[平成名勝負]175,100mの軌跡~2012年ステイヤーズステークス・トウカイトリック~

平成6年、WBA・IBF世界ヘビー級王者マイケル・モーラーとのタイトルマッチに挑んだとき、ジョージ・フォアマンは45歳だった。
試合は「モーラー圧倒的有利」という下馬評どおりに進み、フォアマンは苦戦を強いられる。
しかし迎えた10ラウンド、フォアマンはモーラーの一瞬の隙を突いて、必殺の右ストレートを炸裂させた。
「象をも倒す」と称されたフォアマンの拳を喰らい、立ち上がれないモーラー。
大逆転でKO勝利を収めたフォアマンは、約20年ぶりにヘビー級王座に返り咲き、史上最高齢での世界王者となった。

弱冠19歳でオリンピックで金メダルを獲得し、プロ転向後の20代で積み重ねたチャンピオンベルトの数々、キンシャサの奇跡と呼ばれたモハメド・アリ戦での蹉跌、28歳での引退と牧師への転向。
そして10年のブランクを経て復帰し、見事にチャンピオンベルトを奪還したフォアマン。

「老いは、恥ではない」
という彼の言葉は、歳を重ねるごとに趣深い。

そんなフォアマンの金言のように、観る者の胸を打つサラブレッドが、平成という時代を走り抜けていった。

彼は、生粋のステイヤーだった。


平成24年という年は、ロンドンで夏季オリンピックが実施された年だった。
レスリング女子の吉田沙保里選手、伊調馨選手をはじめとした多くの女子選手の活躍により、史上最多(当時)となる38個のメダル獲得に日本中が沸いた。
学術においては、10月に京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞の研究により、ノーベル生理学・医学賞を受賞する栄誉に浴し、世界の注目を集めた。
一方で経済の分野においては、前年に1ドル=75円32銭の史上最高値を記録した相場が、この平成24年の12月に起こった民主党から自民党への政権交代とともに緩やかな終わりを遂げていった年でもあった。

そして、その平成24年の、12月1日。
冬晴れの下、乾いた風が中山競馬場にも訪れる。

誰もが気ぜわしくなる師走。その師走の中山開催を告げる名物重賞が、GⅡ・ステイヤーズステークスだ。

芝コース3,600m、芝の内回りを丸々2周する超長距離レース。

かつて天皇賞が春秋ともに3,200mで施行されていたように、日本競馬において「ステイヤー」と呼ばれる長距離ランナーたちの地位は高かった。
されど、世界の潮流と同じように、昭和58年に秋の天皇賞が2,000mに短縮されたのを皮切りに、平成以降の日本競馬においてもスピード強化と、仕上がりの早さが求められる2歳戦の充実に舵を切っていく。

「菊花賞は強い馬が勝つ」という格言は久しく聞かなくなり、天皇賞・春でメジロマックイーンとトウカイテイオーの激突に列島が沸いた平成4年は遠い昔の記憶になってしまった。
瞬きする暇もないスピードを争う短距離戦とは違い、長距離戦はまるで即興で演じられるドラマを観ているかのような愉悦がある。

ゆったりとしたスタート。
鍔迫り合いが聞こえるようなポジション争い。
1周目の正面スタンド前を各馬が駆け抜ける高揚感。
生き物のように変化していくレース展開。
手綱を取る名手たちの駆け引き。
長い旅路の果て待つ、死力を尽くした直線。
長距離レースには、競馬の魅力が詰まっている。

しかし、令和元年となる現在において、平地競走で3,000mを超すレースは年間でわずか6レースのみ。長距離を得意とするステイヤーたちも、もはや化石のような存在となってしまった。

その数少ない長距離レースの中でも、最長距離を誇るステイヤーズステークス。

平成24年においては、15頭の優駿たちが揃っていた。

1番人気は、前走のオープン特別・アンドロメダステークスで2着に入っていた5歳馬・メイショウウズシオと飯田祐史騎手。凱旋門賞馬である父・オペラハウスの重厚な血統も、このマラソン重賞向きだと思われたのだろう。
2番人気は、前走で主戦のダートから芝に替わって鮮やかな勝利を収めてオープン入りを果たしていた、上昇気流の4歳馬・デスペラードと内田博幸騎手。
3番人気で続くのは、3年前のこのステイヤーズステークスで勝った実績があり、天皇賞・春でも1番人気を集めた6歳馬・フォゲッタブルとライアン・ムーア騎手。父はサンデーサイレンス産駒きっての長距離砲・ダンスインザダークであり、実績、血統ともに十分のステイヤーである。
4番人気は勝ち鞍が全て芝2,000m以上であり、騙馬の4歳馬・ファタモルガーナと川島信二騎手。3歳時の京都新聞杯の出走以来となる重賞挑戦だった。父は、空飛ぶ7冠馬・ディープインパクト。
それから同年2月のダイヤモンドステークスを制していた、6歳馬・ケイアイドウソジンが5番人気。

そして3年前の天皇賞・春の勝ち馬であり、前年のステイヤーズステークスを勝っていたマイネルキッツには松岡正海騎手、さらにアメリカジョッキーズクラブカップ2回と日経賞勝ちの実績のあるネヴァブションには田中勝春騎手が騎乗。

この実績のある2頭は、実に9歳だった。

一般的に競走馬としてのピークは4歳から5歳頃という意見が多い中で、こうした年齢まで現役を続ける馬たちは少ない。しかし、豊富な経験と安定した気性が求められる長距離レースにおいては、こうした高齢馬の出走が多い。

そのメンバーの中にあっても、さらに先輩である10歳馬のステイヤーが出走していた。

鞍上は、北村宏司騎手。
この師走のマラソン重賞に6回目の出走となる老雄、トウカイトリックである。
同世代のディープインパクトは当の昔に引退し大種牡馬としての道を歩み始めていた。4番人気のファタモルガーナは、そのディープインパクトの産駒である。

老雄が、彼と同じ世代の英雄の産駒と同じレースを走るという数奇な長距離重賞が、幕を開けようとしていた。


トウカイトリックは、平成15年に北海道・三石で生まれた。

父はNHKマイルカップ、ジャパンカップを制して凱旋門賞でも2着に入ったエルコンドルパサー。母はアメリカから輸入されたズーナクア、そして母の父は「グラスワンダーの父」として知られるSilver Hawkという血統だった。
夭逝したエルコンドルパサーが遺したのはわずか3世代の産駒だったが、その中からヴァーミリアン・アロンダイト・ソングオブウインドといった多彩な活躍馬が出た。

トウカイトリックは、その2世代目の産駒であった。
2歳の夏、トウカイトリックは小倉の芝1,800mの新馬戦でデビュー勝ちを飾る。鞍上は幸英明騎手だった。
その後4戦ほど悶えるものの、3歳になると500万下・1000万下の特別戦と連勝。
秋にはGⅡ・神戸新聞杯に挑戦するも、同世代ディープインパクトの7着と完敗する。

それ以降、引き続き芝の2,000m以上の長い距離を中心に使われるようになり、翌年のダイヤモンドステークスで3着、阪神大賞典で2着と、長距離での良績を残していく。4歳時のステイヤーズステークスでは2着と好走。明けて5歳になった万葉ステークスでは、2着。

そして2月のダイヤモンドステークスで、トウカイトリックはルメール騎手を背に重賞初制覇を飾る。
トウカイトリックにステイヤーとしての資質を見いだした陣営は、判で押したように古馬の長距離競走を重ねるローテーションを組んでいく。

新年が明けた京都で、万葉ステークス、3,000m。
寒風吹きすさぶ頃の東京で、ダイヤモンドステークス、3,400m。
土筆が顔を出す仁川で、阪神大賞典、3,000m。
風薫る頃の京都で、天皇賞・春、3,200m。
同じく新緑の眩しい東京で、目黒記念、2,500m。
霜の降りる頃の東京で、アルゼンチン共和国杯、2,500m。
そして師走の中山で、ステイヤーズステークス、3,600m。

年によって若干の違いはあれど、まるで風物詩のように、トウカイトリックは長距離競走への出走を重ねた。
毎年、毎年、それらのレースの馬柱にトウカイトリックの名前が記されているのは、一種の様式美と言えた。

6歳時、万葉ステークスを勝利。
8歳で、再び万葉ステークスを勝利し、さらに阪神大賞典も制覇。
その勢いを駆って、同年オーストラリアのコーフィールドカップ、そしてメルボルンカップへの挑戦まで経験した。

トウカイトリックは、歳を重ねても衰えなかった。
──いや、周りの他馬と同じように衰えていたのを、彼の気力が支えていたのかもしれない。
長い長いレースを、いつも一生懸命に走り抜ける彼を見ていると、そんなことを感じさせられた。

9歳になってもトウカイトリックは現役を続行し、天皇賞・春で5着、ステイヤーズステークスで3着と掲示板に載る好走を重ねる。

しかし10歳のシーズンでは、万葉ステークス6着、ダイヤモンドステークス7着、阪神大賞典6着、天皇賞・春8着と苦戦、休み明けのアルゼンチン共和国杯では10着と惨敗していた。

そんな状況の中迎えたのが、平成24年のステイヤーズステークスだった。
トウカイトリックは、10歳という年齢からか近走の不振からか、上述のメンバーにおける8番人気に甘んじていた。


柔らかな冬の午後の陽射しの中、重賞のファンファーレが鳴り、ゲートが開いた。
5番のメイショウクオリアがハナを切り、10番ケイアイドウソジンが番手をうかがって1周目の1コーナーに向かう。

人気のメイショウウズシオは4番手あたりの前目につけ、フォゲッタブルは中団やや前目のインコースに。大外枠の15番から出たトウカイトリックはちょうど中団の外目あたりを走り、そして人気の一角デスペラードは最後方からレースを進める。

向こう正面に入り、隊列がややバラけていく。

「まだゴールまでは長い、じっと力を溜める時だ」
「いま動いておかないと、取り返しがつかなくなる」

各騎手、各馬の思惑が折り重なり、レースは生き物のように千変万化していく。
周りに揺らされ、翻弄され、揺蕩い、押し流されながらも、自力で道を切り拓こうと懸命に走る15頭。
それを応援する者たちは、もしかしたら自分の人生の縮図を覗き込んでいるのかもしれない。

やがてケイアイドウソジンが仕掛け、メイショウクオリアからハナを奪い、この2頭が後続をやや離して3コーナーにかかっていく。

後続各馬のポジションは変わらないものの、馬群の間が伸びて縦長の展開に。
直線に入り、スタンドから歓声が上がった。

ケイアイドウソジンを楽に逃がさないよう、番手集団のメイショウウズシオ、ナンデヤネン、ネオブラックダイヤたちが塊となって差を詰めてプレッシャーをかける。

中山の急坂を駆けあがり、ゴール板を過ぎていった。

──ようやく、あと1周だ。

トウカイトリックは、まだ中団のインコースでじっとしている。
ファルタモガーナ、サイモントルナーレ、デスペラードという面々は、変わらず後方で末脚に賭けている。
2周目の1コーナーあたりで、今度はメイショウウズシオがハナに立った。

一つのレースの中で、何度も先頭が入れ替わる駆け引きもまた、長距離線の醍醐味だ。
向こう正面に入り、じりじりと馬群が詰まっていく。
それは、火のついた導火線が徐々に短くなっていくようだ。
各馬が、静から動へ移り変わる瞬間を、窺っている。

そして、ファタモルガーナの川島騎手が、後方からマクり気味に仕掛けた。
ひと呼吸置いてから、その後方にいたデスペラードも馬群の外から押し上げていく。

トウカイトリックは、まだ中団で動かない。

3コーナーに差し掛かったところ、先頭を走るメイショウウズシオにファタモルガーナが2番手まで迫る。
その後ろからデスペラードが迫り、内からはフォゲッタブルも来ている。

そしてネオブラックダイヤ、さらにトウカイトリックの北村騎手の手も動き、いよいよスパートがかかった。

残り600mの標識を過ぎる。
3,000mという長距離を走ってきた各馬に、ここから最も過酷な3ハロンの勝負が待ち構えている。

4コーナーを曲がり、中山の短い直線に入る。
先頭のメイショウウズシオの手綱に手応えはなく、馬場の三分どころを通ったファタモルガーナの脚色がいい。
だが、その内からやってくるピンクの帽子、トウカイトリックの脚色が、さらにいい。

大外からは、デスペラードが迫る。
この3頭の争いになった。

残り200m。

本日3度目の急坂を、全馬が死力を尽くして駆け上がっていく。
内からトウカイトリックが抜け出そうとする。
ファタモルガーナが食い下がる。
デスペラードも渾身の追い込みを見せる。

だが、トウカイトリックが抜けた。

──トウカイトリックだ。

トウカイトリック、1着。

勝ちタイムは、3分46秒5。

2着にファタモルガーナ、3着にデスペラードと続いた。
トウカイトリックは、2年8ヶ月ぶりの重賞制覇となり、このステイヤーズステークスにおいては6度目の挑戦で初制覇となっていた。
しかも10歳での平地重賞勝ちは、平成20年の小倉大賞典のアサカディフィートと並ぶ、史上最年長勝利記録でもあった。

「老いは恥ではない」

フォアマンの金言を地で行くような、トウカイトリックの走り。

師走の風を切り裂くようにして、老雄は中山の直線を突き抜けた。


10歳にして、奇跡の重賞制覇。
ステイヤーとしての矜持を見せたトウカイトリックは、その後12歳まで現役で走り続け、万葉ステークス4着の後、故障を発生して引退した。

2歳のデビューから、9年と4ヵ月あまり。
走ったレースは63戦。
走り抜けた距離は175.1kmにも及んだ。

新馬戦の幸英明騎手から、引退レースの万葉ステークスの福永祐一騎手まで、手綱を取った騎手は述べ20名にも及ぶ。
常連となった長距離レースへの出走回数は、万葉ステークス7回、ダイヤモンドステークス4回、阪神大賞典8回、天皇賞・春8回、目黒記念4回、アルゼンチン共和国杯7回、ステイヤーズステークス7回。

特に阪神大賞典と天皇賞・春は8年連続での出走と、前人未到の記録である。

ディープインパクト、メイショウサムソン、オウケンブルースリ、エイシンフラッシュ、オルフェーヴル、ゴールドシップ……いくつもの時代を彩った名馬と、同じゲートに入り、馬体を並べて走った。
異なる三冠馬と走った名優は、多くのファンに愛され、記憶と記録に残る走りを見せてくれた。

引退後は京都競馬場で誘導馬となるべく訓練を積んでいたが、登録抹消からわずか2ヶ月後の平成26年4月11日に骨折により鬼籍へと入ってしまった。

息の長い現役生活からすると、あまりにも突然すぎる別離だった。

それから約3週間後の5月4日。
彼が誘導場を務めるはずだった天皇賞・春が行われるこの日の朝、京都競馬場はよく晴れていた。
その青空の下、場内の馬頭観音の脇に設置された彼の献花台には、開門直後から手を合わせるファンによって長い行列ができていた。

どんな長い距離のレースでも、どんなに歳を重ねても、あきらめずに懸命に走ったトウカイトリックに、みな感謝を伝えていたのだろうか。

迎えた第11レース、天皇賞・春。
関西テレビで実況を担当していた岡安譲アナウンサーは、18頭のステイヤーたちが本馬場入場を終えたところで、この場に立つことができなかった平成の名ステイヤーを称えていた。

「そして今日はもう一頭紹介させて下さい。このレース8年連続出走という大記録を残して今年引退したトウカイトリック。残念ながら先日不慮の事故でこの世を去ってしまいました。天皇賞の誘導馬という夢は叶いませんでしたが、今日は天国から後輩達の活躍を見守っています」


今年もまた、師走の中山に、ステイヤーズステークスがやってくる。

その出馬表に、また私はあの馬の名前を探してしまうのだろうか。

写真:Horse Memorys

あなたにおすすめの記事