[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]今を生きる(シーズン2-9)

ルリモハリモの能力試験から3日後、張田厩舎を訪れました。朝8時。この日は打って変わって、ポロシャツでは肌寒く思えるほどの気温です。これだけ寒暖差があると、馬たちも体調を崩してしまわないのか心配になります。

船橋競馬場に隣接した場所に厩舎地区はあり、JR南船橋駅を出て、右手からグルっと回って、歩道橋を渡ったところに厩舎関係者の入口はあります。警備員に馬主証を見せて、張田厩舎に行きたいことを伝えると、「この道を真っすぐ行って、右に曲がって、いちばん奥が張田厩舎だよ」と丁寧に教えてくれました。

言われたとおりに歩いていくと、厩舎地区ごとにアルファベットと数字で区分けされているのが分かります。調教帰りの馬たちが、人間を背に、あちらこちらを歩いているのが目に入ってきます。張田厩舎はD-1ですから、まずはD地区まで行って、そこから1番地を探せば良いことになります。

僕は高校1年生の冬休みに、お歳暮の配達のバイトをしたことがあり、何丁目、何番地の何号という住所から場所を見つけ出すのは得意です。その当時は、グーグルマップやナビなどありませんでしたから、ひたすら地図と看板に記されている丁目や番地を頼りに荷物を届けなければいけませんでした。そのせいか、今でもグーグルマップを使うことに抵抗感があります。テクノロジーの発達についていけてないオジかよと思われるかもしれませんが、何丁目、何番地、何号と少しずつターゲットを絞って特定していくのが楽しくもあるのです。

あっという間にD-1地点に到着しました。「目的地に到着しました」とグーグルマップの道案内を真似て、独り言をつぶやいてみます。看板が出ていないので、馬を洗っている人に「張田厩舎はどちらですか?」と念のため尋ねてみると、「ここですよ。どういったご用件でしょうか?」と聞かれたので、「ルリモハリモの馬主です。張田先生はいらっしゃいますか?」と言うと、「今さっき出て行ったところです」と返ってきました。「それじゃあ、ここで待ちますね」としばらく待つことに。

僕が入ってきたのは裏側だったらしく、表に回ると張田厩舎の看板がありました。写真を撮っていると、どこからか猫がやってきて僕を見ています。「おまえ、見かけない顔だけど、さては新入りの馬主だな。それにしては金持ってなさそうな面してるな。まあそんなに肩ひじ張るなや」と言われているようでした。

しばらくしても張田先生がいらっしゃらないので、先ほどの厩務員さんにルリモハリモの馬房を教えてもらうために声を掛けようとすると、ひと仕事終わったのか、「まだ来ないですね?」と向こうから聞いてくれました。

「連絡してみますね」と厩務員さんが張田先生の携帯に電話をすると、僕たちの真後ろで着信音が鳴り響きました。「あれっ、携帯置いていったのかな」と見てみると、厩舎の入口のところに携帯が差してあるではありませんか。これでは連絡の取りようがありません。そこで厩務員さんは、遠くにいたスタッフに声をかけて、「ルリモハリモの馬主さん。連れて行ってあげたら」と僕を紹介してくれました。「ルリモハリモの馬主です。よろしくお願いします」と挨拶をして、もう一つ向こうにある厩舎に連れて行ってもらうことになりました。

久しぶりに会うルリモハリモは、馬房に入って飼い葉を食べていました。「牧場を出たときはソコソコあったみたいですが、こっちに来たときはかなり細くなってしまっていて、少し戻ってきましたがギリギリですね。でも、食欲はあって、今まで全て完食していますよ。気性がカッカしているので、実にならないのが現状です」と的確に今のルリモハリモの状態を教えてくれました。そして最後に、「可愛い馬ですよ」と言ってくれました。

先日の能力試験で所騎手から話を聞いたときにも感じた、ルリモハリモのことを分かってくれているデジャブ感を抱きました。それもそのはず、あとから分かったのですが、彼がルリモハリモの厩務員さんでした。そして、普段の調教をつけてくれているのが所騎手とのこと。だから分かって当然ということではなく、自分たちが携わっている馬のことを両者ともきっちりと把握していて、安心して任せられそうです。

僕たちが話をしている間もルリモハリモはずっと食べています。彼の言うように、食欲は旺盛なようです。母ダートムーアもそうですし、妹の福ちゃんもそう。この牝系の良さは食欲にもあるのかもしれません。気性のカリカリしたところが落ち着いてくれば、食べたものが実になって、体もグッと大きくなるのではないでしょうか。

それよりも気になったのは蠅(ハエ)です。飼い葉桶の周りだけではなく、食事中のルリモハリモの顔の周りにも数十匹のハエが飛び回り、まとわりついています。動画を撮影している僕の手にも集(たか)って来るほど。皆さんは驚かれるかもしれませんが、僕はやっぱりそうなのだと感じました。

今から15年ほど前、「ROUNDERS」vol.1をつくるため、船橋競馬場のある厩舎を訪ねました。心を痛めた馬が再生されていく物語を書きたいと思っていて、結果的にこの話は流れてしまいましたが、僕にとっては初めて馬屋というものを訪れた機会でもあり、今よりもずっと緊張していました。

厩務員さんから話を聞きながら、おびただしい数のハエに驚かされたことを覚えています。あまりにも大群なので、止まったハエを払うどころの騒ぎではなく、ハエの中で取材しているようでした。15年の歳月が流れても、ハエの数は少なくなっていますが、何も変わっていないのです。

夏の暑さが残る時期的なこともそうですし、海がすぐ近くにあることで、ハエが大量発生しやすい環境なのかもしれません。衛生状態がどうこうではなく、土地柄どうしようもないことなのでしょう。馬たちはそれほど気にしていない様子でしたから、僕が気にしてどうなるものでもありません。それよりも、馬をしっかりと鍛えて強くしてくれる方が優先です。

ルリモハリモの鼻面を撫でながら撮影していると、張田調教師がやってきました。「はじめまして。すみません。先に見させてもらっています」と言うと、はにかんだような笑顔で返してくれました。職人気質な人なのだと思います。ジョッキーとして34年間、通算2600勝を挙げ、重賞を65勝と活躍した名ジョッキーであり、ベテラン調教師であるにもかかわらず、偉そうな部分もありません。まだ掴みどころがないのですが、コミュニケーションを取りながらルリモハリモを育て、少しずつ互いに理解を深め、懐に飛び込んで行ければ良いなと思いました。

張田調教師の提案でルリモハリモは馬房から出され、目の前で見せてもらうことになりました。9カ月ぶりに見るルリモハリモは僕からすると立派になったなと感じますが、張田調教師は「ガリガリだな」と言います。オブラートに包まず、思ったことをそのまま口に出すのは、正直さゆえでしょう。

内心ではガリガリだなと思っているのに、「ちょうど能力試験が終わったばかりなのでこんな感じですが、2、3日したら戻ってきますよ」と言われるよりも、良いものは良い、悪いときは悪いと言ってくれる方が馬主としては現状把握がしやすいです。さすがに厩務員さんは、「これでも入厩した頃に比べるとふっくらとしてきているんです」とフォローしてくれました(笑)。

「このままデビュー戦に向かった方が良いのでしょうか。それとも一度、立て直してからの方が良いのでしょうか?」と僕は単刀直入に聞いてみました。張田調教師は「使えるときは、このまま使った方がいいね」と即答してくれました。そう来るとは思っていましたが、張田調教師がそう言うと説得力があります。これまでの経験からそうおっしゃっているのでしょう。

映画「今を生きる」の有名なシーンがあります。ロビン・ウイリアムス演じる教師キーティングが、若きエリート学生たちに詩の一小節を詠ませます。

To the virgins, to make much of time.
Gather ye rose-buds while ye may.
Old time is still a-flying,
And this same flower that smiles to-day, To-morrow will be dying.

女の子たち、時間を無駄にしてはいけません
バラのつぼみは摘めるうちに摘みなさい
時間はあっという間に過ぎ去ってしまう
今日は笑っているこの花も、明日には枯れてしまうだろう

そして、キーティング先生はこう付け加えます。

Carpe diem(カルぺ・ディエム)

ラテン語で直訳すると「その日を摘め」という意味の、古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する言葉です。「今を生きよ」。何ごとも後回しにしがちな性格の僕は、この手のことわざや格言にハッとさせられることがあります。時間をかけて待つことばかりが良いとは限らないのです。明日まで待ってしまうと枯れてしまうかもしれない。今日摘める花は今日摘まなければならない。命あるものは特に。

「Carpe diem(カルぺ・ディエム)」

そう言う代わりに、張田調教師は厩舎に貼ってある予定表のようなものを指し示しながら、「金曜日。1200mだね」と教えてくれました。10月の船橋開催の最終日、10月3日の新馬戦でデビューです。

帰り道は、張田調教師が出口まで案内してくれました。余計なことを言わず、ぶっきらぼうな一面はあっても、優しい人なんだなと思いました。「10月3日は競馬場まで行きますし、また調教を見たいので厩舎にも来させてください」と別れ際に言うと、イエスともノーともつかない微妙な笑顔で頷いてくれました。最近は、ハキハキと物を言って弁が立つ、ビジネスマンのような調教師が活躍していますが、張田調教師のような昔気質の調教師と一緒に世界を共有できるのも、馬主としての醍醐味かもしれません。張田調教師の満面の笑みが見たいと思いました。

(次回へ続く→)

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