いよいよ香港国際競走の時期がやってきました。今年も日本からは多くの競走馬が各競走に出走を予定しています。中でも香港カップはモーリス、ステファノス、クイーンズリング、ラブリーデイなど錚々たるメンバーで昨年に続く日本調教馬の制覇が期待されます。その昨年の優勝馬はエイシンヒカリであり、今年は連覇がかかります。
さて、同じエイシンの冠を持ち、香港の国際GIを3年連続、3勝もするという偉業を成し遂げた馬を覚えておられるでしょうか?
彼の名は、エイシンプレストンです。
Green Dancerという日本のファンには馴染みのない父を持つ米国産のエイシンプレストンは栗東・北橋厩舎に所属。引退まで全32戦で手綱を取る福永祐一騎手を背に1999年11月6日、京都競馬場芝1600mの新馬戦でデビューしました。
デビュー戦こそ、後にGI皐月賞2着・GIマイルチャンピオンシップ2着などの実績を残すダイタクリーヴァに敗れたものの、折り返しの新馬戦を楽勝すると、GI朝日杯3歳Sへと挑戦します。
レースは1番人気を集めた笠松のレジェンドハンターが完全に抜け出し勝負あったかと思われたところ、中団後方にいたエイシンプレストンは馬群を捌いてインを突くとみるみるレジェンドハンターを追い詰め、ゴール寸前で交わして優勝。デビューから僅か37日でチャンピオンとなりました。
年が明けてGⅢきさらぎ賞は9着と人気を裏切ったものの、GⅢアーリントンC、GⅡニュージーランドトロフィー4歳Sを連勝し、目標としていたGI、NHKマイルCに向けて視界良好かと思われました。(当時外国産馬にはクラシック出走権がありませんでした)
しかし本番を前に骨折が判明、NHKマイルCへの出走は叶わず休養を余儀なくされます。
そしてこの半年の骨折休養の後、エイシンプレストンは輝きを失います。
2000年10月28日、復帰戦のGⅡスワンSでは後方から33.7の最速上がりで差を詰めるものの6着、続くGIマイルチャンピオンシップでも5着と、骨折前の彼の走りは戻ってきませんでした。
さらに年明けのGⅢ京都金杯で14着と惨敗すると、目先を変えてダートのGⅢ根岸Sに出走するも12着と大敗。その後GⅢダービー卿チャレンジトロフィーで2着に好走するも、先頭でのゴールは遠く、2001年のGI安田記念では10番人気の評価で10着と、勝利からは1年余り見放されていました。
きっかけとなったのは安田記念から中2週で出走した2001年6月23日阪神芝1600mのオープン特別米子Sでした。
メンバーが落ちたオープン特別で1年2か月ぶりの勝利を手にすると、勝利の味を思い出したのか、ここから彼は輝きを取り戻し始めます。
続くGⅢ北九州記念で久々の重賞勝利を挙げると、GⅢ関屋記念では前残りの展開に泣いて3着に敗れたものの、秋のGⅡ毎日王冠で接戦を制し、GIマイルチャンピオンシップでもゼンノエルシドの僅差の2着と完全復活を思わせました。
その後陣営は香港国際競走への遠征を決断します。2001年12月16日沙田競馬場1600mで開催されたGI香港マイル、そこで彼は素晴らしい走りを披露します。
6番人気とそこまで評価は高くなかったものの、直線ズルズル後退するゼンノエルシドを尻目に大外に持ち出すと豪快に差し切って突き抜け圧勝、朝日杯以来のGI勝利が海外での国際GI勝利という大仕事をやってのけたのです。
当日はステイゴールド、アグネスデジタルも勝利し、日本調教馬が香港国際GIを3勝するという劇的な一日でもありました。
この香港マイルの圧勝劇は国際的にも大きく評価され、当時のマイル部門で日本調教馬最高レートを獲得しました。
帰国したエイシンプレストンは翌年2002年の初戦、GⅡ中山記念では60キロの斤量もあり5着に敗れますが、再び香港へと遠征します。
2002年4月21日沙田競馬場の2000mで行われたGIクイーンエリザベス2世Cに出走したエイシンプレストンはここでも中団後方から大外を回って直線各馬をゴボウ抜き、内から伸びたアグネスデジタルを抑えて優勝、日本調教馬のワンツーという快挙でした。
沙田で行われた国際GIを2戦2勝、それも圧倒的な内容で勝利したエイシンプレストンに香港の関係者は大きな衝撃を受けたことでしょう。しかし、このことが8か月後自身を苦しめることになります。
帰国後初戦となったGI安田記念では5着、秋初戦のGⅡ毎日王冠では2着に入るものの、続くGI天皇賞秋では8着、GIマイルチャンピオンシップでは2着と、香港で見せた彼の走りからすればやや物足りない結果が続きましたが、再び香港へと渡り、2002年12月15日、前年のマイルではなく沙田2000mの香港カップへと出走します。
レースでは中盤から終始周りを囲まれ、直線でもフタをされて追い出しが大きく遅れることとなり、ゴール前で猛追するも5着と敗れます。
実際そういう思惑があったかどうかはわかりませんが、他陣営がかなりエイシンプレストンを警戒していたことは確かではないかというのが個人的な印象です。それだけ、沙田での彼の走りは注目されていたはずです。
2003年の初戦には斤量などの問題から中山ダート1800で行われたGIフェブラリーSを選択し大差の殿負けを喫するも、2003年4月27日、GIクイーンエリザベス2世C連覇を狙って再び香港へと渡りました。当時はSARSの感染拡大により遠征が危ぶまれていましたが、結果的には無事遠征することとなります。
レースでは好スタートから好位につけ、直線外から豪快に差し切って見事連覇を達成します。直線の伸び脚は彼が沙田で2勝した時のそれと変わらないものでした。そしてこの勝利が彼の現役最後の勝利となりました。
帰国後、秋GⅡ毎日王冠、GI天皇賞秋に出走するも3着、4着に敗れ、引退レースには彼を大きく輝かせてくれた香港沙田の地が選ばれました。
2003年12月14日、前年と同じく沙田2000mで行われるGI香港カップに出走し、直線大外に持ち出しましたが最後のレースでは彼の末脚は見られず、ファルブラヴの圧倒的な強さの前に7着と敗れ、現役を引退しました。
通算32戦10勝、香港沙田の国際GIを3勝しながらも、国内ではGIタイトルは朝日杯3歳Sの1勝にとどまり、好走するも国内GIを突き抜けきれなかったのは、いかに沙田の馬場が彼にマッチしたかを物語っているのではないでしょうか。
現在では日本を代表するジョッキーの一人となった福永祐一騎手にとっても、若手の頃に彼の背で感じた32戦の経験は大きな財産となっていることでしょう。
沙田競馬場での国際GI3年連続勝利、3勝は当時でも今でも偉業であると思うのですが、国内でGI勝ちを重ねられなかったこと、そして父Green Dancerという古めの血統もあってか、国内での評価は香港での評価と比べると低いものであったのではないかと思います。
種牡馬入りしたものの種付け頭数は伸びず、2009年、6年目にして種付け頭数0となってしまいました。産駒では準オープンまでいったケンブリッジエルが目立つ程度で、産駒の成績も今一つというのが現状です。
種付け頭数が0となった2009年、引退後初めて栄進牧場でプレストンに会うことができました。アテ馬をやっているとのことでしたが、元気が有り余っている様子で牧場の方も「おっかねえんだ」と話しておられました。
2011年9月20日にも会いに行くと、ちょうど「今日種牡馬登録を復活させたんだよ」という話を聞くことができましたが、「うちの繁殖もつけていないし、お客さんはこないだろうけど……」と寂しい言葉が聞かれました。
その後も種付け頭数0が続いたエイシンプレストンですが、2014年2頭に種付けを行い、2015年2頭の産駒が誕生しています。そして2頭のうち1頭はなんと母父ディープインパクトなのです。たった2頭の産駒ではありますが、この2頭の活躍次第ではまた産駒を残すことができるかもしれません。「父エイシンプレストン」の産駒に注目してみたいと思っています。
種牡馬としては今のところ活躍馬は出せていませんが、関係者の方々にとってエイシンプレストンが名馬であることには変わりありませんし、それは私にとっても同じことです。
これからも元気で長生きして欲しいと願っています。
来たる香港国際競走を前に、香港で光輝いた彼のこと、思い出していただければ、そして知らなかったという方には知っていただければありがたいです。
写真:馬人