競馬に限らない話かもしれないが、何かを覚え始めたときの記憶というのは意外と残り続けるもので、つい先日も競馬仲間数人が集まった際に
「情報がアップデートされていないねぇ」
と笑われたことがあった。
かつては牝馬限定の重賞で使われていた名称に「牝馬特別」というものがある。略して「牝特(ひんとく)」という呼び方をするファンも多かったが、ついこの前も、私はレース名を呼ぶ際に「牝特」と言ってしまったのだ。
そのときの話の主人公は、ライデンリーダー。
1995年、今から四半世紀前の競馬の世界は「交流元年」と呼ばれ、中央競馬と地方競馬の垣根が取り壊された年でもあった。
今なら地方競馬に所属したまま中央競馬のG1競走に出走してくることに違和感がないファンも多いかもしれない。この1995年の春にはその制度を真っ先に活かして高崎のハシノタイユウが弥生賞に挑戦、フジキセキの3着に入り皐月賞の権利を取った。
その2週間後、今度は桜花賞トライアルの4歳牝馬特別(当時)に、笠松所属のライデンリーダーが出走してきた。
私は1995年の交流元年と言われる以前から、地方所属馬がJRAのレースに出走となると応援馬券を買うことが多く、ジョージモナークやサブリナチェリー、トミシノポルンガやトチノミネフジといった馬に肩入れをしてレースを観ることが多かった。
ライデンリーダーが4歳牝特に出走すると知ったときから、この馬の馬券を買うとは決めていたけれど、果たしてこの馬の力量はどんなものなのかは、文字通り「未知」だった。
笠松で10戦10勝、2着馬につけた着差の合計が41馬身。さらに10勝のうち古馬相手に勝利したのも含まれていることは事前の情報で知っていた。しかしもちろん、それは全てダートコースで積み上げた連勝であり、芝のスピード決着に不向きな可能性も大いにあった。
レース当日は朝から中山競馬場に私は身を置いていたのだが、ライデンリーダーの馬券で
「どの程度、勝負をするか」
ばかり考えていた。
だからだろうか、その日の馬券成績はサッパリ当たらずで、帰りの交通費を本気で心配しなければいけないほど、負債ばかりが増えていた。
結局、ライデンリーダーの単勝を100円だけ買って、レースが始まった。
ゲートが開くと5枠の2頭が引っ張る展開となった。芦毛のウエスタンドリームがハナに行き、マキシムシャレードが追走。その直後の3番手に1番人気のエイユーギャルがマークする展開。一方のライデンリーダーはというと、中団の内目を追走。鞍上の安藤勝己騎手は手を動かして促しているものの、その反応はイマイチといったように見えた。
「この地方馬は食わせ物だったか……」
「単勝100円だけで正解だった。傷は浅く済みそうだ」
直線コースに向き、エイユーギャルが抜け出して勝つのだろう──と思った刹那。
外に持ち出されたライデンリーダーが弾かれた矢のように一直線に伸びてきてまとめて交わして先頭に立った瞬間、大げさではなく私の体に「電流が走った」のだ。
単勝を100円しか買わなかったことを後悔するよりも先に、すごい馬が現れたことに当時の自分は興奮していた。そのときの日記(競馬ノート)には、こんなことが書いてあった。
笠松からすごい馬が現れた。ライデンリーダー。今年から地方所属のまま桜花賞やオークスに出走できるのだから、全部この馬から買う。
(中略)
この馬が中央競馬の歴史を変えるかもしれない。
今なら「記念馬券」といって的中した馬券を換金しないで残しておくファンも多いかもしれない。私はこの牝特のライデンリーダーの単勝馬券を、換金をせずに手元に残すことにした。もともと4コーナーでは紙くずになることを覚悟していたわけだし、プラス250円の収支ならば……と、取っておくことにした。
桜花賞当日も、私は中山競馬場でライデンリーダーの馬券を買うと決めていて、トライアルの日の教訓を活かして、朝一番でこの馬の単勝馬券を購入した。
2倍を切るほどの人気を集めるのは予想外だったけれど、正直なところ、オッズは関係なかった。儲けようという魂胆ではなく、この馬が新たに打ち立てるであろう「競馬の新しい歴史」の観戦料といった意味合いが、この単勝馬券にはあった。
結果はご存知の通り、桜花賞は4着敗退。
「トライアルを走り過ぎてしまった故の反動では?」
「JRA騎手による包囲網の影響では?」
レース後には、様々な理由が敗因として挙げられていた。
それでもライデンリーダーは、ワンダーパヒュームやプライムステージといった有力馬とともに、この年の牝馬三冠レースを皆勤した。オークスもエリザベス女王杯も13着という大敗を喫したけれど、1年間ずっとこの馬を追い続けた私は、今でも忘れることができない1頭だ。
冒頭で私が先日、「牝特」と口走ってしまったのは、
「もし、晩年のアンカツさんが乗っていたらライデンリーダーは桜花賞を勝てたか?」
という、仮説の話をしている時だった。
もちろん正解は分からない。いや、そもそも正解は存在しないのかもしれない。
でも、こんな「たら・れば」の話で大いに盛り上がれるのも競馬ファンの特権でもあると私は思うし、これからもこんな話題で競馬好きな人と盛り上がりたいと思う。
ちなみに、晩年のアンカツさんが乗っていたら……という仮説の私の答えは
「ライデンリーダーは“圧勝”だった」
というものである。
それは個人的な思い入れが強いからこその贔屓目……なのだろうか。
写真:ポラオ、かず