
ナイスネイチャという馬名を前にして、あなたはどんな記憶がよみがえるだろうか。
有馬記念3年連続3着だろうか、それとも、『ワイド』と書かれた紙を咥えて勝ち馬投票券『ワイド』の宣伝に興じるお茶目な姿だろうか。
生涯成績は41戦して7勝、2着6回3着8回という戦績は、複勝配当の使者というよりも、なかなか勝ち切れないという歯がゆさを感じるところもある。
今回はナイスネイチャの愛すべきキャラクターと、彼の一世一代の大復活を取り上げて、その蹄跡について語ってみたい。

■「夏の上り馬」として頭角を現した4歳時
父はノーザンダンサー直仔のナイスダンサー、母はオープン特別時代のチューリップ賞を勝っているウラカワミユキという血統を持つナイスネイチャ。1988年4月16日に、北海道浦河町の渡辺牧場にて産声を上げた。父ナイスダンサーは重賞2勝のナイスナイスナイスを輩出。ナイスネイチャも当然、重賞戦線を賑わせる馬になることを期待されていたことだろう。管理調教師は栗東の松永善晴師、主戦騎手は松永昌博騎手が務めた。
ナイスネイチャのデビュー戦は1990年12月1日、京都競馬場の新馬戦。芝1200m、11頭中の3番人気に推され、後方からのスタートになったが、最後の直線で前が塞がるなか、2着にまで追い込んできた。そして折り返しに出走したダート1400mの新馬戦、初戦の末脚が評価され1番人気に推されたなか、今度は好スタートから終始先頭を譲らずに人気通りの順当勝ち。翌春のクラシック出走に望みをつないだ。
ところが年が明けて1991年、500万下条件の芝2000m福寿草特別は3番人気で出走したものの、のちに桜花賞を制するシスタートウショウに歯が立たず6着に終わる。中1週かつ格上挑戦で臨んだオープンの若駒Sでは、この年に皐月賞・日本ダービーを制して二冠馬となるトウカイテイオーの3着に敗れ、その後、骨膜炎を発症。春のクラシックを断念し、休養に入った。
夏の中京開催でターフに帰ってきたナイスネイチャは、復帰初戦を2着となったあと、そのまま小倉競馬場の条件戦に転戦する。1番人気で連勝すると、重賞である小倉記念へとエントリー。そこでも、ヌエボトウショウ・イクノディクタスという重賞実績のある古馬を押さえて、夏の上り馬として堂々と1番人気での出走となった。
小倉記念は、シンホリスキーがハナを切り、ルーブルアクト、イクノディクタスが続く展開となった。ナイスネイチャは4番手、ヌエボトウショウは後方で脚をためる。平坦小回りの小倉競馬場。向こう正面ではシンホリスキーが作るスローペースの中、隊列は淡々と流れていく。
4コーナーで馬群が徐々に凝縮し、直線ではイクノディクタスがシンホリスキーをかわして先頭へ。その外からナイスネイチャ、さらに後方からヌエボトウショウが追い込んでくる。
4頭のなかで最も勢いがあったのはナイスネイチャだった。イクノディクタスを交わして先頭に立つと、ルーブルアクト、ヌエボトウショウの追撃を振り切ってゴールイン。斤量に恵まれた4歳(現:3歳)馬とはいえ、歴戦の古馬を鋭い末脚で退けた内容は鮮やかで、重賞初制覇を華々しく飾った。その勝利でナイスネイチャは、一躍「夏を代表する上り馬」として、そして春の二冠馬トウカイテイオーが骨折で戦線を離脱した秋のクラシック戦線における「有力候補の一頭」として、期待を集めることとなったのであった。
夏を終えて中央開催へ戻ると、次走は菊花賞トライアルの京都新聞杯。前年の関西3歳(現:2歳)王者イブキマイカグラが1番人気に支持されたが、勢いに乗るナイスネイチャも2番人気に推された。
レースは中団から運び、直線では進路を失う不利を受けながらも立て直して鋭く伸びた。最後は前で競り合うイブキマイカグラとシャコーグレイドをまとめて差し切り、2着同着の両馬に3/4馬身差をつけて快勝。重賞2連勝を飾り、名実ともに夏を代表する上り馬として、菊花賞に駒を進めた。
牡馬クラシック最後の一冠・菊花賞では、前走で破ったイブキマイカグラに次ぐ2番人気に支持された。
レースは超スローペース。ナイスネイチャは中団で折り合い、徐々に進出して4コーナーでは前を射程圏に入れる理想的な形となった。しかし直線に入ると、思うように伸びずに苦しむ。結局、ダービー2着馬のレオダーバンらに先着を許して4着に終わった。
だが、3000mの激戦を走り終えたナイスネイチャは大きな疲れを見せず、中2週で鳴尾記念へ出走。ここでは直線で早めに抜け出してリードを広げると、最後はトップハンデのミスターシクレノンに迫られながらも押し切り、重賞3勝目を挙げた。この勝利で、年末の大一番・有馬記念でも主役候補の一頭として注目を集めることになる。
その有馬記念では、1番人気メジロマックイーンに次ぐ2番人気。レースではメジロマックイーンを意識する形で運んだが、直線で突き放されると、ダイユウサクの豪快な追い込みにも屈して3着に終わった。
──しかし、この3着こそが、後に語り継がれるナイスネイチャ伝説の始まりだったのである。

■同一競走、それも有馬記念で3年連続3着の偉業
1992年、年が明けて古馬になったナイスネイチャは故障のため春シーズンを全休。秋に復帰すると毎日王冠を3着と好走する。さらに天皇賞(秋)ではトウカイテイオーに次ぐ2番人気に推されたが、ハイペースに巻き込まれてレッツゴーターキンの4着に終わってしまう。ただ、7着だった同世代の王者・トウカイテイオーには先着したのだから、やはりその実力は確かだった。
続いて挑んだマイルチャンピオンシップはダイタクヘリオスの3着と、復帰後3戦をいずれも善戦で終える。そして迎えたのが、2回目の有馬記念だった。
スタートからメジロパーマーとダイタクヘリオスが後方を大きく離して逃げ争いを繰り広げるなか、中団につけたナイスネイチャ。最後の直線で脚を伸ばしてくるも、逃げ残ったメジロパーマーとこれを追い詰めたレガシーワールドを捕まえることができず、またしても3着。2年連続でのこの着順に加え、ここまで善戦が続いたことで『ブロンズコレクター』とも囁かれ始めた。だが、「2度あることは3度ある」との言葉もある。そして、物事はときにあらかじめ予定されていたかのように何者かにいざなわれたかのような模様を描き出すことがあると言って良い。
翌1993年は日経新春杯2着からスタート。さらに南井克己騎手のテン乗りとなった阪神大賞典で3着、産経大阪杯で2着と好走を続けたが、再度の骨折のために春のGⅠ戦線にはその脚を進められなかった。秋の毎日王冠で復帰して3着としたものの、調子が上がらなかったのか次走の天皇賞(秋)は振るわず、生涯初の二桁着順となる15着と大敗。続くジャパンカップも7着と、精彩を欠いていた。
そして3年連続出走となる有馬記念。2年連続好走しているものの、近2走の実績から、人気は10番人気まで急落していた。しかしながらレース後、競馬ファンは、ナイスネイチャの底力を思い知ることになる。
レースは同世代のトウカイテイオーが奇跡の復活劇を成し遂げる。直線では1番人気ビワハヤヒデが先頭に立ったものの、1年振りの出走となったトウカイテイオーが競りかけ、並び、競り落として勝利。競馬の真髄とも言えるドラマチックな決着にスタンドが感動の波に包まれた。
同時に、トウカイテイオーの3馬身半後方で、ナイスネイチャがマチカネタンホイザとの激しい3着争いを制し、3年連続有馬記念3着という大偉業を成し遂げていたのである。
まさにこちらも「2度あることは3度ある」と言える。たとえ成績を落としていても有馬記念で3着の座は譲らないナイスネイチャ。『ブロンズコレクター』という言葉以上の輝きがそこにはあったのだ。
■ナイスネイチャの大復活
1994年7月10日、ナイスネイチャの姿は中京競馬場にあった。第24回高松宮杯である。
この時代の高松宮杯は現在のGⅠ・高松宮記念の前身ではあるが、施行条件は大きく異なっていた。7月の中京競馬の左回り・芝2000mに設定されたレースは、夏開催のメインイベントの1つであり、秋の飛躍を目指すサラブレッドが競うレースであった。
この年は前年のダービー馬であるウイニングチケットが参戦することが話題となっていて、他にもスターバレリーナ、アイルトンシンボリ、マーベラスクラウンとかなりの好メンバーが揃っていた。ナイスネイチャは5番人気。7歳となって初戦のAJCCを7着、続いて産経大阪杯は2着と好走したものの、GⅠシリーズの天皇賞春と宝塚記念をそれぞれ4着と、なかなか安定した成績を残せないでいた。
──さすがのナイスネイチャも、ここまでか。
5番人気というオッズからも、そういったファンの心理が読み取れる。
ゲートが開いてスタートが切られると、そのままアンバーライオンが飛び出してハナを叩き、ルーブルアクトが2番手に。スターバレリーナが4番手につけ、その後ろにアイルトンシンボリ、マーベラスクラウンが続いた。ダービー馬ウイニングチケットは中団待機で、進出のタイミングをうかがう。
そして、初めてメンコを外したナイスネイチャは、さらにその後方で脚をためていた。
レースが動いたのは3コーナー手前。各馬が動き出したタイミングで先行したアンバーライオン、ルーブルアクトが後退し、かわってアイルトンシンボリが先頭に立つ展開となった。4コーナーを回って直線に向かうと、先頭集団を射程圏内に入れたナイスネイチャが大外を通って一気に進出。アイルトンシンボリと、それを追いかけていたスターバレリーナに並びかけた。この動きにたまらずアイルトンシンボリが脱落。スターバレリーナが抵抗の姿勢を見せたが、最後はナイスネイチャがぐいと前に出る。これまでのレースで見せていたじわじわとした脚とは一線を画す鋭い末脚で、4歳時の鳴尾記念以来、実に2年7か月ぶりの金メダルを獲得して見せた。

不振が続いていたこともあり、もしかするとナイスネイチャはもう勝てないのではないかと多くの人が思ってしまっていたかもしれない。そんなタイミングでの、ナイスネイチャの大復活だった。
ある者はこれまでの走りを覆す末脚の冴えに涙し、またある者はメンコを外した素顔のナイスネイチャに魅せられた。そして人々は沸き立つ。『夏を越えれば秋のGⅠシーズン、有馬記念がやってくる。あの、有馬記念が!』と。
しかし、ナイスネイチャの復活劇はここまでだった。秋は、掲示板を外すレースが続く。4年連続の出走となった有馬記念も、後方から押し上げはしたがナリタブライアンの5着にとどまり、「4年連続の3着」は夢に終わってしまった。
8歳を迎えた1995年、年明け初戦の京都記念は2着と気を吐いたが、それ以降は大きな着順が続いていた。もう、全盛期の力は残っていなかったのかもしれない。年末、5年連続で有馬記念に出走はしたが9着。ピーク時に比べて、競走成績は確実に落ち込んでいたことが、それを示している。
そして9歳となった1996年、史上初の有馬記念6年連続出走を目標に掲げ調整が進められたが、右前脚の故障で回避となり、そのまま引退が決まった。
■そして新たな活躍の場へ
それからのナイスネイチャの活躍は、多くの方が知るところだろう。
1999年には、3着の多かった自らの現役時代のキャラクターを活かして、新たに発売されることが決まった券種である『ワイド』のキャンペーンキャラクターに選ばれる。さらに、母ウラカワミユキから譲られた健康と長命を受け継いで、2023年に没するまで、存命のなかでJRA重賞タイトルを持つ最年長馬として君臨した。
引退後の数年は種牡馬として活躍していたナイスネイチャだが、種牡馬を引退してからは生まれ故郷の渡辺牧場で『特定非営利活動法人引退馬協会』のフォスターホースとして余生を送る。
このフォスターホースとは、フォスターペアレントという複数の里親によって支援され、余生を送る馬たちのことである。ナイスネイチャのようにファンから愛されている馬が引退後の余生を安心して送るために考えられた制度であり、現代でも何頭もの引退競走馬が引退後に身を寄せている。
ナイスネイチャはこの引退馬協会で定められたフォスターホース第1号としての役割を担って、その生涯を全うするまで、ぼくたちファンに引退後の競走馬の行く末について考える機会を与えてくれていたのだ。
ナイスネイチャ──その名を前にしたとき、ぼくらの心には様々な想いが浮かんでくる。ある人はなかなか勝ち切れなかった推し馬を前にした歯がゆさであるかもしれないし、またある人は3年連続して有馬記念を3着した、その素晴らしさと滑稽さとが入り混じった思いであるかもしれない。さらにある人は死してなお、ドネーションを通して後に続く者たちへの礎となっていることへの感謝の念を抱くものかもしれない。
それらのひとつひとつの思いがみな、ナイスネイチャにとっての事実であり、真実なのだろう。競馬という、ぼくらが大好きなものの中で、ナイスネイチャほど如実にその本質を浮き彫りにしてくれる存在はいないのだと思う。同馬に思いを馳せ、名を呼ぶとき、ぼくらはひとりのファンとして競馬に真摯に向き合い、自分と競馬とのかかわり方について今一度考えることができるのではないだろうか。
ナイスネイチャとは、そんな稀有な存在なのである。

写真:かず
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