![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]Spring Back(シーズン1-67)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/10/2025100609.jpg)
翌朝、雨がしとしとと降っている音が、屋根伝いに寝床まで聞こえ、4時起きは見送ることにしました。福ちゃんたちの削蹄が9時頃から行われると聞いていましたので、7時に起床し、それに備えることにしました。リビングに行くと、お母さまがすでに朝食を準備してくれています。アスパラとベーコン、そしてパン。しかも食後にはコーヒーまで淹れてくれます。至れり尽くせり。
朝食を食べながらテレビを観ていると、ニュース番組の中でひと言英会話のようなコーナーがあり、そこで「Spring Back(スプリングバック)」という英単語が紹介されています。1年経って春が戻ってきたという旬な言葉かと思いきや、病気や障害から劇的に回復するという意味だそうです。Springは春ではなく、バネのように弾ける、バックは戻ってくるということで、ふたつ合わせて急激に回復して良くなるという意味です。かれこれ数十年間、英語を勉強しましたが、こんな簡単な単語の組み合わせにもかかわらず意味を知らない単語があるなんで、驚きでした。それよりも何よりも、スプリングバックはまさに福ちゃんの妹、ムー子にふさわしい響きだと感じました。もしムー子も(ルリモハリモや福ちゃんのように)嫁ぐことができなければ、スプリングバックという名前をつけて走らせたいと思います。
昨日の晩餐にて、福ちゃんのお姉さんの名前がルリモハリモで登録した話をすると、慈さんが改めて「いい名前ですね」と褒めてくれました。和風な感じと意味が好きだそうです。碧雲牧場の他のメンバーたちも一同に良い名前だと賛成してくれて、次第に話は福ちゃんの名前の話になりました。
ミヅキさんが「フクチャンはあるから、フクだけが良いのでは?」と提案してくれたのですが、たしかフクはすでに使われている気がして、「フクチャンもフクもどちらも使われていますので、それ以外の名前を考えなければいけません。名前のどこかにフクは入れたいですけどね」と話しました。
すると「いくつか候補を挙げて、YouTubeの視聴者さんにアンケートを取ってみても面白いかもしれない」という案も出ました。それは僕も面白いと思います。実は、僕の中ではすでに心に半ば決めている名前があるので、ここで皆に向けて発表するべきかどうか迷いましたが、まだ決めたわけではないので口に出さずにいました。
福のつくことわざを調べてみたところ、「笑う門に福来る」、「余りものには福がある」、「愚か者に福あり」、「禍を転じて福となす」など、聞き覚えのある格言が並んでいました。フクキタルはマチカネフクキタルが浮かびますし、ワラウカドは一口クラブ名です。福は縁起が良い言葉だけに、多くの人たちに使われていますね。フクトナスは聞き慣れない響きですが、カタカナだと野菜の茄子が真っ先に思い浮かんでしまいます(笑)。

9時になると削蹄師さんが来て、福ちゃんの削蹄が始まりました。トップバッターは福ちゃんです。およそ1か月に一度は行われる削蹄にもう慣れているのか、福ちゃんは意外と大人しく蹄を切ってもらっています。削蹄師さんもさすがで、両足の間に福ちゃんの肢を挟み、ちょっとやそっとでは動かないように固定しています。その状態で蹄を短く切り、水平(平行)に整えていきます。もしかすると福ちゃんは嫌がって暴れようとしているのに、削蹄師さんの固定する力が強すぎて、大人しくしているように映っているのでしょうか。まるでルメール騎手がものすごい腕力で騎乗馬が引っ掛かるのを抑えているため、傍から見ると引っ掛かっていないように映るように。
1本の肢の蹄を1分ぐらいの時間で削蹄していき、1頭につき約4~5分で削蹄作業は終わります。最後の肢の削蹄が終わっても、福ちゃんは「もう終わりですか?」という感じで、キョトンとしながら馬房に戻っていきました。続いてマンちゃん。4頭の中ではいちばん暴れていました。次にミーちゃん、最後にサバちゃんの順番です。普段は利かない性格のサバちゃんが、削蹄はそれほど面倒を掛けていなかったのは意外でした。肢を持たれて、削られることに対する抵抗感もそれぞれで異なるのでしょうね。
お昼は鵡川の「寳龍(ほうりゅう)」に連れて行ってもらい、久しぶりにラーメンを食べることができました。いつもはみそラーメンを食べるのですが、今日は理恵さんに影響されて、みそ五目チャーシューラーメンを頼んでしまいました。理恵さんは相変わらず、みそ五目チャーシューににんにくとブラックペッパー、ホワイトペッパー、そして七味をかけて召し上がっています。行き着くところまで行き切った食べ方です(笑)。ニンニクはひと瓶を全て使うので、お店の人もそれを知っていて、理恵さんが来ると満タンにニンニクが入った新しい瓶を持ってきてくれます。
ラーメンを食べて牧場に戻り、原稿を書いたり、撮影に回ったりしていると、あっという間に夕方になり、獣医師の揖斐先生が往診に来てくれました。この日は、ムー子のレントゲンを撮り、目の前で診断をしてくれるとのこと。ちょうど僕が今日来るので、それに合わせて来てくださいました。
ムー子は、慈さんに引かれて馬房の外に連れ出され、その姿を見て揖斐先生は「だいぶ良くなりましたね」と言ってくれました。4月4日に生まれて、4日後の4月8日にダミーフォールを発症し、2日間は暴れて、寝たきりの生活を送り、4月11日にようやく自力で立ち上がり、そこから10日間でまともに歩けるようになったのです。僕にとっては長く感じられる期間でしたが、ダミーフォールを患った馬としては、この短期間でよくここまで回復したというのが一般的な所見でしょう。ムー子は頑張り屋さんですし、強い生命力を与えてくださった神さまに感謝です。

もう一人の女性の獣医師さんが助手的に検査を手伝ってくれました。ボードのようなものを持ち、それを背景にしてレントゲン写真を撮るのです。馬は常に動くので、その動きに合わせてボードも動かしながら、馬の動きが止まった瞬間を狙って、揖斐先生がシャッターを押します。ムー子はまだぼんやりしているのか、それほど暴れたり嫌がったりする素振りもなく、比較的スムーズに頭部や頸椎のレントゲン写真を撮ることができました。
撮影したレントゲン写真は、その場でパソコンに映し出して見ることができます。揖斐先生はレントゲン写真を見ながら、「1、2、3…」と脊椎の数を数えたりしながら、どこかに異常がないか確認していきます。脊椎が欠損していたり、潰れていたり、頭部の骨が損傷していたりしないか、観てくれています。ひととおり見終わった後、僕に向かって「大丈夫そうですね」と太鼓判を押してくれました。自ら転倒したり、母馬に押し潰される形で、頭部や脊椎を骨折したということもなさそうです。僕は慈さんと目を合わせて、「良かった」とつぶやきました。ダミーフォールであれば時間はかかっても回復が見込めるのですが、頭部や特に脊椎をやられてしまっていると、競走馬として致命傷になりかねないことを危惧していたからです。これで彼女を生かすことができます。ムー子は一命を取りとめたのです。

「ありがとうございました」と揖斐先生たちを見送り、ムー子はお母さんと一緒の馬房に戻りました。このとき初めて、ムー子が遅ればせながらもスタートラインに立ち、スパツィアーレの25はバランスの良い好馬体で生まれ、2頭の仔馬が揃った恵みを感じました。無事にとは言えないまでも、女の子と男の子が産まれてきてくれたのです。束の間の幸せに浸っていると、慈さんが申し訳なさそうな顔で、「ムー子の診療費がだいぶかかってしまうと思いますが、すいません。補液を何度か入れたり、その他もろもろですから…」と言いました。この言い方の感じですと、数万円ではなさそうです。10万円から20万円ぐらい?もしかするともっと上?と、僕の頭の中では数字がグルグルと回ります。
「馬の医療費は保険が利かないので、全額自己負担になってしまうから高いのですよね」と慈さんからダメ押しをされます。今回は慈さんたちの献身的な看護のおかげで、牧場にいながらここまで回復しましたが、クリニックに入院していたらそれこそいくらかかったか分かりません。ムー子が生き残ってくれただけでも嬉しいですし、最小限の診療費で済んだのもたしかですが、来月の請求書が届くのが恐ろしい。サラブレッドの生産において、最後にツケが回ってくるのはオーナーなのです。僕は一気に現実に引き戻されました。
(次回へ続く→)