
端正な顔立ち、黒曜石のように艶めく馬体、鋼を彫り込んだような筋肉。
その身に流れるのは、重厚なドイツの血。静かな闘志が全身に宿り、瞳の奥に誇りと矜持が息づく。
彼の名はエイシンフラッシュ。
誉れ高き、第77代日本ダービー馬。
その名のとおりの閃光のような末脚でダービーを制し、割れんばかりの歓声が彼を包んだ。王となった彼の双肩に無数の期待が託された。

思えば、あのダービーは名馬の競演だった。ヴィクトワールピサ、ローズキングダム、ルーラーシップ、ペルーサ、トゥザグローリー、ヒルノダムール──のちに世界を驚かせる才能がぶつかり合った。
直線、横一線の攻防。最内でヴィクトワールピサが粘り、大外からローズキングダムが襲い掛かる。そのわずかな隙間を射抜くように、光が駆けた。上がり32秒7。エイシンフラッシュは極限の末脚で頂点に立った。

けれど、栄光は永遠ではない。
王座は移ろい、昨日の王は今日の挑戦者となる。
ダービーから2年半、12戦を重ねた。天皇賞・春、有馬記念で2着、宝塚記念で3着。遠く中東ドバイにも挑んだ。だが勝利は遠かった。群雄割拠の時代、彼の名は少しずつ、主役の座から遠ざかっていった。
歴史に刻まれるのは勝者の名だけ。敗者はやがて霞んでゆく。どれほど善戦しても、そこに彼が求める価値はない。ダービー馬の渇望は満たされない。
あの日の栄光は、少しずつ翳りを帯びていった。それでも彼は歩みを止めなかった。静かに、迷いなく、次の戦場へ。
2012年10月28日、天皇賞・秋。曇天の府中は熱気に包まれていた。
この年の天皇賞・秋は、7年ぶりに天皇皇后両陛下の行幸啓を賜った特別な一戦となった。エイシンフラッシュの鞍上には、イタリアの名手ミルコ・デムーロがいた。
喧騒が満ちるパドックに、出走馬が次々と姿を見せる。
ダービー2着のフェノーメノ、香港でG1を制したルーラーシップ、無敗の3歳マイル王カレンブラックヒル、前年2着ダークシャドウ、勢いにのる強豪たちの中で、エイシンフラッシュは大きく水をあけられた5番人気に甘んじた。ドバイワールドカップ6着、宝塚記念6着、毎日王冠9着。不本意な競馬が続いていた。
人々の視線は、彼をすり抜ける。「過去のダービー馬」、そんな囁きが聞こえてきそうだった。
だが、エイシンフラッシュは耳を伏せない。目を伏せない。一歩ごとに、地を打つ蹄の音が響く。重ねた歳月のぶんだけ、その歩みに静かな確信が宿る。堂々とした馬体を誇示し、自信に満ちて歩く。「この場にふさわしいのは俺だ」と言わんばかりに。
時が流れても、誇りは決して揺らがない。すべては、かつて喝采を浴びたこの地で、再び歴史を創るために。
ゲートが開く。シルポートが飛び出し、1000メートル通過は57秒3。サイレンススズカを彷彿とさせる超ハイペースに、馬群は縦に大きく伸びる。大きく離れた2番手にカレンブラックヒル。その少し後ろにフェノーメノ。若い2頭が馬群を導く。
エイシンフラッシュは静かに待つ。後方に控え、淡々と芝を蹴る。
欅の向こうを通過し、シルポートのリードはなお20馬身以上。観衆がざわめく。行くのか、待つのか。迷いが生まれる瞬間。だが、ミルコの手綱は静かなまま。エイシンフラッシュは我慢強く、じっと前を見つめている。動くべき“時”を、彼は知っている。
迎えた直線。シルポートの脚が鈍る。カレンブラックヒルが、フェノーメノが、ダークシャドウが、ルーラーシップが、次々とスパートする。坂を上り、差がみるみる詰まる。
次の瞬間――光が弾けた。
ぽっかりと開いた最内を射抜き、エイシンフラッシュが突き抜ける。誰よりも鋭く、誰よりも速く。まるで光そのもののように。あの日と同じ――いや、それ以上の輝き。この瞬間が運命づけられていたかのように。
ライバルを置き去りにし、歓喜のゴールを駆け抜けた。
競馬場が大歓声に揺れる。興奮が渦巻く中、エイシンフラッシュは堂々と歩を進める。
スタンド前に戻るとミルコは馬を降り、膝をつき、静かに頭を垂れた。競馬場が一瞬静まり、それから歓声が弾けた。誰もがこの素晴らしい光景を、心に焼き付けようとしていた。
誇り高き人馬。その姿こそ、天皇皇后両陛下への、言葉より雄弁な敬意だった。
翌年も彼は走り続けた。国内外の大舞台を渡り歩き、毎日王冠を制した。連覇に挑んだ天皇賞・秋はあと一歩及ばなかったが、その走りは美しく、堂々としていた。
引退式の日、無数のフラッシュに照らされた馬体は、やはり黒曜石のように深く、眩く輝いていた。たくさんのファンに送られ、北の大地へと戻っていった。

瞼を閉じれば、今も、あの日の府中を駆け抜けた眩い記憶が浮かび上がる。
それは、時を経ても決して褪せることのない記憶。ただ真っ直ぐに、ひたむきに駆け抜けた、一つの光。
エイシンフラッシュ。
あの日、府中を駆け抜けた閃光は、今も誰かの心を照らしている。
その名は、その姿は、時を越えて生き続けている。美しい記憶とともに。
写真:しんや

