厳寒の川崎記念に、ホクトベガの「旅」を想う

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。

(現代語訳)
月日は永遠に旅を続けて行く旅人であり、毎年来ては去り、去っては来る年も同じく旅人である。舟の上で波に浮かんで一生を送る船頭や、馬の轡(くつわ)を取って街道で老年を迎える馬子などは、毎日旅に身を置いていて、旅そのものを自分の住処(すみか)としている。

「おくのほそ道 全訳注」久富哲雄 講談社学術文庫 P.13,14

不世出の俳諧師、松尾芭蕉の言を引くまでもなく、生きることを旅に例える言葉は多い。

いま、こうしている間にも滔々と流れゆく時間。
毎年めぐり、過ぎゆき、そしてまた訪れる季節。
人の生きざま、ありよう、そして死に方。
あるいは──サラブレッドの走り、紡がれる血、そして遺した足跡。

それらすべてが、旅であり、また旅人であるといえる。

生きることは旅であり、走ることもまた旅である。
その逆もまた然りで、旅をすることは生きること、そして走ることでもある。

旅をするように、その生涯を送ったサラブレッドがいる。
芝に、砂に。
中央に、地方に。
数多くの競馬場に旅をしたそのサラブレッド、ホクトベガ。

気ままに旅をすることも、ふと競馬場の熱気を浴びに行くこともままならない、いまの時世。

そんなときだからこそ、旅に生きた彼女の走りに、想いを寄せてみたい。

時に1997年、2月5日。

ようやく立春を過ぎた厳寒期の川崎競馬場。
第10レース川崎記念、ダート2,000mのゲートが開く。

向こう正面からのスタート、歴戦の古馬11頭は揃った発馬を見せる。

小回りコースの短い向こう正面を使っての、先行争い。
押して先手を取ったのは、名古屋のマジックガール。

番手には、2年前のこのレースを制していた船橋のアマゾンオペラと石崎隆之騎手。
その横に、1993年の東京ダービーの覇者で、岩手に移籍していたプレザントの芦毛の馬体が並んでいる。

そしてその後ろに、1番人気のホクトベガと横山典弘騎手はいた。

牝馬8歳、41戦目。
とうに衰え、引退して繁殖牝馬となっていてもおかしくないその馬齢にもかかわらず、彼女は圧倒的な1番人気を集めていた。

3番人気の古豪・キョウトシチ―と松永幹夫騎手が、最内から淡々と追走していく。
先の年末の大一番・東京大賞典を制し、勢いに乗っている。

中団には2番人気のイシノサンデーと四位洋文騎手。
前年の皐月賞を制しながら、秋には盛岡でダービーグランプリを勝ち、話題になっていた。

その外には、大外枠から船橋の女傑・マキバサイレントが追走。
間からは古豪・アドマイヤボサツと南井克己騎手、そして大井のセントリックと宮浦正行騎手が続く。

さらには大井の雄・コンサートボーイと的場文男騎手も中団から。
最後方からになったのは、3年前の東京ダービー馬・カネショウゴールド。

4コーナーを回って、早くも馬群は1周目のスタンド前を通り過ぎる。

のそり、とホクトベガは動いた。
先頭を行くマジックガールに、並びかける。

ホクトベガは、1コーナーに入る前あたりで早くも先頭に躍り出た。

力強くも、確信に満ちたその走り。

その走りには、これまで彼女が積み重ねてきた 旅の風景が、力強さを与えていたのだろうか。


ホクトベガの旅は、1990年に生を受けた北海道・浦河町の酒井牧場から始まった。

父・ナグルスキーは、偉大なるニジンスキー直系であり、1991年にJRA最優秀ダートホースに選出されたナリタハヤブサなど、多くのダートホースを輩出した。
母・タケノファルコンは、中央で6戦2勝の成績を残している。

美浦の中野隆良厩舎に入厩したホクトベガは、4歳1月にデビューし新馬勝ちを飾る。
その後4戦目でGⅢ・フラワーカップを制するも、桜花賞・オークスはともに同じ織姫星の名を冠したベガと武豊騎手の後塵を拝する。

彼女が、最初にその名を世に知らしめたのは、同じ年の秋だった。

ホクトベガが4歳だったその1993年当時、まだ秋華賞はなく、牝馬三冠の最終戦は京都・2,400mで施行されていたエリザベス女王杯だった。

トライアルを勝ち切れず、9番人気の低評価に甘んじていたその最終戦で、ホクトベガは最内からするすると抜け出し、先行するベガとノースフライトを差し切って戴冠。
ベガの三冠達成を阻み、GⅠ初制覇を成し遂げた。

翌年、5歳の夏には牡馬を相手に札幌日経オープン、GⅡ・札幌記念と連勝を飾るも、その後は勝ち切れない、悶えるようなレースが続いた。

その当時、ホクトベガのようにGⅠを勝った古馬牝馬には、レース番組の選択肢が乏しかった。

秋華賞の設立とエリザベス女王杯の古馬牝馬への開放が、1996年。
ヴィクトリアマイルも、もちろんまだない。

ハンデ競争や別定戦では、重い斤量を背負わされる。
さりとて定量戦に出ようと思えば、一線級の牡馬と走るしかない。

マイルまでならまだしも、底力とスタミナの要求される中距離においては、やはり牝馬は劣るというのが、当時の常識だった。
ウオッカも、ブエナビスタも、ジェンティルドンナも、アーモンドアイも、まだデビューすらしていない時代のことだ。

行き詰った旅の活路を見出すため、陣営はGⅠ馬としては異例の障害競走への転向も検討し、飛越の練習もさせていたという。実際に障害競走に出走することはなかったが、それでも彼女の新しい旅の方向を模索していたのは確かだろう。

──未踏の地を探して。
陣営の模索は、続いた。
その時間もまた、旅路の一部だったのかもしれない。


転機は1995年、6歳の6月に出走した川崎競馬場のエンプレス杯だった。

折しもこの1995年は「交流元年」として、中央競馬と地方競馬の交流を活発にするため、多くのレースが交流競走に指定された。

活路を模索するホクトベガ陣営は、6月の川崎競馬場で行われるエンプレス杯に出走を決めた。
同レースには、ホクトベガの1歳下で、同じエリザベス女王杯を勝っていたヒシアマゾンも登録して話題となったが、実際には中央からはホクトベガのみの出走となった。

ここでホクトベガは、初めてのナイター、そして不良馬場をもろともせず、鬼神のごとき走りを見せる。
2着のアクアライデンに、実に3秒6もの大差をつける圧巻の走り。

いまも語り草となる、砂の女王が誕生したレースだった。

その後、再び芝路線に戻るものの、惨敗するレースが続いたため、翌1996年は陣営も腰を据えて、ホクトベガは砂の旅を歩み始める。

1月24日、川崎・川崎記念、1着。
2月17日、東京・フェブラリーステークス、1着。
3月20日、船橋・ダイオライト記念、1着。
5月5日、高崎・群馬記念、1着。
6月19日、大井・帝王賞、1着。
7月15日、川崎・エンプレス杯、1着。
10月10日、盛岡、南部杯、1着。
エリザベス女王杯4着を挟んで、12月4日、浦和・浦和記念、1着。

距離も、馬場状態も、相手も、全く関係なし。
前年のエンプレス杯から数えて、交流競走をなんと9連勝。

ライバルたちとの名勝負は競馬の魅力の一つだが、飛びぬけて速く、美しいただ一頭の走りもまた、競馬の大きな魅力である。

ホクトベガは、見る者を呆れさせるくらいの強さだった。
彼女は走るたびに、多くのファンを競馬場に呼んだ。
その強さ、美しさを一目見ようと、多くのファンが地方競馬場に詰めかけ、入場者数のレコードを記録した。

芝での栄光と、その先の蹉跌。
そして、新しい砂の世界。

川崎記念の施行される川崎競馬場は、そんなホクトベガの砂の旅の出発点だった──。


──のそり、のそりとホクトベガは先頭に立って、川崎記念の1コーナーに入っていく。

500キロを超える雄大な馬体を躍らせる様は、まるで大ぶりの鉈を振るうようだ。

2周目の向こう正面に入り、プレザント、アマゾンオペラ、キョウトシチ―も差を拡げられまいとペースを上げる。

コンサートボーイも中団から押し上げてくる。

小回りでカーブがきつい、川崎競馬場だ。
3コーナーに入る前に差を詰めておかなければ、そのまま押し切られる。

後続各馬の思惑は、同じだ。

しかし、ホクトベガ先頭は変わらず、3コーナーから4コーナーに差し掛かる。

直線を向いた。

ホクトベガはまっすぐに、力強く伸びた。

そして、千切った。

縦横、無尽。

キョウトシチ―が追いすがるが、差は広がっていく。
コンサートボーイも中断からよく追い込んできたが、すでに大勢は決していた。

ホクトベガ1着。
これで交流重賞を、10連勝。

彼女の砂の旅の出発の地で見せた、圧倒的な強さ。
その視線の先には、中東の地が、映っていたのだろうか。

ホクトベガ、1997年川崎記念を制す。


江戸、奥羽、北陸と旅を続け、いくつもの俳諧とともに、比類なき紀行文学の高みを築き上げた、松尾芭蕉。

その最期は、大阪への旅の途中で、病に没した。

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

辞世の句は、病に伏せながらも、なお旅への情熱を隠せないでいる。
旅に生きた芭蕉らしい、最期にも見える。

同じように、旅に生きたホクトベガ。
彼女は川崎記念を快勝したあと、遠くドバイで行われる第2回ドバイワールドカップへの遠征を敢行した。

年齢的にも、最後の挑戦だったのかもしれない。

前年の記念すべき第1回には、ホクトベガと同じく交流重賞で活躍したライブリマウントが遠征したが、アメリカのシガーから18馬身以上離された6着に敗れていた。

彼女なら、あるいは。

大きな期待を背負ったホクトベガだったが、そのドバイワールドカップのレース中に最終コーナーで転倒、他馬と接触し予後不良の処置が取られることになった。
検疫の都合上、ホクトベガの遺体は帰国することができず、故郷の酒井牧場には彼女のたてがみだけが埋葬されている。

長い旅を続けてきた砂の女王の、あまりにも悲しい旅の終着点だった。

だが、ホクトベガがその生涯をかけた旅路で遺した足跡は、消えることはない。

中山、東京、阪神、京都、札幌、函館、新潟、川崎、高崎、船橋、大井、盛岡、浦和、そしてドバイ。
砂の女王は、いくつもの競馬場を旅した。

その旅を観ようと、多くのファンが競馬場に詰めかけた。
黎明期に、これだけの強い勝ち方を見せるスターホースが現れたことで、中央・地方交流競走は大きな盛り上がりを見せていった。

生涯獲得賞金8億8812万6000円は、ウオッカに抜かれるまで、牝馬の歴代最多賞金だった。

旅を重ねるたび、ホクトベガは力強く、美しく、他を圧倒する走りで、ファンの1番人気に応えた。

その偉大な旅の足跡は、いつまでも消えることはない。


砂のレースが一年で最も美しいのは、大寒から立春に向かう、最も寒いこの時期のように感じる。

寒風を切り裂き、砂塵を巻き上げ、力強く疾駆するダートの猛者たち。
その姿は、殊更に美しい。

その瞳の先に、微かな春の息吹を感じながら。

厳寒のもと、南関東の大一番に、ホクトベガの歩んだ旅路を想う。

今年も、川崎記念がやってくる。

写真:かず

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