ミスターシービー、エルコンドルパサー、ヒシマサル──。
これらの馬に共通する点は何か?
答えは、いずれの馬も我々が思い浮かべる馬の前に「先代がいる」ということである。
それぞれミスターシービーは1934年生まれ、エルコンドルパサーは1989年生まれ、ヒシマサルは1955年生まれの同名馬が存在していた。
馬名は何でもかんでもつけられるというものではなく、いくつか存在する厳密なルールを全てクリアしたものでないと申請が通らない。
同名馬に関しては「GⅠ馬の名前は再使用禁止」だとか「海外の著名な馬の名前は使用禁止」だとか多くの禁止事項が存在していて、使用することはそう容易ではない。
それでいてこれらのオーナー達が「2代目」に固執した理由は、その馬名に並々ならぬ思いがあったからなのだろう。
現に2代目ミスターシービーは日本競馬史上3頭目の3冠馬になり、2代目エルコンドルパサーはジャパンCやサンクルー大賞を勝ち、凱旋門賞では2着に食い込むといった、オーナーの思いが結実した活躍を見せた。
2代目ヒシマサルも、オーナーの並々ならぬ思いが込められた馬だった。
初代ヒシマサルは1958年に、現在のJRA賞最優秀短距離馬にあたる啓衆賞最良スプリンターを授賞。翌1959年の安田記念を制して種牡馬入りした活躍馬だった。
そのため、本来であれば種牡馬入りした馬と同名での馬名申請は通らないのだが、オーナーは血統登録を出生国のアメリカで行い、名前を付けてから輸入することで、2代目を日本で走らせることを可能にした。
2代目ヒシマサルは海を越えてやってきた外国産馬だったのだ。
1991年秋、デビューを迎えたヒシマサルは新馬戦を4着に敗れた後、折り返しの新馬戦で8馬身差の圧勝で初勝利を挙げた。
続く中京3歳Sでは、翌年の日本ダービーでミホノブルボン、ライスシャワーに次ぐ3着に健闘するマヤノペトリュースを相手に、3着に入る。
明けて92年、寒梅賞に武豊騎手を鞍上にして単勝1.4倍の1番人気で出走。
彼の戦績の中で唯一のダート戦、かつ1400mという条件ながら終始後方集団の大外を追走して直線で鋭く伸び1着となり、2勝目を飾る。
今であれば、ここから王道を進み、皐月賞・日本ダービーへと挑戦していくことになっただろう。
しかし、92年当時は外国産馬にクラシック競走への出走資格が与えられていなかった。
ヒシマサルに残された道はいわゆる「裏街道」を立ち回り力をつけ、秋の大舞台で年長強豪馬相手に挑むというものだった。
重賞初挑戦は、きさらぎ賞。
鞍上が田島信行騎手に乗り替わり、前々走の中京3歳Sで後塵を拝したマヤノペトリュースに1番人気を譲る2番人気で出走。
ヒシマサルはスタートで少し遅れるも徐々に先団をを追い、京都名物の坂の手前で好位の後ろにつける絶好の位置でレースを進めた。
坂も下り終わる3〜4角中間、明らかにヒシマサルの手応えが悪くなり、早くも田島騎手の手が激しく動き、鞭が飛んだ。
直後に付けていた1番人気マヤノペトリュースは「もらった!」とばかりにヒシマサルの外に出し、目標にして追い出しにかかった。
──しかし、追えども追えども、その差が一向に詰まることはなかった。
手応えの悪いまま4角を回って直線へ入ったヒシマサルだったが、垂れることなく加速して後続を寄せつけなかったのだ。
結局、後続に馬体を併せることさえさせず2馬身突き放してゴール板を駆け抜けた。
ヒシマサルは重賞初出走初勝利を飾り、同期のスターホースたちにも引けを取らない実力があることを証明してみせたのである。
その後は毎日杯、京都4歳特別といずれも田島騎手を鞍上に、単勝1倍台の圧倒的人気に応えて重賞3連勝。
いずれもきさらぎ賞と同じく、3コーナー過ぎから手が動くも最後まで脚色は衰えないというレースぶりだった。
だが、続くニュージーランドトロフィー4歳Sでは郷原洋行騎手に乗り替わり、同様に1倍台の1番人気に支持されるも、のちのGⅠ馬シンコウラブリイを捉え切ることが出来ずに2着。
休養を挟んで秋初戦、2戦目の京都大賞典とドンカスターSでは、年長馬相手にこれまた単勝1倍台の1番人気に支持されるも連続2着。
ただ、2着ではあるものの、それぞれ京都得意のオースミロッチ、翌年ジャパンCを制するレガシーワールドといった骨のある年長馬相手に差し届かずというレースであり、決して悲観する内容ではなかった。
ここまでのヒシマサルの走りは「荒削り」、「大味」という言葉がぴったりだった。
最後の直線を、鞍上のたったひとつのアクションで瞬時にトップスピードにまで到達するような……いわばF1マシンのような性能は、まるでない。
しかし、3コーナーから鞍上に叱咤されつつ長い助走距離を取ってエンジンを徐々に暖め、ギアを1速から2速、2速から3速とシフトチェンジして加速してゆく。
3コーナーから鞭が入って追い通しであるにもかかわらず、直線半ばでもその勢いは衰えない。
追えば追うだけ伸びていくような──。
「他の馬とはまるで“馬力”が違う」
まさに「外国産」、さながらアメ車のような迫力と重厚感のある走りだった。
そんなヒシマサルが、来たるジャパンCでは道中離れた最後方から4コーナー手前で仕掛けられると、先団を一気に捲るように追い、直線半ばまで食い下がる脚色を見せ、前年の2冠馬トウカイテイオーに加え、2頭の英ダービー馬の他、同年のカルティエ賞年度代表馬と豪州年度代表馬といったジャパンC史上屈指とも言われる好メンバーを相手に中身の濃い5着に大健闘した。
それまでのレースでは、道中で集中力を欠き一気ギアをあげられなかった馬が、世界の強豪を目の前にして初めてまともに“競馬”をしたのである。
しかし、ようやく追いついた精神と身体の全てが上手く噛み合うことがないのが、この世界の常である。
次走の有馬記念では3番人気に支持されるもメジロパーマーの逃げ切りの前に9着と惨敗。
古馬になっていよいよというところで屈腱炎を発症。
約1年の休養を経て復帰するも以前の走りを取り戻すことはできず、そのレースを以て志半ばで現役を退いた。
昨今、日本馬のレベルは世界水準に到達した。
ジャパンカップですら外国馬にさらわれていた1990年代前後とは異なり、毎年のように日本馬が海外GⅠへ遠征を敢行し──もはや、勝つことですら、そう珍しいことではなくなった。
ドバイワールドカップデーや香港国際競走ではもはや日本馬の名前を聞かない年はないし、ヨーロッパやそれ以外の国々でも日本馬、また日本生産馬が活躍している。
日本競馬は凄まじい勢いで世界との距離を縮め、今や、それを追い越そうとしている。
いや、むしろ条件によってはもうすでに追い越しているのかもしれない。
日本競馬界として競走馬レベルの底上げはもちろん喜ばしいことではあるが、それは一方で「血統の多様性」と、ヒシマサルのような「強い外国産馬」を減らすことにも繋がっているようにも思う。
一定の種牡馬に種付数が集中し、日本馬特有の切れ味鋭い競走馬が増えている。
「速い馬を生産する」という競馬の使命においては、血統が淘汰されるのもその摂理として仕方のないことだと頭では理解しながらも、何か物足りない気持ちになってしまうのは私だけだろうか。
私はたった1度だけ2代目ヒシマサルを目にしたことがある。
2017年11月4日、うらかわ優駿ビレッジAERUの洗い場で集牧後の手入れをされている姿だった。
「随分古い形の馬だな」
そう思ったのを今でも強く覚えている。
もちろん“ヒシマサル”という名前を知らないわけではなかったが、特段として彼のことを深く知らなかった私は「父セクレタリアト」の文字列を見たその時、「あのセクレタリアトの直仔が日本で生きているのか!」と今までにない衝撃を受けた。
半世紀ほどたった今も世界レコードとして破られていない1973年のベルモントSの驚愕のレコードタイムのイメージもあって、それまでの私にとってセクレタリアトは画面の向こうにだけ存在する「空想上の生き物」に近い、果てしなく遠いサラブレッドだったからだ。
当時、ヒシマサルは28歳の冬を迎えていた。
もちろん最晩年であった彼の馬体は若い時のそれとはかけ離れていたのかも知れないが、彼から感じられる骨格は素人目に見ても現代の競走馬のものとは明らかに違っていた。
ヒシマサルのような今や「化石」のようになってしまった血脈の馬に出会った時、どれだけ探しても見つからなかった探し物をやっと見つけた時のようなホッとした優しい気持ちと、今まさに消えようとしているロウソクの火を眺めているようなどこか物憂げな気持ちとの板挟みになる。
今まで見てきた馬たちとは一味違った彼のその馬体にサラブレッドの歩んできた歴史の縮図とあれだけ遠い存在だった“セクレタリアト”をすぐそこに感じ、サラブレッドという生き物、そして血統の面白さを再確認させられたのであった。
令和になってからも、シンボリクリスエスが、そしてクロフネが、惜しまれつつもこの世を去った。
しかし、近いうちにかつてのヒシマサル、また彼らのような、強い日本馬とはまた違う雰囲気を持つ、外国産馬らしい「未知数のスケールの大きさ」を感じさせてくれる馬が颯爽と現れ、日本競馬を大いに盛り上げてくれることを期待したい。
ヒシマサルに会ってから半年後の夏、再び訪ねた彼の馬房にはニンジンやお花、そしてたくさんの写真に彩られた小さな祭壇が設けられていた。
2018年3月6日、ヒシマサルは29年に及ぶ馬生に静かに幕を閉じた。
祭壇に置かれた記帳はヒシマサルを慕う日本中の方々からのメッセージで溢れていた。
寝藁が片付けられ長年の居住者を失った涼しい馬房から彼がそうしていたように、ふと放牧地の景色を見つめてみた。
彼はいったいこの窓から何を思い、何を見つめていたのだろうか。
「ここで過ごせて良かったな」
海を渡り、その生涯をここ“第2の故郷”日本で終えた彼が、きっとそう振り返ってくれていたであろうことを切に願いたい。
写真:さねちか