「メイショウ」の軌跡と継承 - 松本好雄オーナーの足跡を辿る
「メイショウ」の継承と軌跡

今回は『「メイショウ」の軌跡と継承』というテーマで、「メイショウ」軍団の活躍についてお話ししていきます。

2026年6月14日、阪神競馬場で行われた第67回宝塚記念。優勝馬は昨年覇者であるメイショウタバル号でした。スタートからハナを切って逃げ切った昨年のレースに対し、今年は逃げたコスモキュランダ号の番手につけ、最終直線で見事に捉えると、追いすがる1番人気、クロワデュノール号の猛追をわずかに振り切っての1着。春古馬三冠の懸かるクロワデュノールを相手に、さらなる真価を発揮したともいえる走りで見事に連覇を掴み取りました。

そんな同馬の関係者の中に、唯一この勝利が「GⅠ初制覇」となった人物がいます。それは、同馬のオーナーである松本好隆氏(以下、好隆氏)です。2015年のクイーンステークス優勝(メイショウスザンナ号)以降、11年ぶり2度目の重賞制覇が宝塚記念。初GⅠ制覇がこの宝塚記念というのは、奇しくも前年の宝塚記念を最後のGⅠ・重賞制覇として間もなくこの世を去った自身の父・松本好雄氏(以下、松本氏)と重なります。メイショウタバルは、競馬界に大きな金字塔を打ち立ててこの世を去った父から、好隆氏が継承した馬の1頭でありました。

船舶エンジンの製造などを手掛ける「株式会社きしろ」の社長・会長を歴任した松本氏は、1938年、兵庫県明石市出身。冠名「メイショウ」は、「名将」に「明石の松本」=「明松(めい・しょう)」を掛けたものであるというのはよく知られた話でしょう。その冠名に続くワードは自らだけでは考えきることができず、会社の社員や知人から募ったアイデアをノートに書き溜め、そこから馬の特徴などに応じて命名していたといい、これから名前を挙げる2頭の所有馬も、その例に漏れず松本氏の身近な人物が命名した馬名でありました。また、阪神馬主協会や日本馬主協会連合会(JOA)でも重役を歴任し、JOAでは死去するまで名誉会長を務めるなど、馬主の立場からの競馬界の発展にも尽力されました。

そして、筆者が同氏を象徴する点であると考えているのは競走馬の購入方法であり、松本氏は業界大手の大牧場ではなく、主に日高地方の牧場の生産馬を中心に数多く購入されてきました。メイショウタバルなどを生産した三嶋牧場を中心として結成された、「三愛会」という松本氏を囲む会も存在していることからも、日高の馬産地における松本氏に対する信頼は大きいといえるのではないでしょうか。

さて、本来であれば馬主になる以前の競馬とのかかわりや、馬主になったきっかけに関する話題にも触れたいところではあるのですが、昔の話になると資料によりエピソードに差異がみられてしまうため、惜しいところですが今回は割愛させていただきます。そこで、今回のコラムでは、松本氏にとっても忘れ得ない勝利であっただろうGⅠレースについて記します。

2001年宝塚記念、メイショウドトウの執念実る - 初戴冠

はじめに、何を隠そう松本氏のGⅠ初制覇であった2001年の宝塚記念についてです。前年に年間グランドスラムを達成し、この年も天皇賞(春)を制していたテイエムオペラオー号が1番人気。松本氏の愛馬メイショウドトウ号はGⅠでオペラオーの後塵を拝すことなんと5回。悲願の戴冠が待たれていましたが、そこには絶対的王者ともいえるオペラオーの存在が壁となって立ちはだかっていました。

松本氏は2001年時点でかなりの頭数を持つ馬主としての立場を確立しており、これまでGⅠを勝てていなかったことは周囲から「七不思議の一つ」と言われるほどであったといいます。インタビューでは、1995年のマイルチャンピオンシップ2着の実績を持つメイショウテゾロ号や、1996年の皐月賞と日本ダービーで3着となったメイショウジェニエなどを所有したことが、GⅠ制覇を意識することにつながっていったのだと松本氏は語っています。

そんな状況の中で迎えた宝塚記念、松本氏曰く、メイショウドトウは「いつになく良かった」というスタートを切り、レース展開も理想的なものであったそう。3コーナー以降は少し早仕掛けに思えたものの、先頭に立ってからは声援を送り続け、メイショウドトウは迫り来るオペラオーを退けてゴールイン。ついに悲願を達成するに至りました。松本氏にとっては地元である兵庫での初戴冠であり、会社の社員や知人とも喜びを分かち合うことができたそうで、その感激は想像に難くありません。ちなみに、最終直線で松本氏以上に叫んでいたというのは「きしろ」の元専務にしてメイショウドトウの名付け親である男性。会社を勇退し帰郷してからもメイショウドトウの応援には駆けつけてきたということで、その思いの強さがうかがえます。

レース直後、たくさんの祝福に包まれる中、周囲への気遣いなどもあり感情を抑えていたという松本氏。しかし数日後に行われた祝勝会で、安田伊佐夫調教師などとともにレースのビデオを見たときには涙が止まらなかったそう。実に松本氏のお人柄が伝わってくるエピソードではないでしょうか。

2007年春二冠、メイショウサムソンの飛躍 - ダービーオーナーに

続いて、松本オーナーの所有馬の中でもクラシック二冠・天皇賞春秋連覇と有数の活躍を見せたメイショウサムソン号についてです。

そもそもメイショウサムソンは、2007年に定年引退を控えていた瀬戸口勉調教師が、「(調教師として最後の世代に、松本)社長の馬が1頭もいないのは寂しい」と言ったことから、その時点で売れ残っていた馬の数頭の中から選ばれる形で購入された馬でした。ちなみに松本氏は、選ばれた「マイヴィヴィアンの2003」に「メイショウサムソン」の名を与えましたが、「サムソン」の語は松本氏と親交のあった作家・新橋遊吉氏が考案したものでありました。

その後、サムソンはデビューを迎えることになりますが、松本氏が同馬を最初にその目で見たのは、小倉競馬場で行われた新馬戦のパドックであったといいます。この新馬戦、続く未勝利戦では2、3着と惜しくも勝利を逃しますが、3戦目ではついに快勝で初勝利。さらにオープン勝ちや重賞2着を経て、スプリングステークスで重賞初制覇を果たすと、6番人気で皐月賞を迎えました。決して抜けた人気というわけではない評価で挑んだこのレースでは、最終直線で2番人気のフサイチリシャール号を捉えると、伏兵ドリームパスポート号が負けじと伸びてくる中、同馬に半馬身をつけて見事に勝利を果たしました。松本氏にとってもこれが初のクラシック制覇で、サムソンの引退にあたってのインタビューでは「最も嬉しかった」と述べています。

続く日本ダービーは、当初は「距離の伸びるダービーは絶対に楽しみだ」と豪語するほどであったものの、当日になると、前日の土砂降りによる馬場の悪化により「無理だと思いました」と述懐するほどに自信をなくしていたそう。そんな中でも1番人気に支持されたサムソンは、レースでは折り合いながら内を追走し、のち外へ持ち出すと、最後は逃げたアドマイヤメイン号に並び立ち、クビ差抜け出したサムソンがダービーの栄光を手にすることとなりました。

その後、サムソンは2007年に天皇賞(春)を優勝。そして、デビュー時から同馬に跨り続けていた石橋守騎手から武豊騎手への乗り替わりを経て天皇賞(秋)も制し、天皇賞春秋制覇を成し遂げました。鞍上を変更してまで挑んだ、松本氏の「夢」であった凱旋門賞は残念ながら10着に敗れ、先述の天皇賞(秋)以降は勝利を掴むことはできなかったものの、2008年の有馬記念で引退するまで27戦を走り抜けました。

なお、ラストランとなった有馬記念のレース後には引退式が実施されましたが、この時に騎乗したのは石橋・武の両騎手。2人の騎手が引退式で騎乗するのは当時としては異例だったそうで、これは松本氏がご息女から、「なぜ石橋さんは乗らないの」と聞かれたことをきっかけとしており、松本氏がJRAに石橋騎手の騎乗も申し入れたところ、前例がないことなどから当初は断られてしまったといいます。しかし松本氏は、「それなら、引退式をやめますか」と返事をし、最終的に石橋騎手の騎乗も実現することとなりました。オーナーである松本氏の意思によってサムソンの背を降りることとなった石橋騎手に、再びその背中を託す機会を設けた松本氏。同氏の強い思いが、例外となった引退式の実施に繋がったといえるのではないでしょうか。これがきっかけ…であるのかは分かりませんが、現在では、競走馬の引退式に複数の騎手が登壇するのは珍しいことではなくなりました。

おわりに - これからの「メイショウ」軍団

さて、晩年の松本氏は、先にも述べたようにメイショウタバルで2025年の宝塚記念を優勝。メイショウサムソンの手綱を取った2人──調教師となった石橋守、未だ現役として騎手を続ける武豊──で掴んだタイトルは、オーナーにとっても非常にかけがえのない勝利であったことと思います。そして特筆すべきは、同年8月23日、メイショウハッケイ号が中京競馬場第3レースを優勝し、個人馬主として初となる通算2000勝という快挙を成し遂げたことではないでしょうか。この時は現地にはご臨場されておらず、メディアを通してコメントを発表。「2000勝という数字は、(中略)“ばか”でないとできないんじゃないでしょうか」という言葉には、日高の馬産地や関係者との縁を大切にしてきた松本氏の約50年間のあゆみが凝縮されていました。

しかし、「メイショウ」軍団のさらなる飛躍が期待された中、快挙達成のわずか6日後の8月29日、松本氏はすい臓がんのため、87歳でこの世を去られました。病は7月に発覚したといい、多臓器への転移あったという危機的な状況で、なんとか2000勝達成をオーナーが元気なうちに…と、多くの関係者が勝利のために努めていたのではないかと思います。

その後、すべての所有馬とお馴染みの勝負服は、長男である好隆氏が継承。そして冒頭に述べたように、父から引き継いだメイショウタバルが宝塚記念連覇を果たしました。好隆氏は今後の馬主活動に対して、父と同様の頭数と規模を維持するという姿勢を見せているということで、これまで松本氏が築かれてきた多くの人とのつながりは、さらに深まり続けていくことでしょう。日高の馬産地や多くの関係者の夢を乗せて走り続ける「メイショウ」軍団を、これからも応援していきたいところです。

主要な参考資料

・『週刊競馬ブック』2001年8月5日号、2009年2月1日号

写真:INONECO、Horse Memorys、みむら

あなたにおすすめの記事