東京大賞典は地方開催のレースで唯一の国際GI競走であり、その年におけるダート競馬の総決算として。高い人気と注目を集めている。
その歴史は古く、1955年に「秋の鞍」として2600mで創設されたのが始まり。’62年には3000m戦になり、「東京大賞典」に改まったのは’64年から。その後’89年に2800m、’98年に2000mと段々距離が詰められていき、現在に至っている。
かつてはハツシバオー、イナリワン、ロジータなど地方競馬の歴史を彩る名馬たちが優勝馬に名を連ねていたが、’95年にJRAとの全国交流となってからはJRAが15連覇中の22勝。対して地方は4勝と大きく水を開けられている。
過去に当レースで連覇を達成したのは、アジュディミツオー(船橋、2004〜05年)・スマートファルコン(JRA、’10~’11年)・ホッコータルマエ(JRA、’13~’14年)ら。2021年には、オメガパフューム(JRA)が史上初の4連覇を達成している。
そんな東京大賞典の歴史の中から、地方の名馬たち11頭を取り上げたいと思う。(馬齢は現在の数え方で表記)
オンスロート(1960年)
当時「秋の鞍」というレース名で行われていた東京大賞典を制したのが今回ご紹介するオンスロートだ(この名称は1963年まで用いられた)。若駒時代の同馬については過去の記事で触れている。全日本三才優駿(川崎ダ1600m)を15馬身で圧勝し3歳となったオンスロートだったが、爪が脆く強い調教ができなかったため、勝ち切れないレースが続いた。しかし10月のオープン特別(大井ダ1800m)を勝つと、昨年の全日本三才優駿以来の本格的な調教が積めるようになり、絶好調の状態で秋の鞍(大井ダ2600m)へ臨むことになったのである。
この年の秋の鞍には、今も大井重賞として残る大井記念(大井ダ2400m)や金杯(大井ダ2400m)などを勝利していたユウセイや前年の京都記念・春(京都芝2000m)と日経新春杯(京都芝2400m)勝ち馬フサリユウ、一昨年の阪神3歳ステークス(阪神芝1200m)優勝馬インターナシヨナルらが揃っていた。しかしオンスロートは臆することなくハナに立つと、そのままスピードは落ちることなく見事に逃げ切り。この勝利で第1回公営日本一に輝いた。
翌’61年は中央競馬に移籍。ここで一足先に中央に移籍していたタカマガハラと再戦する。タカマガハラは2歳のとき平和賞7着・全日本三才優駿3着とオンスロートの前に手も足も出なかったが、中央初対決となった天皇賞・秋(東京芝3200m)ではタカマガハラがオンスロートを半馬身下し優勝。以降、翌年の有馬記念(中山芝2600m)まで4戦してお互い2度先着と、五分の戦いを繰り広げた。
ヤシマナシヨナル(1969年)
父は1973年中央競馬リーディングサイヤーで当時日本記録となる年間最大127頭、13年連続50頭以上、生涯通算1334回もの種付けをこなしたチャイナロック。中央でデビューした際は、91歳で引退するまで調教師として1235勝を挙げ、郷原洋行・的場均騎手の師匠として2人を育てた大久保房松調教師の元に入厩するものの、中央では23戦4勝の成績で大井に移籍した。
移籍初年は12戦3勝。暮れには東京大賞典(大井ダ3000m)に挑み3着と健闘し、翌年はレコードを2回記録し東京オリンピック記念(現・東京記念、大井ダ2400m)では62kgものハンデを克服して優勝した。年末に昨年3着だった東京大賞典に出走し、同年南関東二冠馬ヤマノタイヨウや後に札幌記念(札幌ダ2000m)を勝利するアポスピード、’69年~’70年にかけて新春盃(大井ダ1800m)を連覇するイチハマイサミらを相手に完勝。
しかしこれ以降、ヤシマナシヨナルの敵は斤量になった。当時の南関東の古馬重賞はハンデ戦が多く、定量戦は東京盃(大井ダ1200m)と東京大賞典程度で、その上この時代の東京大賞典は勝ち抜け制だったため東京大賞典への再挑戦は不可能。おまけに当時の規定で中央への再転入は許可されておらず、ヤシマナシヨナルはこののち多くのレースで60kgオーバー、最高70kgもの斤量を背負って走らなくてはならなくなった。
’71年に陣営は宇都宮競馬場への遠征を企図し、宇都宮初戦はハンデ74kgで6馬身差の圧勝。2戦目はなんと76kgもの酷量ながらレコード勝利。この「76kgで優勝」は、当時の戦後サラブレッド記録だった。
‘72年、9歳になったヤシマナシヨナルは高知へ移籍。70kg前後を背負いながら9連勝をマークした。しかし厩舎で起こった火災事故に巻き込まれ焼死してしまう。高知で種牡馬に入る、わずか数か月前のことだった。
ハツシバオー(1978年)
父は「怪物」「野武士」と呼ばれ、芝ダート不問で距離も1200mの英国フェア開催記念から3200mの天皇賞・春まで幅広く勝ち星を挙げたタケシバオー。母ハツイチコは、母系を辿ると20世紀初頭に小岩井牧場が輸入した繁殖牝馬にたどり着く良血で、自身も中央で2勝していた。そうした良い血統を背景にもつハツシバオーは、骨太かつ大柄に育ち、パワフルな走りで同世代を圧倒。一冠目・羽田盃(大井ダ2000m)を2馬身、二冠目・東京ダービー(大井ダ2400m)6馬身で7連勝を達成した。
秋は古馬相手の重賞から始動し、東京盃(大井ダ1200m)3着で連勝ストップも、東京記念(大井ダ2400m)で東京盃勝ち馬トドロキヒリュウを5馬身ちぎり、迎えた東京王冠賞(大井ダ2400m)も6馬身差の圧勝で史上3頭目の南関東三冠を制覇。
続く東京大賞典(大井ダ3000m)で先輩三冠馬2頭が達成できなかった”四冠”に挑んだ。そこでは歴戦の古馬たちからの徹底マークがあったが、それを振り切り2着以下に2馬身半の差をつける快勝。四冠馬の栄誉に輝いた。
翌’79年は中央に移籍するものの、爪の問題に加え打撲症や浅屈腱炎を発症し8か月も休養。調整不足で満足にレースを使えないまま臨んだ有馬記念(中山芝2500m)はグリーングラスの13着に終わり引退した。その後は種牡馬となったものの、1995年に用途変更になってからは消息不明である。
サンオーイ(1983年)
ミスターシービー、シンボリルドルフと同時代を生きた競走馬であり、特にシービーとは同期に当たる。そしてこの馬も、彼らと同じ三冠馬である。
父はメジロマックイーンの母父として知られるリマンド。母も道営競馬で重賞級のレースを勝ったステューペンダスで、牧場の期待は高かった。しかし、2歳時に放牧先で柵に激突し重傷を負ってしまう。一命はとりとめたものの、これが後々、尾を引いていくことになる。
成長期に放牧ができなかったハンデを乗り越え、2歳時の成績は4戦3勝。3歳となった翌年は一冠目羽田盃(大井ダ2000m)を4馬身、二冠目東京ダービー(大井ダ2400m)は7馬身、最終戦の東京王冠賞(大井ダ2600m)で1馬身半差をつけ、史上4頭目の南関東三冠馬に輝いた。ちなみに、この三冠レース全てで、2着はセレブレイシヨンという馬だった。
東京王冠賞を勝った勢いで、サンオーイは東京大賞典(大井ダ3000m)に出走。チユウオーリーガルらを退け、古馬の一線級相手に完勝した。
翌’84年は中央競馬に移籍し、10月の毎日王冠(東京芝1800m)で、ミスターシービーやエアグルーヴの母で前年オークス馬ダイナカールらと対戦。シービーらを抑え1番人気に推されたサンオーイはその年のジャパンカップ(東京芝2400m)で日本馬初勝利を成し遂げるカツラギエース、ミスターシービーに続く3着に入った。しかし天皇賞・秋(東京芝2000m)ではミスターシービーの6着に敗れるなど、中央では7戦してオープン1勝のみに終わってしまう。
その後は上山→大井→上山と地方での移籍を繰り返し、3勝を挙げ種牡馬に。中央含め通算17勝を挙げ、その中から’94年NAR(地方競馬全国協会)サラ系最優秀古馬牡馬を受賞するトミシノポルンガなどの活躍馬を輩出するが、種牡馬3年目に心臓麻痺を起こし死亡。検死の結果、サンオーイの心臓から壊死した箇所が何箇所も発見され、生前幾度となく心臓停止していたことが判明した。2歳に柵に激突してから、”死神”という最大の敵を乗り越えてきた馬として、死後も周囲を驚かせた。
テツノカチドキ(1984年・1987年)
テツノカチドキは生涯で58戦を走り、1着17回、2着13回と堅実に走り続けた名馬である。キャリア後半には”鉄人”佐々木竹見騎手とのコンビを結成した。名前の通り、ほとんどケガ知らずの頑丈な体でダート・芝問わず駆け抜けた。
しかし、そんなテツノカチドキも、若駒時代は意外にも体が弱かったという。1日の攻め馬で20〜30回も咳を繰り返すような状態が、半年も続いた。500kgを超える巨体を持て余していたというのもあるだろう。しかし、陣営の「馬任せにじっくりと仕上げていく」という方針により、2歳12月にデビューへ漕ぎ着けたのであった。
新馬(大井ダ1000m)の結果は3着。3戦目に初勝利を挙げると、3歳時は年間16戦をこなし6着以下は3回だけ。特に初めて一線級との対戦となったいちょう賞(大井ダ1800m)では、前が壁になり残り200mを切っても後方のままだったが、残り150mで前が開けると前にいた全ての馬を交わし1着でゴール。才能の片鱗を見せてはいたものの、どこかもどかしいレースが続いていた。
しかし4歳秋にいよいよ本格化を迎える。10月の東京記念(大井ダ2400m)でコンマ1秒差の2着に入ると、続くかちどき賞(大井ダ1800m)で9ヵ月ぶりの勝利。こうして絶好調の状態で東京大賞典(大井ダ3000m)に駒を進めた。相手は3年前の東京ダービー(大井ダ2400m)勝ち馬で翌年には東京大賞典(大井ダ3000m)で優勝するスズユウ、同年の南関東二冠馬キングハイセイコーらが出走していたものの、テツノカチドキは早めスパートからスズユウの追撃をかわし1着でゴールイン。
翌’85年は、引退時世界歴代5位の7,153勝を達成し、年間505勝、3年連続400勝以上の世界記録(当時)を持つ佐々木竹見騎手を鞍上に迎え、地方競馬招待(福島芝1800m)では中央馬相手に影も踏ませぬ圧勝。同年ジャパンカップ(東京芝2400m)出走に大きな期待が寄せられたが、その選考レースである東京記念(大井ダ2400m)で200mにわたるロッキータイガーとの叩き合いの末、アタマ差2着に惜敗。ジャパンカップ挑戦は露と消えた。
‘85年東京大賞典は3着、’86年は逃げる同年南関東三冠馬ハナキオー(2着)をマークして5着。それ以降は5着以下のレースになることが多くなり、’87年東京大賞典で引退することが決まった。抑えて持ち味を活かせなかった前年の反省から、佐々木騎手はペースが緩んだところで先頭に立つと、そのまま直線でも脚色が衰えることはなく、2着以下に4馬身差をつけ有終の美を飾った。
地方馬初の獲得賞金3億円を突破したテツノカチドキ。佐々木竹見騎手は、42年間におよぶ騎手人生の中で一番思い出に残る競走馬だと言い、今もその写真を自宅に飾っているという。
カウンテスアップ(1986年)
カウンテスアップは東北、南関東、東海と様々な地区を渡り歩き、その先々で結果を出し続けた競走馬である。父フェートメーカーは、当時としては珍しい外国(アメリカ)産の地方馬で、南関東で5戦5勝の圧倒的成績を残して種牡馬入り(中央では6戦0勝)。中央から笠松に移籍し通算19勝を挙げたフェートノーザン、3歳重賞級を2勝したリバーストンキングなど、地方競馬での活躍馬を輩出していた。
1981年に生まれたカウンテスアップは、'83年にデビューすると新馬2着から12連勝を記録。東北の3歳最強決定戦である東北優駿や不来方賞など勝利し、3歳から4歳にかけて岩手競馬で18戦16勝2着2回という圧倒的な成績を残す。
5歳となった'85年に大井へと移籍するが、5月の大井記念(大井ダ2500m)を4着に敗れ、連続連対記録が22でストップ。当時は前述のテツノカチドキ、ロッキータイガーらが鎬を削っており、カウンテスアップは活躍の場を愛知に求めることになった。
名古屋競馬場では後に地方通算3353勝、中央GⅠで22勝を挙げる安藤勝己騎手とコンビを組み、3連勝をマーク。それを手土産に再び大井へ舞い戻ると、再転入後3連勝を飾るなど、この年11戦6勝の成績で暮れの東京大賞典(大井ダ3000m)を迎えた。
しかし2400mの東海菊花賞優勝の実績があるとはいえ、2500mの大井記念は2年連続4着、2800mの帝王賞は2着と敗れるなど距離不安が囁かれていた。また既に5歳とピークを過ぎていた印象もあって、カウンテスアップは同年の南関東三冠馬ハナキオーや前々年の優勝馬テツノカチドキ、前々走で2馬身差2着に破っていたウメノスペンサーに続く4番人気に甘んじていた。
ところが、鞍上の的場文男騎手には作戦があった。それはスローペースの逃げを打って体力を温存し、上がり勝負に持ち込むこと。そしてこの的場騎手の目論見はうまくいき、2周目の第3コーナーから徐々にペースを上げると、直線は得意のスピード勝負となった。結果は、カウンテスアップの完勝。ハナキオーが唯一食らいつき1馬身半差でゴールしたものの、3着以下を大差に引き離していた。
翌’87年には川崎記念3連覇を達成し、帝王賞で2年連続3着となったのを最後に引退。生涯成績は41戦29勝(うち中央1戦0勝)。日本記録の7367勝(2021年12月14日時点)を挙げる的場騎手が騎乗した東京大賞典の中で、最も思い出深いと語るレースである。
イナリワン(1988年)
イナリワンは、南関東出身で唯一のJRA年度代表馬に選出された名馬。地方からJRA年度代表馬に上り詰めたのは、他に’82年ヒカリデュール(南関東、愛知)と’90年オグリキャップ(笠松)だけである。
父はミルジョージ、母は不出走馬で繁殖入り後も不受胎や不出走馬が目立った馬で、イナリワンが誕生した’84年12月に用途変更になっている。
そんな背景もあり、イナリワンは当初牧場の中でも地味な存在だったという。しかし関係者に見出され、オーナーがよく参拝する穴守稲荷の“イナリ”と「一番出世して欲しい馬」の願いを込めて”イナリワン”と命名した。
そしてその期待通り、南関東三冠最終戦・東京王冠賞(大井ダ2600m)を含むデビュー8連勝をマーク。4歳になると苦手の重馬場が重なり不振に陥るも、東京記念(大井ダ2400m)3着・全日本サラブレッドC(笠松ダ2500m)2着と調子を徐々に取り戻しながら、年末の大一番・東京大賞典(大井ダ3000m)に向かう。イナリワンの実力を信じた陣営は「ここを勝ったら中央に移籍。そして天皇賞を目指す」と発表。馬場状態は良、それに好枠の2枠を引き、お膳立ては揃った。
レースは東京王冠賞、ダービーグランプリ(水沢ダ2000m)など6連勝中の1番人気アエロプラーヌが逃げ、3番人気のイナリワンは後方でジッと構える展開に。「イナリワンは折り合いが難しいから、ある程度の位置を取ってからは、息を殺すように乗っていた」と当時騎乗していた宮浦騎手は振り返る。直線に向くと、東京記念でイナリワンに先着(2着)し2番人気のアラナスモンタが先頭に躍り出るも、これを見事な末脚で半馬身差し切り、優勝。宮浦騎手は前述のハツシバオー以来10年ぶり2回目の制覇で、陣営は有言実行を果たした。
中央移籍後は、当時20歳でデビュー3年目だった武豊騎手とのコンビを結成。天皇賞(春)では史上6頭目の地方出身馬による天皇賞勝利を達成するなど、’89年にGⅠ3勝、うちレコード2回の大活躍で、オグリキャップらを抑えJRA年度代表馬に輝いた。
かつて武豊騎手がTVで『平成3強』について尋ねられた際、オグリキャップのことを「何を考えているのか分からない馬」、スーパークリークには「大人しくて、とても乗りやすい馬」と評価したのに対し、イナリワンはひと言「怖い」と表現された。武豊騎手はイナリワンの馬主からアメリカ遠征をプレゼントされ、それがきっかけで世界でも活躍。”世界のタケ”の礎を作った名馬でもあった。
ロジータ(1989年)
史上唯一、牝馬で南関東三冠を制したロジータ。その後、南関東競馬で牡馬・牝馬別々の三冠路線が整備されたため、今後ロジータのような戦績を残す牝馬が現れる可能性は低いだろう。
2歳時は4戦2勝。しかし3歳に入ると、現在は南関東牝馬三冠の一冠目・浦和桜花賞(浦和ダ1600m)、同牡馬三冠の一・二冠目羽田盃(大井ダ2000m)と東京ダービー(大井ダ2400m)を快勝。初の古馬対戦となった報知オールスターC(川崎ダ1600m)は2着に敗れ、連勝は“5”でストップした。
南関東最強クラスと目されるようになった彼女は、強敵を求め中央に挑戦。オールカマー(中山芝2200m)であのオグリキャップに真っ向勝負を挑み、5着と奮闘。ダートに戻り牡馬三冠最終戦・東京王冠賞(大井ダ2600m)で史上6頭目の南関東三冠を達成した。
次はジャパンカップ(東京芝2400m)に出走。しかし、ホ―リックスとオグリキャップが世界レコードで死闘を繰り広げている遥か後方で、最下位15着に敗北してしまう。ただし走破時計は、同年の日本ダービーやオークス(稍重だったが)より速かった。
その後ロジータは、東京大賞典(大井ダ2800m)へ出走。レースには3歳ながら岩手で15勝、秋の地方3歳最強馬決定戦・ダービーグランプリ(水沢ダ2000m)を制覇したスイフトセイダイ、重賞2勝のコリムプリンス、オールカマー(中山芝2200m)で2年連続連対と芝で活躍したジョージモナークなど、10頭が集結していた。ロジータは4、5番手から逃げるスイフトセイダイをマーク。直線半ばでスイフトセイダイをかわして先頭に立つと、同馬に4馬身差をつけ圧勝した。
そしてロジータを語る上で外せないのが、翌’90年2月12日の川崎記念(川崎ダ2000m)である。これがラストランとなる彼女を、ファンは単勝支持率80%、100円の元返しで、他馬の単勝はすべて100倍以上という圧倒的人気に支持した。そして彼女もその人気に応え、4コーナーから馬なりで2着馬を8馬身ぶっちぎり優勝。わずか1年4ヶ月、15戦10勝の強烈なインパクトを残して、彼女は第二の馬生に入ったのであった。ロジータの子孫たちは今も競馬場で走っている。血統欄で見かけたら、応援してみてはいかがだろうか。
アブクマポーロ(1998年)
東京大賞典が中央との交流競走になった1995年以降、初めて地方馬で勝利したのが、このアブクマポーロ。3歳時は下級条件で8戦3勝と平凡な成績に終わるが、3歳暮れに7ヶ月の休養を経て、復帰戦勝利後開業したばかりの船橋の出川厩舎に移籍して才能が開花した。翌年にかけて7連勝を達成すると、GⅠ帝王賞(大井ダ2000m)は大井・コンサートボーイのクビ差2着と健闘。その後、中央GⅡオールカマー(中山芝2200m)に出走してメジロドーベルの8着に大敗したものの、ダートに限れば’97年は中央の東海ウィンターS(現在の東海S、中京ダ2300m)など重賞4勝の活躍だった。
暮れの東京大賞典(大井ダ2800m)は、’97年平安S(京都ダ1800m)でシンコウウィンディと同着優勝など重賞3勝のトーヨーシアトルの3着に敗れたが、翌’98年は更なる進化を遂げ、10月の南部杯(盛岡ダ1600m)でメイセイオペラの3着に敗れるまで、6連勝を記録。南部杯の直後のグランドチャンピオン2000(大井ダ2000m)を2馬身半差で復活勝利すると、前年3着の雪辱をはらすため、東京大賞典(大井ダ2000m)に出走する。
そこには前述のメイセイオペラ、コンサートボーイに加え、中央から同年フェブラリーS(東京ダ1600m)の優勝馬グルメフロンティア、中央ダート重賞3勝馬エムアイブランなどがいた。しかしレースでは好位6、7番手から先行するメイセイオペラ、コンサートボーイを窺うと、直線で一瞬先頭に立ったメイセイオペラを並ぶ間もなく抜き去り、2馬身半の差をつけてリベンジを達成した。
翌年も現役を続け、川崎記念(川崎ダ2100m)とダイオライト記念(船橋ダ2400m)を連勝。更なる飛躍が期待されたものの、ダイオライト記念後に左後肢の飛節を捻挫し引退となった。生涯獲得賞金8億2009万円は当時の地方馬記録でもある。
トーホウエンペラー(2001年)
岩手競馬の所属馬として、史上唯一、東京大賞典を制覇したのがトーホウエンペラーだ。父はナリタブライアンの父としても有名なブライアンズタイム。ブライアンズタイムは、JpnⅠ6勝を挙げたフリオーソ、9歳まで走り43勝の成績を残したブライアンズロマンなど、ダートでも活躍馬を出していた。また母父のノーリュートは仏GⅠ馬だが、母父としてダート重賞5勝のスマートボーイ、地方重賞5勝のマズルブラストらを輩出。こちらもダートに強い血統だった。
そんなトーホウエンペラーは、元々は中央でデビューする予定だったという。しかし体質が弱く、新馬・未勝利に間に合わないまま岩手に移籍することになった。そして岩手では3歳12月とかなり遅い時期にデビュー。しかし、じっくりポテンシャルを磨いていたのが功を奏し、そこから9連勝を飾る。同年夏に、地方馬唯一の中央GⅠ馬・メイセイオペラが引退したこともあり、岩手競馬の新星として注目され始めたのだった。
後に障害重賞を4勝するウインマーベラスの4着に敗れ連勝がストップしたものの、その後は岩手の重賞を2つ制覇。「岩手に敵なし」と、更なる強敵を求め、トーホウエンペラーは’01年から他地区の交流重賞に駒を進める。帝王賞(大井ダ2000m、5着)を皮切りに、年末の東京大賞典(大井ダ2000m)まで7戦して2勝2着3回。同年マイルCS南部杯(盛岡ダ1600m)では、アグネスデジタルに続く2着に食い込んだ。
この年の東京大賞典には、史上初めて春秋中央ダートGⅠを制覇したウイングアローを筆頭に、同年8戦全勝で無敗の南関東4冠馬となったトーシンブリザード、同年フェブラリーS(東京ダ1600m)覇者で12歳まで交流重賞の最前線で走り続けたノボトゥルーなど、実績馬が揃っていた。
そんな中で3番人気に推されたトーホウエンペラーは、道中4・5番手で脚をためると、直線で末脚を爆発させる。残り50mほどの地点で先頭に立つと、リージェントブラフの追撃を半馬身かわし、晴れてGⅠタイトルを獲得。この年のNARグランプリ年度代表馬の座を射止めた。
翌年は、連覇を狙った東京大賞典(大井ダ2000m)こそ8着に敗れたものの、春秋中央ダートGⅠに挑戦したり、マイルCS南部杯(盛岡ダ1600m)を勝つなど活躍を遂げ、前年に引き続きNAR(地方競馬全国協会)年度代表馬に選出された。引退後は種牡馬となり、現在は静内フジカワ牧場で余生を送っている(見学不可)。
アジュディミツオー(2004年・2005年)
2021年現在、地方馬最後の勝利を挙げたのが船橋のアジュディミツオーだ。2歳9月にデビューすると、7ヶ月の休養を経て無傷の4連勝で東京ダービー(大井ダ2000m)を制覇。その後、日本テレビ盃(船橋ダ1800m)・JBCクラシック(大井ダ2000m)と中央馬相手の交流レースを連続2着とし、2004年末の東京大賞典(大井ダ2000m)を迎える。
雪が降り、ダートは重馬場。前走GⅠジャパンカップダート(大井ダ2000m)を制したタイムパラドックス、当時の3歳ダート王者決定戦・ダービーグランプリ(盛岡ダ2000m)を優勝したパーソナルラッシュ、既にGⅠ3勝を挙げていたユートピアなど、中央の強豪が集結していた。
ゲートが開くと、凍てつく空気を切り裂いてアジュディミツオーが先頭に立つ。競りかけてくる馬はいない。自身のペースで淡々とラップを刻んでいく。直線でも手応え十分で、中央のユートピアやクリンガーらが必死に追うが、差は縮まらない。結局アジュディミツオーが2着以下に3馬身の差をつけ、地方馬では’01年トーホウエンペラー以来3年ぶり、南関東所属馬では1998年アブクマポーロ以来6年ぶりの栄冠をもたらした。なお4着まで着順と第1〜4コーナーの通過順が同じという、典型的な「行った行った」の競馬だった。
念願のGⅠタイトルを手にしたアジュディミツオー。翌年は地方馬として初めてドバイに招待されるが、6着。帰国後は落鉄のアクシデントや初コースなど同情できる面もあったとはいえ、歯がゆいレースが続く。そして1年ぶりの勝利をかけて再び大井の東京大賞典(大井ダ2000m)に舞い戻ってきたのだった。
この年GⅠ3勝を挙げ前年の雪辱を誓うタイムパラドックス、GⅠ2着9回の記録でも有名なシーキングザダイヤ、4連勝で南関東二冠に輝いたシーチャリオットなど、地方・中央問わず実力馬が顔を揃え、1年間勝利から遠ざかっていたアジュディミツオーは4番人気にとどまっていた。
レースが始まると、鞍上の内田博幸騎手は押して先頭を奪いに行く。思い返せばここ1年、思うような逃げに持ち込めていなかった。絶対に逃げてやる──鞍上のそんな気迫が伝わったのか、去年と同じくアジュディミツオーが単騎の逃げで軽快にとばしていった。第3〜4コーナーではナイキアディライトに詰められるも、直線で二枚腰を発揮。まるで前年の再現を見ているかのように、颯爽とゴール板を駆け抜け、レース史上初の連覇を達成した。
‘06年は交流GⅠ3勝、レコード2回の大活躍。JBCクラシック前に骨瘤を発症し、休養明けで臨まざるを得なかった東京大賞典は5着だったものの、前年に続きNAR(地方競馬全国協会)グランプリ年度代表馬を獲得。特に帝王賞でのカネヒキリとの一騎打ちは、「勝ちたい内田、負けられない武豊」と実況されるほど激しいものだった(結果はアジュディミツオーが1馬身差で勝利)。
現在は、生まれ故郷の藤川ファーム(新ひだか町静内豊畑)で種牡馬生活を送っている。ここ数年種付けゼロが続いているものの、見学可とのことなので、ぜひ「競走馬のふるさと案内所(https://uma-furusato.com/)」さんにお問合せの上、訪ねてみてはいかがだろうか。
写真:Horse Memorys、かず、俺ん家゛