[遊駿+]創刊15周年。記事で振り返る苦闘の時期のイベント。

 金沢競馬のフリーペーパー「遊駿+」が始まって今年の10月で15年となる。
 書き出すいきさつや続けられた事については以前ここで書いた記事を参照していただくとして、15年も書き続けていると様々な記事が記録として残っている。
 特に存廃論議が取り沙汰されていた頃は記事からもなりふり構っていられない感が出ていて読み返すと当時の記憶や空気感が蘇ってくる。
 そんな金沢競馬の苦しかった時期のイベント記事を中心に少し昔を振り返ってみたい。
 (記事中の数字表記が漢数字なのは縦書き記事の為で当時の記事そのままで掲載します)

バックヤードツアー

 遊駿+が発行を始めた頃、競馬場のバックヤード、つまり厩舎や装蹄と言った裏側をファンに見てもらうツアーが行われていた。
 レースを支える舞台裏が見られるとあって第1回のバックヤードツアーでは定員30人の所120人の応募がある盛況ぶりで当日も大いに盛り上がった。
 しかし、このイベントで一番テンション上がったのが、ファンよりも普段表舞台には現れない装蹄師だった。

 騎手の華麗なる手綱さばきやステッキさばきにも似た調子でハンマーややっとこ、ヤスリをさばき、馬のギャロップのようにリズミカルに蹄鉄を打っていった。
 花で言えば生きていくためには必要だけど日に当たることはない根っこのような存在の装蹄師。
 その妙技に参加者は目を見張った。
 その視線にこの装蹄師は誰にも知られることなく指も削って血染めの鉄打ちとしてしまった。しかし、それを微塵も感じさせないのはさすが、と言うところ。

──2007年夏号

 ファンの前で自身の腕前を披露できる機会とあって、普段から明るい装蹄師のこの方がいつも以上にテンション高かったのを覚えています。
 そして、この好評ぶりに翌年もバックヤードツアーが開催。
 内容も前年同様の装蹄作業の実演にリーディングトレーナー金田調教師による厩舎や競走馬の日常の説明会とグレードアップ。
 さらにメインイベントが。

 装蹄の後は九〇〇mのスタート地点に移動。そこにはケータリングの料理と吉原寛人騎手を筆頭に十人ほどの騎手が待ち構えていた。
 そこで騎手を交えてのお食事会。
 爽やかな笑顔と心地よい関西訛りが素敵な吉原騎手やスイカの登場にテンションがアゲアゲな加藤騎手などなど普段見られない「自然」な姿の騎手との触れ合いを楽しんだ。

──2008年夏号
飲み物を冷やすのが飼い葉桶というのが競馬場らしい

 900mのスタート地点を言い換えると2100mのスタート地点。白山大賞典のスタート地点で騎手を交えた交流会を行っていました。さらに、

 そして、もう一つのメインイベント、車に乗っての馬場一周。
 ゆっくりとのんびりと馬場の外側をのこのこ走ってちょっとした騎手気分。しかし、本当の競馬ではこれよりも遥かに早いスピードでコーナーに突っ込んで来る。競馬の見所が少し変わったように感じられた。

──2008年夏号

 普段係員を運ぶワゴン車に乗ってダートコース一周。文中にもあるけど本当にちょっとした騎手気分を味わえた。特にお子様が大喜びだったと記憶する。
 この他にもファンと騎手や調教師によるボーリング大会など当時はとにかく競馬場を身近に思ってもらおうと交流イベントが数多く開かれていた。

 エキシビションレース

 バックヤードツアーの盛況ぶりの後、今度は様々なエキシビションレースも行われるようになった
 競馬場のエキシビションレースだからポニーレースでもしたのだろう、確かに初めのうちはそうだった。しかし、回を重ねていくうちに、

 日本が誇る公営競技、競馬と競輪。ぶっちゃけどっちが速いかを決めようと言う、誰かは考えるだろうが実行しようとは思わない無茶な企画。
 そんな無茶企画でも遊び半分は許さない。遊ぶのなら全力で遊べとメンバーは本気のメンバーとなった。
 競輪からは地元石川の辻力選手。S級に所属するバリバリの現役。
 さすがに競輪用の自転車でダートは走れないのでマウンテンバイクでの出走。

──2010年白山大賞典号

 競輪選手をマウンテンバイクに跨らせてダートで馬(ポニー)と走ってもらった。
 一騎打ちと言う訳ではなく藤田騎手と松戸騎手も参戦。ただし、リレーでダートを自分の脚で走った。
 距離ハンデがついてポニーが700m、自転車300m、騎手が150m×2人。
 レースはポニーと騎手はスタートから快調に走るが自転車はタイヤを砂に取られてなかなかうまく走れない。しかし、

 騎手チーム一五〇mで走者交代。バトンが松戸から藤田騎手に。しかしここで、馬場のいい所に乗った辻選手の自転車が一気にロスを挽回してもうすぐ後ろまで迫っている。
 こうなると自転車が速い速い。一気に捲くると藤田騎手を抜き去ってあっという間に先頭。藤田騎手も必死に追いかけるが差はどんどん広がる。

──2010年白山大賞典号

 ハンデキャッパーもびっくりの自転車の圧勝、騎手チームがポニーを抑えて2着と言う大波乱
 このエキシビションレースは好評で本物の学生陸上選手が加わったレース、全国の少年少女騎手を集めてポニーで競走する「ちびうま大賞典」、高崎の名ジョッキーだった加藤和宏調教師に旧金沢競馬場で百万石賞3連覇を果たした奥高平調教師(当時70歳)、吉原、藤田、松戸の現役騎手、地元の小学生騎手を加えてのポニーレース「北國新聞杯」(2勝クラスにあらず)と言うのも行われた。
 ちなみに北國新聞杯は奥師が鮮やかな天神乗りで吉原騎手を差し切って優勝している。

直線を疾走する藤田騎手。手に持っているバトン代わりのステッキ

 なお、youtubeにこの頃に行われたエキシビションレースがまだあるので「金沢競馬 ポニー」でチェックしてみるのも面白い物が見られます。

 ファン投票競走

 エキシビションレースのようなはっちゃけたレースをやったが、ファン目線の真面目な競走も行われた。
 ファン投票で出走メンバーが決まるレースである。

 【ファン感謝特別競走】
 そして、日曜のメインレースは、「金沢競馬開設六〇周年記念 ファン感謝特別」競走。ファン投票で選出された十二頭がハンデ戦で争います。
 予想するより、好きな馬に投票する感じで買うとおもしろいかも。

──2008年白山大賞典号

 有馬記念や宝塚記念のようにファン投票で出走メンバーが決まる競走。時期は白山大賞典前週で1500mのハンデ戦、もちろん日曜日のメイン競走。 
 これだけ聞くと豪華なメンバーが集まったのだろうと思うだろが、白山大賞典の前週にそんな一流馬が集まる訳もない。
 このファン投票の対象はB級とC級の馬。中央でいえば準オープン以下の馬からファン投票をするという金沢競馬ファンというよりも本当にコアなファン向けの競走。
 正直、票が集まるか不安に思った記憶がある。
 しかし、票は集まりその結果、前年の北國王冠や中日杯で掲示板を飾った元重賞の常連キクノサンデーに中央時代に菊花賞にも出走したシルクディレクターなどなぜB級やC級にいるのだと言う面々から一度もC級から上がった事のない馬までが揃う趣のある競走となった。
 結果は2番人気の4歳牝馬トミノプリティー(56㎏吉田騎手)が優勝した。

 まさかのイベント

 競馬とは一見無縁なこんなイベントも。

 九月には「すてきな出会い in 金沢競馬~当てよう恋の万馬券~」とまさかの競馬場でのお見合いパーティ企画。
 こんなのありかー、と思いましたけどこの後、お見合いパーティーは中央競馬でも開催されたりして案外ありだったのだなあとわかりました。
 時代は婚活。イベント事は時代に敏でなければならないな、と思ったイベントでもありました

──2009年最終号

 競馬場内で婚活パーティー。夜景が綺麗な大井ならありかなとは思うけど9月の真昼間の金沢競馬場で果たして上手くいくのかと企画段階で心配した覚えが。
 そして、このイベントに私も参加したはずなのだが、ルポ記事がないところを見ると特に何かが起きた訳でもなく、何事もなく平穏に終わった模様。

 ボランティア活動

 最後に、イベントとは少し違うが金沢競馬史上最大のボランティア活動の様子を紹介する。
 2007年の3月25日に発生した能登半島地震。その被災地である輪島市などに金沢競馬の有志がボランティア活動に赴いた。

 一人の装蹄師の上げた声に共鳴は広がり、金沢競馬振興協議会が中心となって調教師騎手会、装蹄師会、獣医師会、厩務員会が呼びかけて調教師、騎手、装蹄師、獣医師、厩務員、競馬新聞の記者等など、次々にホースマン達がボランティアに集って来た。
 その一人一人の思いの集まりは地下のマグマよりも熱く、地震の力などよりも遥かに強く、大きい物となっていた。
 そんな強い思いに競馬事業局も動かされて、大型バスをチャーターして被災地能登へと向かうまでとなった。
 一人の装蹄師が思いを滾らしてわずか数日。その数日で集ったホースマンのボランティアは六八名。大ボランティア集団となっていた。
 こうして四月三日。開催翌日の火曜日、被災地能登へ金沢競馬ホースマンのボランティア団は向かっていった。

──2007年開幕号

 競馬場の人達は何をするのか。
 被災地で被災者の皆さんを勇気づけるように回ったと言うのではなく、

 ボランティアの登録所から指定された現場へと赴くと早速作業を開始した。
 鞭をシャベルに持ち替え、引き綱を手押し一輪車に変え、普段勝負を繰り広げている土を運び出して行った。日ごろ、競馬で激闘を繰り広げているホースマン達とは言え、この重く、多量の瓦礫や土には悪戦苦闘。鍛えられた体や心が悲鳴を上げる瞬間もあった。
 しかし、能登を助けたい、自分達以上に弱い立場の爺ちゃん婆ちゃんにこれ以上の苦しみを味あわせたくはない。そして何より。能登のファンへの恩返し。
 ホースマン達は土と埃に塗れながら現場の復旧作業に汗を流した。

──2007年開幕号

 実際に瓦礫の撤去作業等に従事をし、微力ながらも復旧の手助けを行った。
 後にこの記事は装蹄師がボランティアの発起になったと言う事を紹介するために日本装削蹄協会の機関紙「蹄」に全文そのまま掲載された。

能登半島地震の後には復興支援シリーズの開催も行われた

 創刊から2011年辺りまではこれら以外にもここに書ききれないほどの様々なイベントを行っていた。
 この5年間は廃止か存続かで揺れて、当面は存続の結論が出たもののまだ予断を許さなかった時期。
 何をしてでも金沢競馬を見てもらおう、どうやってでも金沢競馬を知ってもらって足を運んでもらおうと言う思いが見えてくる。その後、ネット販売が伸び、2013年に金沢でJBCが行われるとこんな弾けたイベントは姿を消した。
 だからと言ってイベントをしなくてもいい訳ではなく、ファンが振り向いてくれるようなイベントを打ち続ける必要はある。現状はイベントが少ないかな、なんて当時を思い出すと思ってしまう。

 今はコロナ禍でイベントどころか開催自体が中止になりました。
 しかし、金沢競馬は廃止の危機や馬インフルエンザと様々な逆境に耐えた15年を経験しています。
 必ずやしぶとく競馬の火を消さずに続けていくであろう。
 その歴史の片隅に少しだけ、この遊駿+があればいいかな、と思う。

 さて、2回目のJBC号の記事を書いていこう。この紙が様々な人の手に渡る事を祈る。
 

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