
1.金剛不壊
本コラムのタイトルとした「金剛不壊」という言葉、聞き覚えのある方はどれくらいいらっしゃるだろうか。ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』のプレイヤーなら、「サトノダイヤモンドの進化スキル」としてご存知かも知れない。
以前、サトノダイヤモンドについては『ウマフリ』にコラム(2つのジンクスを打ち破った、至高の金剛石。 - サトノダイヤモンド)を寄稿させていただいた。そちらで書いたようにダイヤモンドの和名は「金剛石」。「金剛不壊」は極めて堅固である様を表現する仏教用語の四字熟語であるが、「金剛石」からの連想でサトノダイヤモンドゆかりのスキル名となったのであろう。
さて、この「金剛」は仏教に由来する言葉であるから、さらに辿るとインドにルーツがある。古代インドで使われていたサンスクリット語の「ヴァジュラ」を意訳した漢語が「金剛」なのだ。この「ヴァジュラ」は古代インド神話における軍神インドラの武器。(インドラは日本では帝釈天の名で知られ、葛飾区の題経寺は「柴又帝釈天」として有名だ。) インドラはヴァジュラを用いて人々を苦しめる巨大な蛇ヴリトラを退治する。つまり、「強大な敵を打ち破る武器」という位置づけである。
この武器が仏教に取り入れられて「金剛杵」と呼ばれ、「煩悩を打ち破る象徴」という宗教的な意味を与えられる。そして「金剛」自体も仏の完全性や揺るぎない信心を指す言葉として定着していく。中国・唐の時代に浄土教の成立に大きく寄与した僧・善導は、阿弥陀如来を信仰する心について次のように述べている。
この心深く信ずること、なおし金剛のごとくにして、一切の異見、異学、別解、別行の人等に動乱破壊せられず。
──善導撰『観経疏』散善義より引用
つまり、深い信心は他者に惑わされないものだ、ということである。本来ヴァジュラの強さは「敵を打ち破る」という側面にあったのだが、時代を経ると、むしろ「自分の道を守る」という側面が強調されている。
2.「金剛」の変質
さて、仏教講座のような話が続いたが、この「ヴァジュラ」=「金剛」の持つ二面性はサトノダイヤモンドにも通じるのでは、というのが私の考えである。
サトノダイヤモンドの若駒時代は打ち破る強さが目立っていた。デビュー戦ではロイカバードとの高額馬対決を勝利し、そのまま無傷で重賞制覇。皐月賞は不利を受けて3着、日本ダービーは落鉄して2着と運に見放された敗戦が続いたが、最後の一冠・菊花賞は力を見せつける快勝。「サトノの馬はGⅠを獲れない」「ディープインパクト産駒は菊花賞を勝てない」という二つのジンクスを打ち破ったことは前稿で書いたとおりである。

そして年末の大一番・有馬記念。日本で最も権威の高いレース・天皇賞(春)と、日本で最も賞金額の高いレース・ジャパンカップを制した現役最強馬キタサンブラックをクビ差で差し切ったサトノダイヤモンドは、「金剛」の敵を打ち破る強さを象徴するような優駿だったと言えるだろう。
しかし、4歳になってサトノダイヤモンドの競走生活は暗転する。始動戦となった阪神大賞典で前年覇者シュヴァルグランを寄せ付けない快勝を見せたところまでは良かったが、キタサンブラックとの再戦となり、「二強対決」と言われた天皇賞(春)ではキタサンブラックとシュヴァルグランを捉えられず3着。ディープインパクトの刻んだレコードを上回るタイムで「父超え」こそ果たしたものの、神戸新聞杯からの連勝が途切れてしまった。
激走の反動を考慮して宝塚記念を見送り、秋は凱旋門賞制覇を目指して渡仏。しかし始動戦のフォワ賞を4着、本番凱旋門賞を15着と欧州の重馬場に対応できず、無念の帰国となる。遠征のダメージは重く、この年は年内全休となった。
里見治オーナーはこの4歳時のローテーションについて、次のように振り返っている。
結果論になってしまいますが、ローテーションがあれで良かったのかどうか、という想いはありました。極端な事を言ったら、有馬記念の後、直接天皇賞に行っても良かったかもしれないとかね。やっぱり間隔はキッチリ取ってやった方が走るなという想いはあります。
──nakazo構成「里見治インタビュー」(『愛駿通信 キタサンブラック・サトノダイヤモンドと2012/2013年組』ホビージャパン、2022年)より引用
(中略)
凱旋門賞へ行ったことで、ダイヤモンドに対して凄い失敗したなと思っています。あの年の凱旋門賞は1週間ずっーと雨が降って馬場がグチャグチャで、明らかにダイヤモンドに向いていない条件でしたから。
里見オーナーは4歳時のレース選択に対して後悔を抱えていた。サトノダイヤモンドの実力が発揮出来ないローテーションになっていたと考えているのである。逆に言えば「そのようなローテーションを組まざるを得ない」状況だったということだ。その理由を考えるヒントになるのが、管理した池江泰寿調教師の次の言葉である。
3歳で有馬を勝てた馬は名馬しかいないので、この馬もそうなれるのではと思っていました
──山本武志「池江泰寿調教師 「最上級の輝き」サトノダイヤモンド」(『愛駿通信 キタサンブラック・サトノダイヤモンドと2012/2013年組』)より引用
3歳での有馬記念制覇、しかも菊花賞からの連勝を果たした馬となると、グレード制導入後にはナリタブライアン・マヤノトップガン・マンハッタンカフェ・オルフェーヴル・ゴールドシップ、そしてサトノダイヤモンドの6頭しかいない。言ってしまえば「最強馬」の証であり、サトノダイヤモンドには「相応しい振る舞い」が求められることになる。
阪神大賞典から天皇賞(春)と言えば古馬王道のローテーション。凱旋門賞制覇は日本競馬の悲願である。「最強馬」という桎梏が、サトノダイヤモンドのレース選択に影響を与えたことは想像に難くない。3歳時も凱旋門賞には登録していたものの、ダービーでの敗戦を受けて国内路線に切り替えた経緯がある。もし菊花賞と有馬記念、どちらかでも敗けていたら、サトノダイヤモンドのレース選択は大きく変わっていたかも知れない。
4歳にして大きな挫折を味わったサトノダイヤモンド。年が明けた2018年、現役最後のシーズンが始まる。

3.この心深く信ずること、なおし金剛のごとく
前年は古馬王道路線の中心・天皇賞(春)を目標としたローテーションを組んだ春シーズンだったが、池江調教師はこの年、サトノダイヤモンド本来の適性を考慮して中距離重賞を使うローテーションを組んだ。選ばれた始動戦は中京2000mの金鯱賞。後方から追い込もうとするが、中々エンジンがかからず、3着に終わる。とは言え上がり3ハロンのタイムは勝ったスワーヴリチャードを上回っており、調子が上がれば本番での逆転はあり得る、という考え方も可能だった。
しかしGⅠ大阪杯では最内枠が仇となって馬群に包まれる形となり、仕掛けが遅れてしまった。外から追い込むも7着に終わり、国内で初めて掲示板を外す結果となる。言ってしまえば「枠順の不利を跳ね返すだけの力」は発揮できなかったということだ。復活を期待して1番人気に支持された宝塚記念もスタートでの出遅れこそ挽回するものの、勝負所の競り合いでも劣ってしまい、6着。スタートで後手を踏んでいなかったとしても勝てたかどうかは難しいと言えるレースぶりだった。3歳にして「最強馬」に上り詰めた優駿は、復活勝利どころか3戦して連対無しという結果に終わったのである。
サトノダイヤモンドは「終わった馬」なのか。この結果を見れば当然起こる問いだろう。厩舎の先輩グランプリホースであるドリームジャーニーは、宝塚記念での敗戦後に「闘争心がなくなった」という池江調教師の判断でターフを去っている。サトノダイヤモンドにもその選択肢が十分に考えられたはずである。しかし、ダイヤモンドは秋のターフに帰ってきた。
選ばれた舞台は京都大賞典。新コンビを組む川田将雅騎手が調教から付きっきりで騎乗し、息を合わせた。しっかりと準備すれば復活できる、という陣営の判断が間違っていないことをサトノダイヤモンドはレースで証明した。好スタートから中団に控え、ゆったりとしたレース運びを見せると、4コーナーで進出開始。川田騎手の合図に応え、直線半ばで先頭に立つとそのまま押し切って制覇。阪神大賞典以来、実に1年半ぶりの勝利であった。結果もそうだが、「馬が行く気を見せた」という点はサトノダイヤモンドの闘争心が失われていなかったことを窺わせた。まだ「終わった馬」では無かったのである。
「最強馬」としての桎梏から狂い出した歯車を修正し、再び勝利する姿を見せたサトノダイヤモンド。「金剛」のごとき気力は「動乱破壊」されていなかった。そしてその復活劇はこの馬の力を「心深く信ずること」を諦めなかった陣営の努力あってこそである。キタサンブラックを打ち破った時のような強烈な強さは無かったかも知れない。しかし、「自分の道を守る」ことの大切さを示すような勝利だった。
4.男のひき際
京都大賞典の復活勝利は、結果としてサトノダイヤモンドの競走生活における最後の1着となった。3番人気に支持されたジャパンカップは香港のジョアン・モレイラ騎手との新コンビで臨むも6着。引退レースの有馬記念は豪州のブレンドン・アヴドゥラ騎手を鞍上に迎えてまたも6着だった。主戦のクリストフ・ルメール騎手や復活をサポートした川田騎手のような馬との呼吸を合わせる時間が無い中での騎乗には難しいものがあったのだろう。「最強馬」の復権は果たされることなく競走生活を終えた。
2017年の有馬記念、キタサンブラックはこのレースをもって引退。前年サトノダイヤモンドの2着に敗れた雪辱を果たし、見事に勝利した。このレースの実況を務めたフジテレビの青嶋達也アナウンサーは、この勝ちっぷりを「男のひき際」という表現で称賛した。だが、勝利だけが「ひき際」なのだろうか。2018年のジャパンカップ・有馬記念においてサトノダイヤモンドが6着に敗れる中、勝利したのは3歳馬のアーモンドアイとブラストワンピースだった。どの競走馬にも必ず引退の時が来る。「自分の道を守る」という「金剛」の強さを見せた上で新世代にバトンを渡すようにターフを去ったサトノダイヤモンドの「ひき際」にも、ある種の美しさを感じるのは私だけだろうか。「金剛不壊」、勝つことだけが「強さ」ではないとサトノダイヤモンドから教えられた気がしている。

写真:Horse Memorys