
初めて「メイショウ」を冠した馬、メイショウグリーンが初勝利を挙げてから11,096日。「その日」までにメイショウの馬たちは、800を超える勝ち星を中央競馬で積み上げてきた。
長い時間の中で、活躍馬も数多く誕生した。初重賞勝ちのメイショウキング、最優秀ダートホースにも選ばれたメイショウホムラ、マイルCSで16番人気ながら激走して大波乱を演じたメイショウテゾロ。
現代の競馬史をなぞれば、時代時代で様々なメイショウ馬に出会えるだろう。
もちろん華々しく活躍する馬がいる一方で、勝ち切れずにターフを去った馬もいる。競馬において一勝することは容易ではない。期待通りの結果が出ないことは珍しくないし、必勝を期しても敗れることはある。新馬でも未勝利でも重賞でもGIでも。簡単なレースなど一つもない。
だからこそ勝った時の喜びは何物にもかえがたい。松本好雄オーナーは、競馬に情熱を注ぎ続けてきた。
そして積み重ねてきた勝利の、その先に。メイショウの馬がついに世代の頂点に立った。
第73代日本ダービー馬、メイショウサムソン。
決して平坦な道ではなかった。野武士がごとき逞しさで走り続けた、その足跡を振り返っていく。

偶然、あるいはギフト
メイショウサムソンはマイヴィヴィアンの初仔として2003年、北海道浦河町の林孝輝牧場にて誕生した。牝系は小岩井農場の基礎輸入牝馬20頭の内の1頭、フロリースカツプから連なる在来牝系。メイショウサムソンの四代母には有馬記念を制したガーネツトの名もあり、名牝系として2026年現在でも様々な競走馬を通じて広がりを見せている。
しかし、注目したいのは父オペラハウス。同産駒の代表といえば、何を差し置いてもテイエムオペラオーだろう。出走レースを絞る傾向にある現代では、もはや達成不可能な偉業とも言われる「年間8戦8勝のグランドスラム」を成し遂げた名馬中の名馬。
そのオペラオーのライバルがメイショウドトウだった。無類の勝負強さを発揮する王者に対して、2着に迫ること5回。それでも高すぎる壁に屈することなく、挑み続けた。そして6度目の対決、2001年宝塚記念でついにオペラオー超えを果たす。これがメイショウの馬にとって悲願の初GI勝利だった。
立ちはだかり続けたライバルの父オペラハウス。これがサンデーサイレンスやトニービン、ブライアンズタイムだったら別段驚きはない。産駒が走る確率も高かっただろう。
しかし、オペラハウスは産駒の成績にはムラがあり、アベレージでリーディングを争うタイプではない。ふいに大物を出すタイプだった。
母マイヴィヴィアンにオペラハウスが種付けされたのは2002年なので、あるいはオペラオーの活躍が影響した可能性はあった。だが、その時点でメイショウの馬になることが決まっていたわけではない。
元々はセリに出される予定だったマイヴィヴィアンの仔は、その直前に縁あって瀬戸口勉厩舎に所属することが決まる。そこから瀬戸口調教師が懇意にしていた松本オーナーに購入を打診。定年を控えた瀬戸口調教師のためならば、とオーナーはこれを快諾し所有することとなった。
幼駒の頃から体が大きく、力も強かったマイヴィヴィアンの仔は、「怪力の人」を意味するサムソンの名を貰い、メイショウサムソンとなった。
2000年代初頭に鎬を削り合ったオペラオーとドトウ。
テイエムからメイショウへとバトンリレーをするように、オペラハウスの傑物が現れる。単なる偶然では片づけられない、不思議な巡り合わせだ。
妄想を許してもらえるのならば、これはまるでオペラオーが「次はメイショウさんで勝つ番だぞ」、そんな気持ちを込めて贈ったギフトのような気がしている。
小倉から始まるウイニング・ロード
後々の活躍を思えば、メイショウサムソンの船出は静かなものだった。小倉の新馬戦を2着で終えると、続く未勝利戦でも3着。3戦目でやっと勝ち上がり、この時点ではおよそクラシック候補に名を連ねるような存在ではなかった。
鞍上の石橋守騎手も「初めて跨った時の記憶はまるでない」と語っているほどで、期待値は同じ瀬戸口厩舎の管理馬マルカシェンクの方が高かったかもしれない。
潮目が変わってきたのは、当時は12月開催だった中京2歳Sをレコード勝ちしたあたりからだろうか。マスコミもにわかに注目し始めた。
7月末にデビューして中京2歳Sが7戦目。使いすぎの感もあったが、結果的にはオペラハウス産駒特有のタフさと自身の成長力とが相乗効果を生み、一線級とも渡り合えるスピードとスタミナを得ることに繋がった。
この間、石橋騎手はほぼ付きっ切りでメイショウサムソンの調教をつけていた。不得手だった手前の替え方も根気強く教え、競馬場や馬場を問わず、力を発揮できるよう修正してきた。瀬戸口調教師が「研究熱心で真面目」と評価する石橋騎手ならではの仕事だった。
ずっとサムソンと接してきたからこそ、その成長、変化を石橋騎手は誰よりも感じていたのだろう。
「クラシックでもいい勝負になるかもしれない」
淡い期待を抱きつつ、いよいよクラシック戦線へと挑むことになる。
3歳初戦のきさらぎ賞は2着に敗れるも、続くトライアルのスプリングSでは前走で後塵を拝したドリームパスポート、朝日杯馬フサイチリシャールらをまさに力で抑え込み優勝。皐月賞に向けて弾みを付けた。
「1コーナーさえ包まれずに行ければ皐月賞は“勝てる”と思っていた」と、後年のインタビューで石橋騎手は答えている。
5番ゲートから絶好のスタートを切ったメイショウサムソンは、逃げるステキシンスケクン、フサイチリシャール、ニシノアンサーらを見る形で5、6番手を追走。ごちゃつく感じもなく、最高のポジションで1コーナーをやり過ごす。
隊列に大きな変化のないまま、最終コーナーへ。ここで、石橋騎手はチラッと後ろを見て、有力各馬の位置を確認した。馬の余力、各馬のポジション、馬場状態、ペース…。レースでは、あらゆる要素が絡み合い、騎手の一瞬の判断が明暗を分ける。
石橋騎手はサムソンを信じてゴーサインを出した。
力強いストライドで加速すると、先行集団を一気に捕まえに行く。残り200mを過ぎたところで粘り込みを図るフサイチリシャールを交わすと先頭へ。内埒沿いをドリームパスポートが強襲してくるが、馬体を合わせるとさらにひと伸びを見せて、見事に1着でゴール板を駆け抜けた。

メイショウサムソンにとってはもちろん、石橋騎手にとっても騎手生活22年目にして嬉しいGI初制覇となった。
世代の頂点へあと一つ。決して派手ではない“いぶし銀”コンビは、堂々1番人気として日本ダービーの舞台に立った。
小倉のデビュー時を考えれば、考えられない場所まで来た。キャリア10戦は、出走馬中最多。鍛えて、走って、少しずつ強くなっていった。ずっとコンビを組んできた人馬に不安はなかった。
毎日杯、青葉賞と圧倒的な逃げで連勝してきたアドマイヤメインが楽に先手を奪う。それをマークする形で二番手集団、メイショウサムソンはその集団のやや後方、好位の5番手につけた。
皐月賞で最後まで争ったドリームパスポートは後方待機。直線に賭ける構え。
1000mを62.5秒というゆったりしたペースに落とし込み、アドマイヤメインは終始2~3馬身のリードを保ちながら逃げる。
サムソンは細かくポジションを変えつつ、アドマイヤメインを常に射程圏に捉えながらレースを進めた。
大欅を越えて、最終直線。余力を残すアドマイヤメインが脅威の粘りを見せると、それに呼応するようにメイショウサムソンが襲い掛かる。そして、並び、交わす。ドリームパスポートは皐月賞同様に最後突っ込んできたが、前2頭を捉えるまでには至らない。
最後は石橋騎手が軽く手綱を緩めるほどの余裕を見せる横綱相撲で、メイショウサムソンはダービー馬となった。

後にワンアンドオンリー、ドウデュースが誕生するが、小倉デビュー馬のダービー制覇はメイショウサムソンが史上初。この勝利で、JRA全10場のデビュー馬からダービー馬が出たことになる。
出発地点は関係ない。サムソンは自身の走りでそれを証明したのだった。
野武士は走り続ける
前年のディープインパクトに続き、二年連続の三冠馬誕生が期待されたが、結果的にメイショウサムソンは三冠馬になれなかった。
秋初戦の神戸新聞杯で、春に何度も激戦を繰り広げたドリームパスポートに敗れると、菊花賞ではダービーで退けたアドマイヤメインを捕まえられず、さらには後方一気に賭けていたソングオブウインドにも差し込まれ、9戦ぶりに馬券になれず4着。
走ることで強くなってきたメイショウサムソンだったが、流石に見えない疲れがあったのかもしれない。その後にジャパンC、有馬記念と連戦するも勝ち切れなかった。
デビューから走り続けて15戦。古馬戦線での飛躍を胸に、サムソンは初めて放牧へ出ることになった。
明けて4歳、産経大阪杯。放牧から戻り、さらに逞しくなって戻ってきたサムソンはこの復帰戦を快勝。大目標である春の天皇賞に向けて上々の滑り出しを見せた。
実はこの間に、サムソンは瀬戸口調教師の定年に伴い、高橋成忠厩舎へと転厩している。つまりサムソンの復帰戦は、高橋厩舎にとっては転厩初戦でもあった。環境の変化にも動じず、能力を発揮できたのはサムソン自身の成長の証だったか。
迎えた天皇賞(春)。菊花賞に敗れたことで、距離不安を懸念されたサムソンは2番人気となった。しかし、レースでは周囲の不安を見事に吹き飛ばす。
道中は中団で進めると、坂の下りを利して少しずつ加速。直線では早めに先頭に躍り出ると、内をすくってきたトウカイトリック、外から猛追してきたエリモエクスパイアを力でねじ伏せて優勝。並んだら抜かせない、まさにサムソンの真骨頂のようなレースだった。
この勝利の後、メイショウサムソンの凱旋門賞挑戦プランが打ちだされる。同時に、石橋騎手から武豊騎手への乗り替わりも発表された。
ファンの間でも賛否はあったが、「僕がオーナーでも武豊に手綱を委ねただろう」と、当の石橋騎手自身は回顧している。事実この件で松本オーナー、石橋騎手、武豊騎手、三者の関係が悪化することはなく、むしろ強固なものになって後年に繋がっていくこととなる。
結局、サムソンが馬インフルエンザに罹患するアクシデントに見舞われ、前哨戦を使えないということでこの年の遠征は中止。国内に専念することになった。
武豊騎手を背に、新生サムソンの秋初戦は天皇賞(秋)。スッとスタートを切ると、内埒をキープして道中は4、5番手を追走。楽な手応えで直線に差し掛かると、馬場の真ん中を悠々と駆けあがってくる。後続を突き放し、2馬身半の差をつけて圧勝してみせた。
接戦を根性でねじ伏せるスタイルから一転、サムソンの新しい一面を引き出す騎乗だった。
同一年の天皇賞春秋連覇はタマモクロス、スペシャルウィーク、テイエムオペラオーに続く史上4頭目。メイショウサムソンは名実共に歴戦の名馬に肩を並べた。
このまま王道を邁進するかに思われたが、しかし快進撃は続かなかった。続くジャパンCは3着、有馬記念では過去最低着順の8着に惨敗。
明けて5歳初戦は前年同様に産経大阪杯を選ぶも6着、意地を見せて天皇賞(春)、宝塚記念と2着を確保するも勝ち切れず。接戦に強かったサムソンが、接戦で敗れる。能力のピークは過ぎつつあった。
それでもサムソンは戦い続けた。
秋には2年越しとなる凱旋門賞へも挑戦した。得意の先行策が取れない厳しい流れ。無敗の3歳牝馬ザルカヴァが馬群を力強く抜けていく中、最後は雪崩れ込むように10着でゴールした。
帰国後、石橋騎手と1年5か月ぶりのコンビ復活で挑んだジャパンCで6着、そして有馬記念8着を最後にターフを去った。
人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる
メイショウサムソンが引退した後、ほどなくして石橋騎手も鞭を置き、調教師となった。28年の騎手人生で通算495勝。その最後の勝利を飾った馬メイショウツバクロが、後に新たな縁を紡ぐ。
松本オーナーは、多くの馬を石橋厩舎に預けた。調教師としての初勝利もまた松本オーナーの馬、メイショウネブタであった。
開業10年目、石橋厩舎に一頭のメイショウ馬がやってくる。それがメイショウタバル。この馬の母こそ自身が最後に勝ったメイショウツバクロであった。
タバルは3戦目で勝利を挙げると、除外を挟んで3連勝。厩舎にとって初重賞制覇をもたらした。勝つときは鮮やかに、負ける時は暴走して大惨敗。浮き沈みの激しい成績だったが、逆にそれが個性となって多くのファンを魅了していく。
そして2025年、宝塚記念。7番人気の伏兵ながら、並み居る強豪相手にメイショウタバルは見事に逃げ切る。その背には武豊騎手がいた。

「夢みたいですね。石橋さんと豊さんで。出来すぎですね」
そう感慨深く語った松本オーナーの胸中には、メイショウサムソンのこともまたよぎったに違いない。
タバルの宝塚記念制覇のわずか二か月後、松本オーナーは病に倒れ、帰らぬ人となった。
──人がいて、馬がいて、そしてまた人がいる
松本オーナーが座右の銘として掲げ続けた言葉だ。競馬に寄り添い続けたその魂は消えない。
息子の好隆氏に引き継がれたメイショウタバルは、想いを乗せて走る。まるで亡き松本オーナーへの餞のように、1年ぶりの勝利を宝塚記念連覇で飾った。
そして凱旋門賞へ。
メイショウサムソンで芽吹いた夢は、今、メイショウタバルで大きく花開こうとしている。
写真:Horse Memorys、I.Natsume、mosan
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