サンデー最後の大物と言われた天才・マルカシェンク。幾度とない試練を乗り越えた、現役最後の勝利を振り返る。

サラブレッドは、その素質のどれほどをパフォーマンスとして発揮できるのだろうか。
能力が高くても精神面の弱さから大成できない馬がいたり、成長曲線の絶頂期を怪我で棒に振ってしまったり、怪我が治っても無意識に庇ってしまい以前の力が出せなかったり……。
確かな素質や実力がありながら、なかなか結果を出せずに終わってしまう馬たちは数多く存在する。きっとそんな馬たちと名馬と言われる馬たちの違いは、幾つもある細かい運命の歯車がカチッと噛み合うか噛み合わないかのわずかなものだろう。名馬というのは、もしかすると偶然の産物に過ぎないのかもしれない。
これはサラブレッドが繊細な生き物である以上、切っても切り離せない永遠の課題とも言える。

2000年代後半を駆け抜けた、マルカシェンクという馬がいた。
大種牡馬サンデーサイレンスの最後の世代として2003年に生を享けた彼は、そのスケールの大きい走りから「サンデーサイレンス最後の大物」として注目を浴びる。全ての勝利で手綱を取っていた福永祐一騎手をして、厩舎の同級生であり日本ダービーを制したメイショウサムソンと比較しても「ランクが違った」と言わしめたとされるほどの逸材だった。

新馬戦では、のちのGⅠ馬フサイチリシャールを抑え1.1倍の支持に応えて出遅れながらも圧勝。
2戦目はデイリー杯2歳Sを選択して、1番人気に応えて2連勝で重賞初制覇を達成する。
3戦目は重賞勝ち馬ながらオープン特別に臨み、他馬より2kg重い斤量を背負いながら軽く回ってきて3連勝を決め、クラシックの有力候補としての地位を確立した。
4戦目の京都新聞杯ではスローペースに泣かされて初めての敗戦を喫したが、栄光の舞台日本ダービーに駒を進め、出遅れながらも堂々とした競馬で4着に入線するなど、世代のトップクラスとして確かな道のりを歩んでいた──はずだった。

そんな彼は、2歳から3歳にかけての成長期に2度の骨折を経験していた。

1度目は3戦目の後、そして2度目は日本ダービーの後。
幸いにも両方とも症状は軽度でもので半年足らずで戦線復帰には至っているが、復帰後の彼の走りはひと回り縮こまったかのような印象を受けるものに変わっていた。加えて、彼が4歳となった2007年の2月をもって所属していた瀬戸口勉厩舎が定年解散となる。これに伴って河内洋厩舎に転厩となったのだが、運の悪いことに転厩直後に今度は腸捻転を発症して手術を経験、幸いにも命は取り留めたが復帰には約1年の長期間を費やすことになってしまった。

そんな彼が2歳時のデイリー杯2歳S以来、約3年ぶりの重賞勝利を飾ったのが夏の新潟伝統のマイルGⅢ関屋記念だった。
2008年、出馬表に名を連ねた全12頭のメンバーに重賞勝ち馬はわずか4頭だけ。
そのうちヤマニンアラバスタとフジサイレンスの2頭はすでにピークを過ぎたという見方が大半で、人気はそれぞれ10番人気と11番人気。つまり、メンバー構成はかなり手薄だったと言える。
そんな中で前走こそ出遅れて人気を裏切っていたものの、前々走のGⅡ中山記念は4着、2月に走った3走前のGⅡ小倉大賞典を2着に好走していたマルカシェンクは休み明けながら2.1倍の1番人気に支持された。

30℃に迫ろうかという暑さの中、大外枠から出遅れずにスタートを決めたマルカシェンクは、楽な感じで伸び伸びと馬なりで後方3、4番手でレースを進め、4コーナーを手応え十分に馬群の大外をついて回ってきた。
新潟競馬場の長い長い直線で、眠っていた世代屈指の素質が牙を剥く。

直線半ば、大外に持ち出されると福永祐一騎手が余裕たっぷりに鞭を抜いた。放たれたマルカシェンクは少し内目に切れ込みながら脚をグングンと伸ばす。福永騎手が鞭を左手に持ち変えて切れ込むのを修正して追いながらも、最後の3ハロンを32.3秒という極限の末脚を使って追い込んで、2着をきっちり1馬身だけ退けた。
1番人気に応えた久しぶりの重賞2勝目は、河内洋厩舎開業以来、初重賞制覇のメモリアルともなり、ゴール後に福永騎手が右手でマルカシェンクの首を叩いて労った。

しかし、これがマルカシェンクにとって最後の輝きとなった。
2度の骨折と転厩による環境の変化、腸捻転による手術を経験した彼は満身創痍だったのかもしれない。
その後の彼はレースの度に出遅れを繰り返すようになり、その悪癖に苦しめられた。2度のGⅢ2着はあったものの、その大半で立ち遅れてレースの流れに乗れず……と、2桁着順を繰り返す。G Iも含めて重賞を17戦、最後は矛先を変えてダートにも挑戦したが次の世代を担う若駒たちに引導を渡されて、ついに2010年末──世代随一とまで称された素質馬はGⅠを制するには至らず、重賞勝利2つという戦績で7歳末まで走り続け──全35戦の競走生活を終えた。
引退後は母方の血統とサンデーサイレンス最後の産駒という点を評価され種牡馬として繋養される。しかし6シーズンで45頭の産駒を世に送り出すも、重賞勝利など目立った活躍をする馬を出すことが出来ずに終わった。

マルカシェンクが何の怪我もなく、デビューから3連勝を飾ったあのスケールの大きな走りを続けられたとすれば……と考える人は、決して少なくないはずだ。実際、退けた馬の中には2歳チャンピオンのフサイチリシャール、息長く活躍を続けGⅠ2着を3回記録したスーパーホーネット、3歳馬ながらジャパンカップでディープインパクトの2着に食い込んだドリームパスポートなどがいる。少なくとも2歳時点での完成度はマルカシェンクの方が上だったということを思えば、そう考えることは無理もない。怪我をしてからも日本ダービー4着、重賞勝利などを記録したのだから単なる早熟馬として括るのは軽率で、それこそ「歯車さえ噛み合ったのなら」と思ってしまう。

関屋記念には、そんな彼の最後の意地を見た。
2着に入ったリザーブカード、3着に入ったタマモサポートが図らずも同世代の5歳馬だったことには、マルカシェンクの“世代屈指の素質馬”としてのプライドが現れた結果だったのかもしれない。

写真:Horse Memorys

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