兄より早く
2004年9月19日。15時45分。私は後悔の念を抱えながら札幌競馬場のターフビジョン前に佇んでいた。「どうしてあの時、ここに来なかったのだろう」と。
「あの時」とは5週前の8月14日。札幌のターフでレクレドールは出遅れからの直線一気という派手な勝ち方で、休養を挟んで2連勝を飾って見せていた。あろうことか私は、この日レクレドールが札幌で走ることを見落としていたのだ。
10分前にターフビジョンに映った中山競馬場、セントライト記念では、すっかり「道民の夢」となっていたコスモバルクが勝ち切り、菊花賞への切符をもぎ取って見せた。札幌の場内も拍手と歓声で満たされた。
静寂が戻った札幌に阪神競馬場から重賞ファンファーレが聞こえてきた。秋華賞トライアル、ローズステークス。スタンド最前列、馬場の外ラチにへばりつくようにして私はひとり、ターフビジョンを見つめていた。
安藤勝己騎手を鞍上に迎えたレクレドールは中段馬群の後ろから追走し、4コーナーの時点では後方3番手。大外から懸命に足を伸ばす。
残り150m、一足先に馬群を呑みこみにかかるスイープトウショウと脚色が同じに見えた。苦しいか。
次の瞬間、安藤勝己騎手の左鞭が一発飛んだ。「ビシィ!」と音が聞こえてきそうだった。
レクレドールはその叱咤に応え、スイープトウショウをかわし、内から伸びてきたグローリアスデイズを抑え込んで、1着でゴール板を駆け抜けた。
人影まばらな札幌競馬場、辺り構わず私は両こぶしを握り締めていた。
これで3連勝だった。オークス馬ダイワエルシエーロ、桜花賞2着アズマサンダース、そして常に世代を引っ張るスイープトウショウを相手に勝利したという事実。兄が38戦かかってやっと手にした重賞タイトルを、たった5戦で勝ち取ったのだった。
あの時目の覚めるような追い込みを見せたレクレドールの姿を思い出す。
──目の前、2006年札幌記念を走る彼女もまた、向こう正面で徐々にポジションを上げていった。3コーナーで4番手。それは1年前に目にしたレース展開と同じだった……。
勝利のカギは先行策
また、時は遡り、2005年8月14日。ちょうど1年前に2勝目を挙げた札幌の地に、レクレドールは再び姿を見せてくれた。第53回クイーンステークスである。
前年のローズステークスを制したレクレドールは秋のGⅠに歩みを進めた。
秋華賞、0秒9差の6着。エリザベス女王杯、0秒5差の7着。
「惜しい」と言うには一押し足りず、かといって「完敗」でもない。そんな競馬だった。
2004年、デビューから8か月で7戦を走り切ったレクレドールは冬休みを挟み、翌2005年3月の中山牝馬ステークスで戦列に復帰した。
そして中山、福島、中京、阪神と牝馬限定重賞への出走を重ねていく。個人的にうれしかったのは6月中京での愛知杯。鞍上には兄ステイゴールドの相棒、熊沢重文騎手が差配されたのだ。向こう正面で荒れた馬場の内側を果敢に攻めあがっていく熊沢騎手とレクレドールの姿に体中が震えたことも忘れられない。
そして、1年ぶりに札幌に姿を見せたレクレドール。私はこの時初めて彼女の走る姿を直接目にすることができた。2戦連続して騎乗した熊沢騎手からステッキを引き継いだのは、またも兄ステイゴールドと縁のある蛯名正義騎手だった。GⅠ3度目の2着となった98年天皇賞(秋)の鞍上だ。
この年の大きなニュースは、前年の桜花賞馬・ダンスインザムードの参戦。しかし春2戦で精彩を欠いたのが響いたか、2番人気にとどまった。かわって1番人気に推されたのは3歳馬、春の桜花賞3着、NHKマイルカップ2着のデアリングハートだった。今では「デアリングタクトのおばあちゃん」と言った方が通りがいいかもしれない。3番人気には愛知杯で鋭く追い込んで2着のチアフルスマイル、4番人気にはエルノヴァが続く。
ローズステークス以降勝ち星のないレクレドールは、5番人気に甘んじていた。
スタートを決めたレクレドールを、蛯名騎手は前へ前へと促して1コーナーに向かっていった。4番手。レクレドールが最初のコーナーを5番手以内で通過したのは、武豊騎手で初勝利を挙げた3戦目の未勝利戦以来だった。
「レクレドールの勝利のカギは先行策にあり」。これが兄の背中を知る東西の名手の共通認識だったとしたら……こんな妄想をするのも、競馬ファンの特権かもしれない。
向こう正面、逃げたスターリーヘヴンにダンスインザムードが並びかけていき、後続を引き離す。3番手にぽつんとデアリングハート。そこから更に5,6馬身離れた4番手、同じ勝負服のフェリシアと並んで、レクレドールは前を追っていた。
札幌競馬場のコーナーを、各馬が思い思いに仕掛けながら過ぎていく。いっぱいになったスターリーヘヴンをダンスインザムードがねじ伏せにかかるが、後ろから馬群が殺到してきた。
残り400m。先団2騎の外からデアリングハートが迫る。そしてそのさらに外、いつの間にかレクレドールが迫って、追いついて、一気に交わしていった。
ゴール板を少し過ぎたところからレースを見ていた私の眼に、内に切れ込みながら先頭でゴールを目指すレクレドールが一歩一歩近づいてくる。その外から道中一列後ろに控えていたヘヴンリーロマンスが突っ込んでくる。間を割ってはチアフルスマイルだ。
「蛯名! 蛯名! 粘れ! 蛯名!」
私は、まるでレクレドールのピッチに合わせるように叫んでいた。レクレドールとヘヴンリーロマンス、双方ともが目いっぱい体を伸ばし切り、全く並んだところがゴール板だった。
写真判定の結果、内のレクレドールがハナ差しのぎ切っていた。11か月ぶりの通算4勝目、重賞2勝目。
この時私は、初めて彼女の勝利をこの目に焼き付けることができたのだった。
──そうして思い出に浸っていた私が、視線を目の前のターフに戻すと、札幌記念は残り400mとなっていた。
私は目を見開いた。
内から4頭目。1年前にタイムスリップしたかのように、おんなじ所に、レクレドールの姿があったのだ。
私はまばたきを忘れた。