「ネオレアリズモ」の旗手である巨匠、ヴィットリオ・デ・シーカ。
『甘い生活』はじめ数々の名作で知られた、マルチェロ・マストロヤンニ。
そして当代きっての名優、ソフィア・ローレン。
この1960~70年代のイタリア映画を彩る黄金トリオとくれば、不朽の名作と名高い『ひまわり(原題:I Girasoli、1970年)』が思い出されるが、コメディ映画の傑作『昨日・今日・明日(原題:Ieri, Oggi, Domani、1963年)』も忘れ難い魅力を放つ。
ナポリ、ミラノ、ローマで紡がれる3編のオムニバス形式の物語は、主演の二人の間の洒脱な掛け合いがたまらない。
イタリア女性のたくましさと、それと対になる男の哀愁、その男女間の機微──そしてデ・シーカ監督の人間賛歌ともいうべき温かみのある優しい視線が、艶のある笑いの中に綺羅星のごとく散りばめられている。
収監を免れるために妊娠し続けようとする妻と、その夫。
大金持ちの人妻と、彼女に浮気に誘われる作家。
妖艶なコールガールと、彼女に一目惚れした神学生。
それぞれの男女の間に交錯する、『昨日・今日・明日』。
その時代の持つエネルギーとともに、主演の二人の演技に惹き込まれる名作コメディである。
そんな名作映画のタイトルではないが、競馬場もまた「昨日・今日・明日」が交錯する場所である。
「昨日」とは、出走するサラブレッドたちの、連綿と紡がれてきた血の歴史。
「今日」とはすなわち、いま目の前で繰り広げられるこのレース。
そして、ターフで爆ぜた血を繋いでいくという、サラブレッドたちの「明日」。
出走するサラブレッド一頭一頭、そしてそれら取り巻く多くの人々にとっての、「昨日・今日・明日」。
そのいくつもの糸の織りなりが、競馬場にはある。
一つのレース、一つの出馬表を眺めているだけでも、そんな「昨日・今日・明日」の織りなりに、想いを馳せることができる。
それが、競馬の魅力の一つなのだろう。
全国的に記録的な猛暑に見舞われた、2018年の夏。
そんな「昨日・今日・明日」の織りなりを、一頭のサラブレッドの走りに、見た。
7月22日、中京競馬場11レース、トヨタ賞中京記念。
3回中京開催の掉尾を飾る、伝統のGⅢである。
この年、名古屋は平年より10日以上も早く梅雨が明け、体温よりも高い最高気温を何度も記録していた。
異常なまでの暑さが記憶される、夏だった。
そんな夏、グレーターロンドンは中京記念に出走してきた。
グレーターロンドンの「昨日」は、眩いばかりの才能と、絶望的な怪我とのせめぎ合いだった。
母は、快速牝馬として知られたロンドンブリッジ。
「牝馬のミキオ」こと松永幹夫騎手(現・調教師)を背に、1997年にデビューから3連勝でGⅢ・ファンタジーステークスを制した。
他馬と搭載しているエンジンが違うようなテンの加速力は、まさに「快速牝馬」と呼ぶにふさわしい韋駄天ぶりだった。
翌1998年のクラシックでも期待されたが、桜花賞はファレノプシスの2着、優駿牝馬はエリモエクセルの10着と敗れた。
その後、休養中に屈腱炎を発症して引退したが、下河辺牧場に戻り繁殖に上がってからは、その豊かなスピードを産駒に伝え続けた。
サンデーサイレンスとの初仔・ダイワエルシエーロが優駿牝馬を制し、ブライアンズタイムとの2番仔・ビッグプラネットも複数の重賞を勝つなど活躍を収めた。
さらに、かのディープインパクトが初めて配された8番仔・ブリッツフィナーレからは、2017年の菊花賞馬・キセキが出ている。
同じくディープインパクトを父に持つ10番仔・グレーターロンドンは、そのブリッツフィナーレの全弟ということになる。
そんな良血のグレーターロンドンは、3歳2月と遅いデビューだったが、東京のマイル戦を持ったまま楽勝という勝ち方で注目を集める。
「遅れてきたダービー候補」との呼び声もあったが、2戦目の山吹賞はレース中の落鉄の影響もあり2着に惜敗。脚部不安も出ていたこともあり、陣営は無理をさせずに休養を選択した。
その7か月後に復帰した500万下の条件戦では、加速ラップの中、上り3F33.5秒の末脚で豪快に差し切り勝ちを収め、改めてその才能を示す。
──しかし、このレースの後にグレーターロンドンは蹄葉炎を発症してしまう。
蹄葉炎は、古くはテンポイント、トウショウボーイ、ミスターシービー、そしてサンデーサイレンスやウオッカといった名馬たちも患い、その命を落としている重い病である。
しかし、グレーターロンドンは1年という長い時間を経て、ターフに戻ってきた。
それは、グレーターロンドン自身の生命力と、関係者のたゆまぬ尽力なしには成し得ないものだったのだろう。
1年ぶりに復帰したグレーターロンドンの輝きは、全く錆びていなかった。
いや、研ぎ澄まされた名刀のごとき末脚は、ようやくその真価を示し始めた。
500万下の条件戦を快勝すると、そこからオープン特別の東風ステークスまで破竹の5連勝を成し遂げる。
いずれのレースも、上がり3Fは最速を記録していた。
ソエを発症したことで、GⅢ・ダービー卿チャレンジトロフィーへの出走は自重したが、そのままGⅠ・安田記念で初めて重賞に挑戦。しかしここはサトノアラジンの4着に敗れる。
その秋は中距離路線を歩み、毎日王冠3着から天皇賞・秋に出走するも、超不良馬場が堪えたか9着と、生涯初めて掲示板を外す。年が明けて6歳になったグレーターロンドンは、マイル路線に戻り人気を集めるも、勝ち星に恵まれなかった。
5月、距離短縮の京王杯スプリングカップで、0.1秒差の4着と復調気配を見せたところで、前年出走していた6月の安田記念には向かわず、7月の中京記念へ矛先を向ける。
キャリア15戦目にして初めて、東京・中山以外の競馬場への遠征であった。
そんな中京記念の当日、2018年7月22日。
記録的猛暑の下、名古屋は最高気温39.5度を記録した。
レースが近づいても暑さは緩むことなく、緑のターフからは、むせ返るような熱気が立ち上るようだった。
グレーターロンドンと田辺裕信騎手は、16頭立ての1番人気に支持されていた。
16頭の織りなす「今日」という糸は、どんな模様を紡ぐのだろうか。
熱気の引く気配の全くない午後3時半過ぎ、ゲートは開いた。
内で3番枠のブラックムーンがやや出遅れる。
アメリカズカップ、マイネルアウラートがハナを争い、それにウインガニオンが加わっていく。
その後ろのポケットで、ロジクライと浜中俊騎手が追走する。
激しい先行争いによって、前半の800mが45秒3というハイペースで流れた。
大外16番枠からスタートしたグレーターロンドンは、中団よりやや後ろの外目を追走する。
4コーナーを回り、長い直線の攻防。
アメリカズカップが、インで先頭に立ち粘り込みを図る。
馬群の狭いところを割って、ロジクライが脚を伸ばしてくる。
田辺騎手は、グレーターロンドンを外に持ち出した。
そのさらに外では、道中後方にいた戸崎圭太騎手のリライアブルエースが、溜めた脚を爆発させようとしている。
残り200m。
先頭はロジクライ。
しかし外からグレーターロンドンが強襲。
粘るロジクライを差し切って、念願の重賞初制覇のゴールに飛び込んだ。
重賞の舞台でようやく輝いた、その名刀のごとき末脚の切れ味。
勝ちタイム1分32秒3は、中京マイルのコースレコード。
15戦目にたどりついた栄光に、華を添えた。
灼熱の中京で、磨き上げた末脚でタイトルをつかんだグレーターロンドン。
「昨日」から、「今日」へ。
そして「明日」へ。
紡がれてきた血の歴史に、新たな1ページを刻んだ。
その後グレーターロンドンは秋から復帰の予定だったが、蹄に不安が出たため、そのまま引退となった。
結局、得意のマイル戦でその末脚の輝きを魅せてくれた、あの中京記念がグレーターロンドンの引退レースとなった。
重賞の勝ち鞍はこの中京記念のみだったものの、その戦績の中で見せてきた才能、そして近親に多くの活躍場が出ているその血統が見込まれ、ブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬入りすることとなった。
2019年から供用が開始され、2022年に初年度産駒がデビューを迎える。
映画『昨日・今日・明日』では、オムニバスの3話それぞれの終わりが秀逸だ。
どの終わり方も、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの演じる3組の男女のそれぞれの「明日」を夢想して、余韻に浸らせてくれる。
灼熱の中京を切り裂いた、グレーターロンドンの鍛え抜かれた名刀のような末脚。
その切れ味を受け継ぐ産駒が、いつか現れるのだろうか。
素晴らしい映画の余韻に浸るように、その「明日」を楽しみに。
昨日、今日、明日。
競馬は続く。
今年も、中京記念がやってくる。