キロ台の小さな身体のどこに、こんな爆発的な力が眠っていたのか。ファンも驚嘆する末脚で重賞タイトルを射止め、クラシック戦線に名乗りを上げた。
遠ざかる影、それでも
明けて1993年。クラシック戦線は群雄割拠の大混戦だった。
その中心に、ウイニングチケットがいた。トニービンの初年度産駒にして藤原牧場が誇る名牝スターロッチの末裔。黒鹿毛の馬体に長い手脚が印象的な、少し細身で気品の漂う馬だった。柴田政人騎手にダービージョッキーの称号を──。彼のポテンシャルに、大きな期待が寄せられていた。
そして、ビワハヤヒデがいた。芦毛の雄大な馬体に大きく見える顔と太く見える手脚。どこかユーモラスで愛嬌を感じさせる出で立ちとは裏腹に、競馬場ではレコードを次々と塗り替えた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーンと続く芦毛伝説の継承者として、早くから頭角を顕していた。
この2頭を中心に魅力あふれる個性派が次々と名乗りを上げ、多様でハイレベルな戦いが続いていた。
ナリタタイシンは翌年のシンザン記念でスローペースに泣き、アンバーライオンの影をとらえきれずに2着惜敗。次走・弥生賞で、ナリタタイシンは新たに武豊騎手とコンビを結成する。
立ちはだかるのはウイニングチケット。
世代トップのライバルを前に、力試しの一戦だった。
ゲートを飛び出すとスッと後方に控えたナリタタイシン。清水騎手がナリタタイシンと育んできたバトンをしっかりと受け継ぎ、武豊騎手は末脚に懸ける。次の瞬間、場内が俄かにざわめく。これまで好位からの競馬をしていたウイニングチケットが、まさかの最後方にポジションを取ったのだ。ナリタタイシンのさらに後ろに控えている。
先行三騎が後続を大きく引き離し、馬群が二手に分かれ、迎えた3角。ウイニングチケットが最後方から一気に進出する。ここで相手を勢い付ければ逆転のチャンスは来ない。呼応するようにナリタタイシンもスパートを開始し、2頭は馬体を併せて、一気に他馬を呑み込む。
迎えた直線。ナリタタイシンは必死に脚を伸ばした。ライバルはただ一頭。だがウイニングチケットの勢いは、ナリタタイシンの末脚を以ってしても止まらない。早々と先頭を奪われると、差は広がる一方。必死に食らいつくが、ウイニングチケットの背は、無情にも遠ざかる。
2馬身の2着。完敗だった。
この敗戦は、ナリタタイシンに一つの示唆を与えた。
ロングスパートではウイニングチケットに叶わない。そしてナリタタイシンは真の爆発力は影をひそめた。同じ轍は踏めない。ならば……。
逆転の策を胸に、ナリタタイシンは静かに闘志を燃やしていた。本番は1か月先に迫っていた。
約束の春、中山を切り裂く閃光
1993年4月17日。春の陽光が降り注ぐ、中山競馬場。
後世では3強と謳われることになるクラシックも、この時点では2強の構図だった。
ウイニングチケットの最大のライバルはビワハヤヒデ。朝日杯3歳ステークスと共同通信杯を惜敗したあと、岡部幸雄騎手にスイッチした若葉ステークスを盤石の強さで快勝。改めてその強さを満天下に示した。単勝オッズはウイニングチケット2.0倍、ビワハヤヒデ3.5倍。ナリタタイシンは3番人気ではあったが、2強から水をあけられた9.2倍に留まった。ウイニングチケットに千切られた弥生賞の結果から、逆転は難しい、それが戦前の下馬評だった。
だが、陣営は白旗を上げていたわけではない。2強にも決して劣らぬ能力を信じ、ナリタタイシンをターフに送り出した。小さな身体に宿る、大きな可能性を信じて。そして、名手の導きがその才能をついに開花させる──。
金属音が響く。大歓声の中、ゲートが開いた。
最序盤のポジション争い。ホームストレッチでの各馬の攻防が映し出される。大外枠のビワハヤヒデは内に切れ込みながら好位に取りつく。内枠のウイニングチケットは馬群の切れ目を見つけ、中団インに潜り込んでいる。理想的なポジションを確保する2強にファンの歓声が響く。
縦に伸びた隊列が1コーナーに突入する。17頭の後ろ、その最後尾に、ナリタタイシンと武豊騎手の姿があった。
中山の短い直線、そしてそびえ立つ17頭の壁を前に、絶望的な位置取りに思えた。だがそれは、弥生賞を踏まえた秘策。ナリタタイシンの力を最大限に引き出す賭けだった。
勝負所を迎えると、弥生賞の再現を狙うように、ウイニングチケットが外から進出する。ライバルの影を感じたビワハヤヒデも早めにギアを上げ、逃げ馬を早々に射程にとらえる。ナリタタイシンはまだ後方で仕掛けを待っていた。
そして、最後の直線。ビワハヤヒデが敢然と先頭にたつ。直後からウイニングチケットが脚を伸ばすが、弥生賞ほどの爆発力がない。内ラチ沿いからシクレノンシェリフが忍び寄り、他馬を弾き飛ばしてガレオンが迫る。だがビワハヤヒデの脚色は衰えない。勝負は決したか…。
──次の瞬間、一陣の風が馬群を切り裂いた。
4角でもまだ後方12番手に居たナリタタイシンだ。弥生賞の敗戦を踏まえ、ナリタタイシンと武豊騎手は、短い直線にすべてを賭ける競馬を選んでいた。ギリギリまで我慢を重ね、300メートルの短い直線で持ちうる力の全てを開放する。
先行馬群がひしめき、幾重にも行く手を阻む。ナリタタイシンは大地を強く蹴ることにのみ集中し、小柄な馬体のすべてを使って躍動する。武豊騎手は的確な判断で進路を選び、ナリタタイシンをサポートした。
一つの光となった人馬は、馬群を捌き、あっという間に先頭に迫る。
目の前には中山の急坂。ライバルの脚が鈍る。並ぶ間もなくウイニングチケットをパスし、次の一歩でシクレノンシェリフを切り捨て、次の一歩でガレオンを捉える。
残るはあと一頭、ビワハヤヒデだった。残り数十メートルの攻防。
勢いの差は歴然であった。ゴール寸前でビワハヤヒデと鼻面を並べ、次の瞬間、一歩、もう一歩──ナリタタイシンは力強く抜け出す。

ゴールを駆け抜け、着順掲示板の一番上に輝く「14」の数字。
ナリタタイシンの勝利を告げていた。
ビワハヤヒデ、ウイニングチケット。
2強と目された両雄を、ナリタタイシンは閃光の末脚で上回った。
世代屈指の武器、誰にも負けない究極の末脚。
この日、この瞬間──語り継がれる「3強」の戦いが、真の意味で幕を開けた。
皐月賞のあとも、ナリタタイシンは戦い続けた。
日本ダービーでは再び自らの競馬に徹し3着。ウイニングチケット、ビワハヤヒデと再び互角に渡り合った。
運動性肺出血の影響で体調を崩した菊花賞は、フラつきながらゴールに辿り着くのがやっと。だが、翌年の目黒記念では58.5キロの酷量をものともせず、力強い末脚で復活を果たした。続く天皇賞・春ではビワハヤヒデと再戦。馬群から飛び出し、最強への道をひたはしるビワハヤヒデにただ一頭、迫った。
小柄な馬体も災いし、種牡馬として目立った産駒に恵まれることはなかった。だが、その生涯は最後まで暖かな日差しに照らされていた。2003年の種牡馬引退後は日高町のベーシカル・コーチング・スクールで余生を送り、2020年に30歳でこの世を去るまで、長く功労馬として生き続けた。

若草が芽吹く皐月の頃。私はいまもときどき、彼の姿を思い出す。
追い込み馬の宿命に抗い、ただ勝利を求めた、小さな勇者のことを。
一心不乱に前を見つめ、小さな身体を目一杯に伸ばしていた彼を。
血の一滴まで燃やし尽くすかのように、閃光の如く駆け抜けた彼を。
あの日見た眩い煌めきは、今も私の心を離さない。
Photo by I.Natsume