[フラワーC]ユーバーレーベン出走に寄せて マイネヌーヴェル、2003年の豪脚

2002年1月20日、私を競馬の虜にしてくれたステイゴールドが、京都競馬場で引退式を執り行った。
ステイゴールドがターフを去ってからその産駒がデビューするまでの約3年半もの間、たくさんの名馬が私を競馬に繋ぎ止めてくれた。

私が夢中になるのはいつも、表舞台を彩るスターたちではなく、どこかもう一歩頂点に足りない──愛さずにいられない馬たちばかりだった。

一人と一頭の名コンビが幾度はじき返されても頂点に向かって挑み続けたり、GⅡ・GⅢで鮮烈な勝ちっぷりを見せても本番のGⅠでは最後まで脇役に甘んじたり、そんな馬たちを応援していた。

今回取り上げるマイネヌーヴェルも、そんな1頭だった。
2003年のフラワーカップで、私は彼女の虜になった。


マイネヌーヴェルは父ブライアンズタイム、母マイネプリテンダー。2000年3月17日、静内町のビッグレッドファームで生を受けた。

母マイネプリテンダーはニュージーランド産馬で、その父はザビール。なんと46頭ものGⅠ馬を輩出した怪物種牡馬である。レース体系は異なるが、日本におけるサンデーサイレンス産駒のGⅠ馬が43頭であることを踏まえれば、その偉大さが垣間見られるのではないだろうか。

シドニー三冠含めGⅠ10勝のオクタゴナル、(メールドグラースが勝った)コーフィールドカップと(リスグラシューが勝った)コックスプレートと(デルタブルースが勝った)メルボルンカップを当時67年ぶりに全て制覇したマイトアンドパワー、2005年春のQEⅡと冬の香港カップを連覇し2年後にはドバイシーマクラシックも勝ち取ったヴェンジェンスオブレイン。綺羅星のごとく活躍馬を輩出したザビールだが、本邦に輸入された産駒は、持込馬を合わせてもわずか10頭。そのうちの1頭がマイネプリテンダーだった。飛行機の窓から見下ろした知らない国の景色は、彼女の目にはどう映っただろうか。

98年、南半球産の宿命である遅生まれのハンディを克服して見事に1勝を挙げたマイネプリテンダーは、翌春より繁殖入り。初仔として生まれたのがマイネヌーヴェルである。

東京競馬場が改修工事の為、中山競馬場に振り替えられた2002年11月開催。
マイネヌーヴェルは、初戦こそ上り最速の末脚を使いながらも差し届かず3着に敗れたが、中1週で臨んだ折り返しの新馬戦では初戦と打って変わって先行策をとる。4コーナーで口向きの悪さを見せたが、鞍上の武豊騎手が落ち着いてリカバリーし、直線押し切って見事初勝利を挙げた。
そして3戦目に選んだのは、当時オープン特別だったホープフルステークス。

圧倒的一番人気のサンデーサイレンス産駒ブラックカフェら葉牡丹賞組、ベゴニア賞勝ちのイルデパンら牡馬陣が上位人気を占めるなか、新馬勝ち直後のマイネヌーヴェルは出走9頭中の6番人気に甘んじた。

しかし終わってみればマイネヌーヴェルの完勝。
1コーナーで番手を取り切ると、スローペースにもしっかり折り合い、直線逃げ込みを図る2番人気スズジャパンをあっさりとかわし切って1馬身4分の1差をつけた。有馬記念当日の大歓声に迎えられ、再び手綱を握った横山典弘騎手は愛馬の右肩をポーンと叩いてねぎらった後、微笑みを浮かべながら1コーナーを流していった。

これでマイネヌーヴェルは、通算3戦2勝、堂々のオープン入りを果たした。年が明け、春のクラシックを見据えて陣営が選んだのは、デビュー戦で経験済みの中山芝1800mで行われるフラワーカップであった。

芝のオープン以上で勝ち鞍を有する唯一の出走馬だったにもかかわらず、マイネヌーヴェルは当日、単勝2番人気に甘んじた。

単勝1番人気はデビュー2連勝のサンデーサイレンス産駒、セイレーンズソング。1.8倍と言う圧倒的支持を集めていた。3番人気には、後に砂の女傑の系譜にその名を刻むレマーズガールが続く。その上位人気3頭が、単勝1ケタ台。いわゆる『三強』の構図であった。


例によってウインズ札幌の大型ビジョン下に陣取っていた私は半分首を傾げ、もう半分はほくそ笑んでいた。
「オープン勝ちのマイネヌーヴェルが2番人気とはどうしたことか。これは美味しいぞ……」
ポケットには給料日前の身で出せる精いっぱいの金額を投じたマイネヌーヴェルの単勝馬券が収められていた。

無茶ができた。まだ、若かった。

2003年3月22日、曇り、良馬場。フラワーカップのゲートが開いた。

マイネヌーヴェルは他馬が横一線のスタートを決める中、半馬身ほど立ち遅れたように見えた。

内からシルクカンパーナ、レマーズガール、さらにはトーセンリリー、船橋のパッションキャリーと前がごった返す。中山千八は1コーナーがすぐにやってくるため、各馬はポジション取りを急ぐ。わずかに出遅れた12番マイネヌーヴェルの鞍上・横山典弘騎手はわずかに手綱を動かして前進を促すが、その前に13番のローズベアダウン、15番オークルーム、大外16番メジロヘリテイジが次から次へと切れ込んでくる。1コーナーを回るとき、マイネヌーヴェルは後方2,3番手の外、外を回るという展開となった。

手元の競馬新聞に改めて目をやる。マイネヌーヴェルが連勝した前走、前々走のコーナー通過順はいずれも「2-2-2-2」。

ダメだ。後ろ過ぎる。

頭を抱えた。給料日まであと3日。朝晩は会社の寮で食えるとして、昼メシどうしようかなぁ。
飲み会とか誘われたらマズいなぁ。どう断ろうか。

そんなことをぼーっと考えているうちに、レースは3コーナーに差し掛かっていた。

向こう正面半ばから積極的に押し出していったトーセンリリーが先頭に立っていた。外から張田京騎手とパッションキャリー、さらにレマーズガール・マコトスズランがポジションを上げる。1番人気のセイレーンズソングは、2頭の間を突こうとするものの、外からスプリングドリューに来られてやや窮屈になる。

エルダンジュ、アメイジングバイオ、セイコーミラー。

実況の舩山陽司アナウンサーが14番目にマイネヌーヴェルの名前を呼んだころには、既に先頭は4コーナーを回って最後の直線に差し掛かっていた。

中継のカメラは内ラチ沿いを行くトーセンリリーに焦点を合わせる。3馬身ほど抜け出していた。「ああ、この馬が勝つのか」と思った。

船橋の夢をつなごうと、パッションキャリーが追う。セイレーンズソングもじりじり伸びるが前には届きそうもない。その後ろからスプリングドリューが間を突く。さらにマコトスズラン、中からエルダンジュ、外からローズベアダウンも突っ込んでくる。

「大外、12番のマイネヌーヴェル追い込んでくるが!」

突然、船山アナが叫んだ。叫び始めた時には画面にまだ彼女は映っていなかった。
「見間違いじゃないのか?」と思った次の瞬間、ローズベアダウンのさらに外から1頭の鼻先がチラッと覗いた。そしてあっという間に画面のど真ん中まで、赤と緑の勝負服が飛び込んできた。

──マイネヌーヴェルが来た!

残り100と少々。
カメラが引きの構図に切り替わる。
マイネヌーヴェルはまだ9番手から10番手。そこからたった16完歩で、マイネヌーヴェルはすべてをのみこみ、置き去りにした。

「マイネヌーヴェルが、すごい足で、かわした、ゴールイン!」

歴戦のラジオたんぱ(当時)実況アナウンサーに「すごい足」と言わしめるほどの末脚で、マイネヌーヴェルはフラワーカップを制した。終わってみれば1馬身4分の1差。

「一頭だけ別の競馬をしている」「全く他馬と脚色が違う」「前が止まって見える」。
ありったけの常套句が束になっても白旗を挙げるだろう豪脚だった。
2着から5着までが4コーナー1~4番手という明らかな先行有利の流れを、マイネヌーヴェルは14番手から、彼女らよりおよそ1.5秒も早い上がりでかわし去ったのだ。

ウインズ札幌A館1階コンコースは、何とも言えないざわめきに包まれていた。

「今年は三冠牝馬が出る」私は確信していた。


私の予感は的中した。

2003年、確かにこの年、メジロラモーヌ以来17年ぶり、中央競馬史上2頭目の牝馬三冠が誕生した。

私の予想は的中しなかった。

三冠牝馬の栄光を勝ち取ったのはマイネヌーヴェルではなく、スティルインラブであったのだ。

マイネヌーヴェルは桜花賞・オークスと、あの末脚の片りんすら見せられずに二桁着順に沈んだ。
私の財布は空っぽになった。

マイネヌーヴェルはオークス後、屈腱炎で1年近くを棒に振った。そして復帰後も2004年福島牝馬ステークス2着、翌2005年中山金杯2着など重賞戦線で奮闘したが、フラワーカップがマイネヌーヴェルにとって最後の、そして唯一の重賞勝利となってしまった。4戦3勝でフラワーカップを制したマイネヌーヴェルは、通算成績22戦3勝でその競走生活を終えた。


それからもう、18年もたった。

ニュージーランドから来たマイネプリテンダーの仔として、フランス語の馬名をつけられたマイネヌーヴェル。彼女は2007年、初仔としてオーストリアの女帝の名を冠したマイネテレジアを生んだ。
そして2021年、マイネテレジアとゴールドシップの仔、ドイツ語で「生き残る」と名付けられたユーバーレーベンが、祖母と同じレースに挑む。

ユーバーレーベンが18年前の祖母の走りを再現し、全国を何とも言えないざわめきで包み込んでくれることを期待していよう。


最後に、本日ご逝去なされた「マイネル軍団総帥」岡田繁幸氏のご冥福をお祈りします。
マイネプリテンダー-マイネヌーヴェル-マイネテレジア-ユーバーレーベンと、4代にわたる「ラフィアン」の血筋は、これからも繋がっていくはずです。

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