マイネレーツェル~いくつもの逆境を越えて~

『競馬の楽しさを、すべての人へ』をモットーとして、馬券予想を掲載せずに運営されている競馬ポータル『ウマフリ』をご覧の皆さんであれば、おそらくその多くがターフを、砂上を駆けるサラブレッド一頭一頭に尊敬と愛情あふれる温かい眼差しを投げかけていらっしゃることだろう。そして、そのお一人お一人に「推し馬」がいるに違いない。

──では、その馬を「推す」きっかけは、果たしてなんだっただろうか。

例えばヨカヨカ。競走馬産のメインストリームからはるか離れた九州の地に生まれた不利をはねのけるべく、生産者やオーナーの気概ものせて、ひのき舞台に挑み続けた、そのひたむきな姿か。

例えばキタサンブラック。庭先取引での購買価格わずか350万円ともいわれる雑草魂が、エリートたちをねじ伏せてスターダムにのし上がっていった、その成長の姿か。

例えばメロディーレーン。あんなに「ちっちゃくてかわいい」馬が、1.5倍ほどの馬体を持つライバルたちと堂々渡り合う、その健気な姿か。

どさくさに紛れて私事を押し込むのをお許しいただければ、例えばステイゴールド。何度跳ね返されてもあきらめずに高い壁に挑み続けた、その不屈の姿に、惚れ惚れした。

……そんな「HERO」たちの要素を併せ持った1頭の鹿毛が、桜の切符をかけてトライアルに挑んだ。

その馬は主流を外れた馬産地で生を受け……。

のちの活躍を思えばあまりにも安価で取引され……。

記録に名を記すほどちっちゃな馬体で……。

いくつもの壁を乗り越え、ただひたすらに走り続けた。

そんなマイネレーツェルが、本稿の主役である。

南部の地から、小さな体で。

「三日月の 丸くなるまで 南部領」

遥か戦国時代の北東北、現在の岩手県から青森県下北地方までを治めた戦国大名、南部氏。その版図の広さは、夜空の月が三日月のころに南部領に入ると、連日歩き通して領地を通り抜けるころには満月になるほどであったという。

2022年の大河ドラマで取り上げられている鎌倉幕府を開いた源頼朝が、生涯最大のピンチに見舞われた石橋山の戦い。源氏方に与した、加賀美清光の三男光行が甲斐国南部牧(現在の山梨県南部町)に封ぜられて南部姓を名乗り、その後陸奥国に領地を与えられたのが南部氏の起源とされる。

鎌倉、室町、そして戦国の世を生き抜いた南部氏は江戸時代も南部藩として当地に根を下ろした。岩手競馬の重賞にその名を刻す「南部駒」の産地として知られた地の利を生かして南部藩は馬産に力を入れ、その伝統と秀でた育成技術は近代以降も受け継がれる。

戦後、1960年代前半までに7頭もの日本ダービー馬を輩出したほか、メイズイの三冠を阻んだグレートヨルカ、シンザンの三冠を阻むべく菊花賞で大逃げの手に出た二冠牝馬カネケヤキ、さらにはトウシヨウボーイ、テンポイントとともに「TTG」三強の一角を占めたグリーングラス……。数々の名馬を送り出し、かつての南部領の如く満月のような存在感を誇示していた青森県南部地方。しかしその後は進境著しい北海道に押されてその光を失っていき、21世紀を迎えるころには数年に1回、中央重賞勝ち馬を出すのが精いっぱいというの状況にあった。

そんな2005年4月4日、南部氏の東北における発祥の地とされる青森県南部町、佐々木牧場で、のちのマイネレーツェルは生を受けた。

父ステイゴールドはまだ初年度産駒がデビューする前で評価が定まっておらず、母ケイアイベールも上の産駒3頭はいずれもデビューを迎えることができなかった。

彼女は翌2006年7月、八戸市場に上場され、落札された31頭の中で下から数えて7番目の価格、210万円でサラブレッドクラブ・ラフィアンに落札された。

2006年、全国のセールで購買されたサラブレッド1歳馬879頭の平均価格が約866万円、中央値が約430万円だったので、当時の彼女への評価が高いものではなかったことがうかがえよう。

母ケイアイ「ベール」→「ベールに包まれた」と連想されたのであろうか、ドイツ語で「謎」を意味するマイネ「レーツェル」と名付けられた鹿毛は一口8万円×100口、都合800万円の価格で会員募集にかけられ、2007年、1年半前にテイエムプリキュアでGⅠを勝ち取った栗東の五十嵐忠男厩舎所属となり、夏の小倉開催でデビューした。

芝1200m、牝馬限定の新馬戦。若き日の川田将雅騎手を鞍上に迎えたマイネレーツェルは中段で流れに乗ると最後の直線で大外から豪快に末脚一閃。最速の上がり3F35秒4で差し切り勝ちを収める。

この時の馬体重、402キロ。

ステイゴールド産駒初期の「走る」牝馬は、父に初の重賞を捧げたソリッドプラチナムしかり、福島記念で馬群を縫いあげたアルコセニョーラしかり、父に似て馬体が小さかったが、マイネレーツェルの「ちっちゃさ」は、特に際立つものだった。

その小さな小さな馬体で、マイネレーツェルは走りに走った。

中1週でフェニックス賞、前をとらえきれず2着。

小倉2歳ステークス、1番人気に推されるもやや位置取りが後ろとなり、直線追い込み届かず3着。

一息入れて晩秋の京都、ファンタジーステークス、大外に回すも伸びあぐねて8着。

池添謙一騎手に乗り替わって、中2週で500万下(現1勝クラス)の白菊賞。直線外に出せず進路を内に切り替えるとしっかり末脚をのばして2勝目を挙げる。

さらに中2週で初の関東遠征。当時は2歳暮れのスプリント重賞だったフェアリーステークスに駒を進めたマイネレーツェルは外から猛然と追い込むも届かず、重賞で2度目の3着に終わった。この時マイネレーツェルの馬体重は初めて400キロを切り、396キロでの出走だった。

僅か210万円で購買されたマイネレーツェルは、ほぼ休まず駆け抜けた2歳シーズンだけで、その評価の20倍近い約4000万円もの賞金を獲得したのである。

青森県産のハンデ、市場での低評価を覆すべく、ひときわ小さな馬体でひたすらに駆け征くマイネレーツェル。そのひたむきさと、その努力は、翌春にさらなる実りの時を迎えた。

第42回報知杯フィリーズレビューである。

最後の最後に届いていた末脚

2008年3月16日、マイネレーツェルの姿は早春の青空の下、阪神競馬場にあった。空模様と同じ、青い帽子の8番枠だった。

3歳になっても彼女は1か月1走のペースで走り続け、1月の紅梅ステークスは0秒3差の6着と善戦する。初めてマイルに距離を伸ばした2月のエルフィンステークスでも、勝った名血ポルトフィーノにこそ離されたものの4着に健闘。桜花賞への切符をつかむべく、陣営はフィリーズレビューを選択した。

1番人気に推されたのは阪神JF3着のエイムアットビップ。2番人気は紅梅ステークスを押し切った外国産馬エーソングフォー。そして3番人気には2歳夏の札幌でデビュー2連勝を飾って以来の出走となるペプチドルビーが続いていた。

その後もレジネッタ、ラベ、エイシンパンサー、ベストオブミー、ビーチアイドルと、マイネレーツェルに先着したことのある馬が名を連ね、マイネレーツェルは出走16頭中11番人気。単勝は50倍を優に超えていた。

出走馬中2番目に多いデビュー9戦目という臨戦過程から類推された「上積みの少なさ」、エルフィンSから8キロ減の396キロという馬体重も嫌われたのかもしれない。

このレース、仔細は忘れたが、私は所用があって生で観戦することができなかった。iPhoneの「ビッグウェーブ」が日本にやって来るのはこの年の7月。外出先での動画視聴が手軽にできる世の中はまだ到来していない。用事が済んだ私は、携帯電話をパカっと開き、ラジオNIKKEIのテレフォンサービスに電話をかけ、愛するステイゴールド産駒のマイネレーツェルが勝利していることを祈りつつ、フィリーズレビューの実況録音に耳をそばだてた。

マイネレーツェルは、3コーナー手前で一度、後方2番手で名前を呼ばれたきりだった。最後の直線でも彼女の名は、ゴール板に至るまでただの一度も、呼ばれることはなかった。

──そう、ゴール板に至るまでは。

第4コーナー、直線です。

先頭ですが、エイシンパンサーが、体半分とリードを取っていきました。

そして2番手集団ずらっと広がっていますが、間からは、ビーチアイドル、そして外からは、エイムアットビップが伸びてまいりました。外からエイムアットビップ。

しかし外からは、レジネッタも伸びてくる、レジネッタも伸びてくる!

さらに外からはラベ、外からはラベが伸びてくる!

さらに最内からは、ベストオブミーも接近してくる!

先……頭は、4・5頭広がってゴールイン!!!

ラジオNIKKEI実況より

「実況少し迷ってたな、きわどい勝負か。でもマイネレーツェルは名前呼ばれてないから完敗だな……」と、刹那、思った。

次の、瞬間である。

さらに外からは、8番の、

ラジオNIKKEI実況より

「ん、8番?」

さらに外からは、8番の、さぁ、マイネレーツェルも接近して、ゴール前は大接戦となりました……!

ラジオNIKKEI実況より

「マイネレーツェルの名前が呼ばれたぞ……? どういうことだ? ワープでもしてきたのか?」

私は、はやる気持ちを抑えて電話を切り、今度はJRAのテレホンサービスに電話をかけて、払い戻しを聞いた。

自動音声は、こう言っていた。

「単勝、8番、5,310円」

と。

8番は、マイネレーツェルじゃないか──。

携帯電話を持つ手が、ふるえ出した。

ふるえる左腕を右腕で必死に抑え込みながら、私は家路を急いだ。

記録ずくめの勝利

自宅に帰って録画していた民放の実況映像を見ると、外から足を伸ばしてきたラベの、さらに外からマイネレーツェルが突っ込んできていた。

一回り小さな馬体を目いっぱいに伸ばして、じわじわと差を詰めてきていたマイネレーツェルは、レースタイム1分22秒5の、本当に最後の最後の0.1秒で、その鼻先を真っ先にゴール板に滑り込ませていたのである。

マイネレーツェルが挙げた、ステイゴールド産駒として6つ目のJRA重賞勝ち鞍。その数字を115まで伸ばした2022年3月現在に至るまで、唯一の「ステイゴールド産駒によるマイル未満のJRA重賞勝利」であると同時に、史上に残る記録をいくつも刻み込む勝利だった。

青森県産馬のJRA重賞制覇は2002年ラジオたんぱ賞、ゴール前「なんということだぁ!」と実況に言わしめたカッツミーの勝利以来5年8か月ぶり。

馬体重400キロ未満の馬としては1992年阪神3歳牝馬ステークスを勝ったスエヒロジョウオー以来、実に25年3か月ぶりのJRA重賞制覇であった(そしてマイネレーツェル以降、馬体重300キロ台でのJRA重賞勝ち馬は生まれていない)。

さらにマイネレーツェルの市場取引価格200万円(税抜)は、21世紀以降のJRA重賞勝ち馬の中で3番目に低い(トレーニングセールに再上場されたモーリス、バビットの最初の市場取引価格を含めても5番目)。

そしてキャリア9戦目でのフィリーズレビュー制覇というのも1986年以降では、地方笠松で10連勝の後乗り込んできた、あのライデンリーダーに次ぐキャリアの多さである。

生産地のハンディを乗り越え、低評価を見返すべく、小さな小さな馬体を背一杯に躍動させ、ひたすら走り続けたマイネレーツェルは、桜花賞僅差の6着、オークスも0秒6差の9着と健闘したのち、秋初戦のローズステークスでは併せ馬で上がってきたムードインディゴをハナ差競り落として再びの輝きを見せた。鞍上はデビュー4戦でコンビを組んだ川田将雅騎手であった。

その後マイネレーツェルは5歳暮れまで、合計29戦を走りぬいて引退。JRAでの獲得本賞金1億7010万円は、秋華賞馬ブラックエンブレムをも上回る、同世代牝馬で7番目という立派なものであった。


青森県南部地方の馬産は、オルフェーヴルのダービー2着馬ウインバリアシオンの種牡馬導入、さらにドリームジャーニー産駒ミライヘノツバサのJRA重賞勝利、そして地方交流路線でのサルサディオーネの活躍と、存在感を徐々に取り戻すべく努力を続け、結果に表れてきているように思われる。その証拠に、サラブレッド1歳八戸市場は、2021年、史上最高の落札率とともに幕を閉じた。そして消費税別売却価格の合計は、15年ぶりに1億円の大台を突破したのである。

……そう。それは、マイネレーツェルが210万円で落札された、あの日以来の記録である。

写真:tosh

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