師走のある日の朝、まだ私が学生の頃。父の訃報をしらせる電話を受けたとき、私は下宿先で寝ているところだった。
「落ち着いて聞きなさい」と切り出す祖母の方こそ、全く落ち着いていないだろうと妙に冷静だった。
不思議と、悲しいといった感情は湧かなかった。急ぎ帰省しないといけなかったのだが、なぜか吉野家で朝昼兼用の牛丼の大盛りを、殊更ゆっくり食べてから駅に向かったのを覚えている。
隣に乗客がいると落ち着かない私は、いつも新幹線に乗るときはデッキで過ごす。そのときも窓の外を流れる風景を、何となく眺めていたように覚えている。窓の外を流れてゆくのは、いつも帰省するときと変わらない風景に見えた。

父は、私が中学生のときに北陸に単身赴任になった。私は高校卒業のあと実家を出たから、思春期以降、父と会話をすることが圧倒的に少なかった。たまに父が実家に帰ってきても気恥ずかしく、私が実家を出てからの交流といえば、盆と正月の帰省のわずかな時間くらいだったように思う。
若いうちに突然に親を亡くすと、自分の寄って立つ土台となるアイデンティティを喪失して見失うことがある。その翌年、母をも突然亡くした私は、まるで糸の切れた凧のように寄る辺なく漂っていた。
私の知る多くの男性にとって「親父越え」というものは人生の一つの大きなミッションであり、それをこじらせると上司やリーダーシップに葛藤を抱えることになるが、父親を失った私は「越えるべきもの」を同時に失ってしまった。それでも、幸運にも就職した会社でワーカホリックになりながらも働き続けることができたのは、仕事に文句一つ言わなかった父親のおかげなのかもしれない。

──そういえば、私が下宿して家を出ることを決めたその年に、菊花賞を勝ったセイウンスカイも「越えるべき父親」を喪失していた。
人間の都合で、生まれてから父馬と会うことも滅多にないサラブレッドに、それを投影するのは、もちろん馬鹿げているとは思う。
それでもあの師走の朝の別れの電話から、長い月日が経ったいま、私はあの秋の京都の青空の下の美しき逃走劇に想いを馳せる。


セイウンスカイは、1995年に北海道鵡川町(現むかわ町)の西山牧場で産まれた。西山牧場は1973年にあの社台グループの抑えてリーディングブリーダーに輝くなど、長く生産者のリーディングの上位を争ってきた名門だ。
しかし1990年代に入るとその勢いに陰りが見え始めたことで、オーナーの代替わりとともに少数精鋭の生産方式に切り替えていった。セイウンスカイは、そうした西山牧場の転換期に産まれた。
父:シェリフズスター、母:シスターミル、母の父:ミルジョージ。
父親のシェリフズスターは、アルゼンチンの歴史的名馬フォルリから連なる異系血統。イギリスで産まれ、4歳時にイギリスのG1・コロネーションカップとフランスのG1・サンクルー大賞を連勝した実績を買われ、西山牧場が購入し種牡馬となった。
大きな期待を背負って輸入されたシェリフズスターには、初年度から多くの有力な繁殖牝馬が集められた。

しかし日本の軽い馬場が合わなかったのか、1994年からデビューしたシェリフズスターの産駒は、まったくといっていいほど走らなかった。折しも少数精鋭に経営方針を転換した西山牧場では、多くの繁殖牝馬・種牡馬が去っていった。
シェリフズスターもまた、種牡馬として廃用の憂き目を見ることになった。そんな中で、セイウンスカイは新しく調教師として開業して間もなかった保田一隆厩舎に入厩した。

デビュー戦は1998年1月5日。
5番人気ながら、徳吉孝士騎手を背に中山のマイル戦を先行から押し切った。中2週で挑んだジュニアカップでは、5馬身差の鮮やかな逃げ切りで連勝を収め、さらに3月の弥生賞でも逃げ切りを図ったがこちらは武豊騎手のスペシャルウィークの強烈な末脚に屈して2着となった。
しかし本番の皐月賞では横山典弘騎手とのコンビで、番手追走から4コーナーで先頭で、そのスペシャルウィークと福永祐一騎手のキングヘイローを完封。しかし彼が世代最初に牡馬クラシックを勝ったとして名を挙げたとき、称賛を浴びるべき父馬の姿は、もうすでに西山牧場になかった。

俺がシェリフズスターの息子だ。
世代最速を決める戦いをキャリア4戦で駆け抜けたセイウンスカイは、確かに父の名を刻んだ。

同時にそれはサンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンといった当時の大種牡馬の産駒たちとは異なる、父の血を残すことへの孤独な戦いの始まりでもあった。

「最も幸運な馬が勝つ」といわれるダービーでは、武豊騎手のスペシャルウィークの快走の前に4着に完敗。
そして、大過なく夏を越した彼らは再び勝負の秋を迎える。セイウンスカイは秋の緒戦に、古馬混合のG2・京都大賞典を選択する。
セイウンスカイは、皐月賞でゲート入りを嫌ってダービー前に再審査を受けた経緯があった。秋の緒戦をトライアルレースの京都新聞杯とした場合に、もしも皐月賞と同じようにゲート入りを嫌って再審査となると、本番の菊花賞には日程的に間に合わないことからの選択だったと伝えられる。
同年の春の天皇賞馬・メジロブライト、前年の有馬記念馬・シルクジャスティス、そして実績のあるステイゴールドやローゼンカバリーらといった古馬の一線級が揃った中で、セイウンスカイは7頭中の4番人気での出走となった。しかし世代最速の皐月賞馬は、彼らを完封する見事な逃げ切り勝ちを収めるのである。
中盤ペースを緩めての上り3ハロン34秒8の二の脚に、メジロブライトの末脚も届かなかった。
その一方で「世代で最も強運な馬」スペシャルウィークは、菊花賞トライアルのG2・京都新聞杯から始動。福永祐一騎手のキングヘイローとの直線入り口からの叩き合いをクビ差制し、盤石の強さを見せつける。

そして1998年11月8日。
「最も強い馬が勝つ」といわれる牡馬クラシックの最後の一冠、菊花賞を迎える。
陽が沈むのが徐々に早くなってきた晩秋の京都競馬場。夕暮れに差しかかった柔らかな陽光を浴びて、「世代最強」を競うゲートが開いた。揃ったスタートから、セントライト記念を先行して押し切った江田照男騎手のレオリュウホウが前をうかがう。しかし横山典弘騎手と黒い帽子のセイウンスカイが、すぐに内から交わして先頭に立つ。
1周目の3コーナーをカーブして、各馬折り合いを気にしながらポジションを整えていく。キングヘイローは先団5番手あたり、そしてスペシャルウィークは中団やや前目あたりで追走している。1周目の直線を向いて、セイウンスカイがやや2番手のレオリュウホウを突き放す。
4馬身、5馬身……
前半1,000mのラップが59秒6。3,000mの長丁場の菊花賞で、1分を切るのはかなり速いペースと言える。
馬場の違いもあるので一概には言えないが、同じ良馬場で実施されたマチカネフクキタルが勝った前年の菊花賞では61秒8、前々年のダンスインザダークの菊花賞も61秒9であったから、それより2秒以上も速いことになる。向こう正面で大きく縦長となった馬群。

──大丈夫なのか?
──そのペースで最後までもつのか?

観ている者のそんな想いをよそに、横山騎手は次の1,000mを実に64秒3とセイウンスカイに息を入れさせる。絡んでくる馬がいないのを尻目に、1ハロン13秒台のラップを2回。「長距離は騎手で買え」という馬券の格言があるが、それを地でいくような名手・横山騎手の眩惑のペース配分。
勝負の3コーナーを迎えてセイウンスカイが再びスパートをかけたとき、その後方で一団となっていた馬群からはすでに10馬身近く離れていた。差を詰めようと後続馬もペースを一気に上げるが、直線を向いてもまだ4、5馬身のリードを保っていた。
晩秋の傾きかけた陽に照らされて、長く伸びた自らの影を追うように、セイウンスカイは伸びた。
懸命に追う武豊騎手とスペシャルウィークが、ようやく大外から2番手に上がってきた。しかしその3馬身先で、セイウンスカイと横山騎手は悠々とゴール板を駆け抜けた。勝ちタイムは3分3秒2。
レースどころか3,000mの世界レコードでの圧勝、菊花賞の逃げ切り勝ちは1959年のハククラマ以来38年ぶりだった。

もはやセイウンスカイは、父を失ったことで同情されるような立場ではなかった。のちに最強ともいわれた1998年世代のクラシック2冠。それは世代よりも時代を代表し、背負ってきた優駿たちの系譜を受け継ぐことを意味する。

そして父と母から受け継ぎし、その血を守ること。その新たな戦いへと漕ぎ出す、雄弁なる美しき逃げ切りだった。


セイウンスカイは翌年の5歳時に日経賞と札幌記念を勝ったが、屈腱炎も患い、ついに古馬G1には手が届かなかった。
7歳で引退しアロースタッドで種牡馬入りするも、古馬になっての成績と怪我、そして異系の血統が嫌われたのか、種付頭数は同期のスペシャルウィークやキングヘイロー、グラスワンダー、エルコンドルパサーといった面々から大きく水を開けられてしまった。
重賞勝ちはおろか勝利を挙げることができた産駒も数えるほどしかおらず、晩年は生まれ故郷の西山牧場に帰り、そして2011年に鬼籍に入った。残念ながら、父・シェリフズスターから連なる直系は途絶えたといっていい。
私はといえば、冒頭のとおり、あの菊花賞の数年後に父との別離を経験した。越えるべき父親はどこにもなく、私は寄る辺なく自己否定と犠牲を燃料にして目の前の仕事に没頭したりもしていた。それから長い時を経た、いま、ようやく父との別離を正面から受け止め、その不在を自分の人生の中に統合しようとしているところである。
それが遅いのか早いのかは、よくわからない。
遅くもあり、早くもあり──それは、セイウンスカイの菊花賞のペースのようなものなのだろうか。

2018年某日、札幌の短い夏の終わりを告げる「札幌2歳ステークス」を勝ったのは、ニシノデイジーという牡馬だった。血統表を遡ってみると、祖母の父の欄に刻まれた名前に目が留まった。

セイウンスカイ。

直系は途絶えても、母系の中で彼とシェリフズスターの名前は生きていた。曾祖母は、桜花賞馬・ニシノフラワー。西山牧場に初めてのクラシック勝利をもたらした名牝。その牧場きっての名牝に、セイウンスカイを付けるという西山牧場の執念が垣間見える血統。
その娘・ニシノミライは未勝利、そしてその孫娘のニシノヒナギクもまた未勝利だった。けれども途絶えたと思っていた血は確かにつながれていて、時を経て北の大地で大きな花を咲かせた。
それはまた同時に、セイウンスカイの名と、あの年の菊花賞を私の脳裏に想起させた。まだ、私もこれからやれるのかもしれない。
墓前に立つたび「そんなところに入ってたんじゃ、最強じゃん。もう越えられねえじゃねえか」と思っていた父親と、ほんとうの意味で別れを告げることができるかもしれない。
俺は俺の道を行く。もう親父とは競わない。
けれど、いつかそっちに行くときは「あんたの息子でよかった」と胸を張って行くよ。そのときまで、遺品の「百年の孤独」の栓は開けない。こっちでは酌み交わすことができなかったから、そっちに行ったら心行くまで付き合ってくれ。
実家にいたころは、真っ赤な顔してよく真夜中に帰ってきて潰れてたもんな。酒に強くもなかったのに、付き合いで不味い酒もあったのかな。いや、安心してくれよ、俺も弱いから。それでも、仕事の愚痴は聞いたことなかったな。なあ、親父よ。
あんた、やっぱりすげえよ。偉大だったよ。
あの晩秋の青空の下、淀の3,000mを先頭を駆け抜けたセイウンスカイみたいに、まっすぐで、偉大だったよ。

菊花賞、京都・芝3,000m。淀の坂越え二回に求められるのは鍛錬か、それとも血の裏付けか。

写真:雪のかけら

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