JBC当日である2008年11月3日の朝。ベッドから出た私はまだ酔っていた。
誤解のないように書いておくが、前日のお酒が残って酔っていたわけではない。月並みな表現になってしまうけれど、その前日に行われた天皇賞(秋)でのウオッカとダイワスカーレットの壮絶な叩き合いが頭の中に残っていたのだ。
その当時、まとまった休みを取っていた私は、東京から関西に競馬の遠征に出ていた。
天皇賞(秋)を京都競馬場で観戦し、その日は大阪市内のホテルに宿泊。そして返す刀で翌日JBCが行われる園田競馬場へと「連闘」することになっていた。予定の時間ギリギリに起床となってしまったのでホテルの朝食をキャンセルし、財布と赤ペン、園田の競馬専門誌など必要なもの一式を無造作にカバンに放り込んで、慌ててホテルを出発した。
私にとって未踏の地だった園田競馬場に着いたのは、1レースの発走10分前。
阪急園田駅から無料のシャトルバスを降りて足を踏み入れた園田競馬場の、そのキャパの小ささにまず驚いた。JBC競走が名古屋競馬場で開催された際も遠征したけれど、あのときは窓口が大混乱をして、買いたい馬券を買えない人が続出していたのを思い出す。ただ、その教訓があったのか、この日の園田競馬場は有人窓口もフル稼働していて、大きな混乱は見られなかった。
関西在住の競馬仲間とも園田競馬場で合流し、どの位置で観戦するかを決めることに。その彼からの提案で、私たちはパドックに張り付くことにした。メインレース以前のレースも、パドックで馬の状態の良し悪しを判断して、マークシートを塗って窓口で馬券を購入することにした。パドックと窓口を何往復もしていたが、メインレースが近付くにつれ、パドックには黒山の人だかりが出来ていた。
“こりゃ、元の位置に戻るのも大変だな”
そう考えながら、人を掻き分けて友人の隣まで戻っていた。
JBCスプリントは、G1レース8勝という大記録に挑むブルーコンコルドに人気が集まっていたが、その記録は達成されなかった。その年の夏を境に、急激に力を付けて来たバンブーエールが見事に勝利した。
その余韻が覚めやらないうちに、パドックにはJBCクラシックに出走する12頭の馬たちが姿を現した。散々迷った私のJBCスプリントの馬券だったが(武豊騎手騎乗のメイショウバトラーを本命にしていた)、逆にクラシックの馬券は何の迷いも無かった。
東京を発つときから、◎はサクセスブロッケンと決めていた。
私の勝手なエゴなのだが、この馬がダートのレースを走る際には、負けるところは見たくないと思っていた。
ダートで圧倒的なレースで4連勝した後、芝で行われる日本ダービーに出走。3番人気まで支持を集めたものの、18頭立ての最下位という成績だった。
私は当時、この馬のダービー挑戦には批判的な意見を述べていた。
一生に一度しかないダービーという晴れの舞台で走らせてみたい、という関係者の気持ちももちろん理解は出来たけれど、あれだけ砂で強いパフォーマンスを見せる馬なのだから、芝のレースへの<挑戦>はまだ先でも良いのではないか、と考えていたのだ。
そしてダートで実績を積んだサクセスブロッケンには、翌春にドバイへ遠征してもらいたい、とも思っていた。横山典弘騎手とのコンビで、ホクトベガでの忘れ物を取りに行って欲しいと……。
ドバイのレースで客死し、検疫の関係上、その亡骸すら帰国を許されなかったホクトベガ。彼女の葬儀にただ一人、喪服で参列した横山典弘騎手。ホクトベガ以来となるドバイワールドカップへの参戦を、ぜひサクセスブロッケンで叶えて欲しい、という私自身の願望があった。
だから、サクセスブロッケンが今後使うであろう、ダートでの大レースでは負けて欲しくないと思っていたし、是が非でもドバイへ遠征して欲しいと考えていた。
日本ダービー以降はダート路線を歩むと決めたサクセスブロッケンは、ジャパンダートダービーでスマートファルコンらを寄せ付けず完勝。そして初めて古馬と対戦するべく、園田競馬場に登場してきた。
個人的な思い入れも強かったので、この日の彼の単勝馬券のオッズ云々は関係なかった。例え1.1倍のオッズを示していたとしても、私は買っていたと断言できる。
結果はご存知のとおり、ドバイ遠征の先輩でもあるヴァーミリアンが勝利。サクセスブロッケンは2着に敗れた。着差はわずかにクビ。でもこのクビ差は、どこまで走っても詰まらなかっただろうし、格の違いを感じさせられたクビ差のように私は感じた。
でも、この結果でも私は悲観も、落ち込みもしていなかった。出遅れ気味のスタートから先行させ、なおかつ他馬に目標にされる位置取り。
“よくクビ差で済んだ”と感じたし、私の期待が萎むということは全く無かった。
なぜなら、ドバイではもっと強い世界の猛者と戦わなくてはならないのだから、と。
私と付き合いの長い競馬仲間から
「アイツがこんな馬券の買い方をするなんて、珍しい」
という反響が多かったのも印象に残っている。穴党の看板を掲げ、万馬券を獲ることに喜びを感じる私は、1つのレースで10点20点買いをすることも多いのだけれど、こんな買い方をするほど私はサクセスブロッケンに惚れ込んでいたのだ。
まだ休みが残っていた私は、もしこの日の園田の馬券で大勝ちしていれば、さらに翌11月4日は金沢競馬場への遠征を企てていた。
ところが、この日の収支は散々たるもので、金沢への遠征なんて夢のまた夢。一緒に観戦した競馬仲間との反省会という名の飲み代を支払うのが精一杯だった。
園田でのJBC競走の翌日の朝──私は、やっぱり酔っていた。
それはサクセスブロッケンが敗れてしまったことによる「ヤケ酒」のせいだったのかもしれない。
結果としてサクセスブロッケンがドバイへ遠征することは無かったけれど
「もし遠征していたら、どんな結果になっていただろう?」
と考えるのはおもしろい。私の希望通り、もし遠征が叶っていたとしたら……。レースの内容や着順はもちろんのこと、レースに臨む前の横山典弘騎手はどんなコメントを残しただろうか。「たら・れば」であれこれと空想を膨らませて会話を楽しめるのは、競馬という種目の経験値を積んだからこそ、なのかもしれない。
後年、横山典弘騎手と話をさせてもらう機会があり、この園田で買ったサクセスブロッケンの単勝馬券にサインをしてもらうことにした。
本当は「サクセスブロッケンがドバイに行っていたらどうなっていたか?」を聞こうと思っていたのだけれど、緊張してしまった私は、園田まで観に行って応援したこと、惜しかったことしか伝えられなかった。すると横山騎手は落ち着いた口調で、こう返してきた。
「ありがとうございます。期待に応えられず、すみませんでした」
「でもまぁ、この後、僕はこの馬から降ろされちゃうんだけどね」
そう言って、幼い子供のような無邪気な笑顔をして、ペンを走らせてくれた。
2020年5月、サクセスブロッケンは誘導馬という肩書きで「2度目の」東京優駿を迎えた。残念ながら無観客での開催となってしまったけれど、もし観客が入っていたら出走馬に負けず劣らずの声援がサクセスブロッケンにも送られていたはずだ。
今後、東京競馬場に私が行ける機会を得られたら……真っ先にサクセスブロッケンに会いに行きたいと思う。このJBCの文章を書いているうちに、園田で応援したあの日の気持ちを思い出すことができた。もちろん結果(着順)は変わらないし、あの馬券は何年経っても「ハズレ馬券」のままだけれど、1頭の馬に海外遠征をして欲しいと夢を託した気持ちは、色褪せないことに気付かせてくれたのだ。
そしていつの日か、また日本からドバイに遠征した馬が勝利し、その馬上で日の丸を掲げるシーンを見てみたいと思うし、それが横山典弘騎手や彼の息子だとしたら……。それはきっと、かの地で眠るホクトベガが力を貸してくれたから、と考えてしまうのはロマンチック過ぎるだろうか。