[フェブラリーS]Pride of Iwate〜『水沢の』メイセイオペラが『日本の』メイセイオペラになった日〜

1999年1月31日。
私は朝から東京競馬場を目指していた。その日のメインレース、フェブラリーステークスを観戦するためだったが、妙な違和感が拭えなかった。なぜなら、暦はまだ1月だというのに、メインは2月を冠するレース名だったからだ。
「名は体を表していない。4月3週に開催される牡馬三冠レースの最初も『卯月賞』にするべきだな」
「変な屁理屈ばっかり言ってないで、しっかり馬券の予想をしろよ」
この日、一緒に競馬場に向かう競馬仲間とそんな会話をしながら府中の競馬場に向かっていた。

準メインまでトントンの収支で迎えていた私は11レースの予想をしていたが、大いに迷っていた。
家を出る際はメイセイオペラを買うと覚悟を決めていたものの、競馬場に到着して当日のオッズを見ているとワシントンカラーとメイセイオペラが単勝の1番人気を競り合っていたのである。

「人気の一角、ワシントンカラーは距離が長いと思うのだけれど……」

自分の予想に自信を持てなかった私は、メイセイオペラ◎という予想が不安になっていた。けれど、改めて競馬新聞に載っているメイセイオペラの1600m戦の成績を見て、腹を括った。これまでダートのマイル戦では負けたことがない、という実績を信頼して初志貫徹。私はメイセイオペラと心中することにした。今なら馬単1着固定で馬券を買っていたと思うが、当時は馬連しかない時代。メイセイオペラを軸にした流し馬券をマークシートに塗って窓口へ走った。

最終的に単勝の1番人気はワシントンカラーになった(オッズは4.5倍)。
メイセイオペラの単勝オッズは4.7倍で締め切られたのだが、今思えばこの微妙な差は“地方馬は、JRAのG1競走を勝ったことが無い”ということが影響したのかもしれない。メイセイオペラが実力馬であることは多くの人に知れ渡っていたけれど、過去に一度も起こったことがないことが今回起こると信じるのは、なかなか勇気がいることだ。それでも私は、馬と菅原勲騎手に思いを託し、ファンファーレを聞いた。

15頭のJRA所属馬と1頭の地方所属馬による砂の王者決定戦は、良馬場のコンディションで行われた。

ゲートが開くと桜花賞馬のキョウエイマーチが先頭に立ち、メイショウモトナリやビッグサンデーがこれに続く。最初の800mは48秒1。芝のレースと見間違えるようなハイラップを刻むなか、メイセイオペラは好位4~5番手を追走、手ごたえは悪くないよう見える。

そして最後の直線に向くと、菅原勲騎手の右ムチに応えてメイセイオペラは後続を引き離す。武豊騎手が乗るエムアイブランや横山典弘騎手騎乗のタイキシャーロックが差し込んで来たものの、その2馬身先で菅原勲騎手は派手なガッツポーズを決めて、先頭でゴールを駆け抜けた。


ウイニングランで戻って来たメイセイオペラと菅原勲騎手に向けて、とある応援幕がスタンドから掲げられていた。
『夢をありがとう。感動をありがとう』。その応援幕を持った人たちを中心に、イサオコールが沸き起こった。メイセイオペラの所属する岩手からの応援団が持ち込んだものだった。

岩手の競馬ファンの熱量は高いことで有名だ。理由はいくつか考えられるが、例えば岩手と馬の歴史はとても古いこともそのひとつだろう。
天武天皇の時代の大宝律令(701年)には厩牧令(くもくりょう)というものが制定され、国のお墨付きで馬産や育成に力を入れることが奨励され、今の遠野市の付近では積極的に馬の飼育が行われていた記録が残っている。
また、種牡馬シアンモアを導入したり、1941年に日本で最初の三冠馬となったセントライトを生産したのは、雫石町にある小岩井農場だ。
日米の女性騎手による交流競走を1981年に水沢競馬場を皮切りに実施。もちろんこれは日本で初めての試みだった。

そんな岩手の競馬ファンの多くは、自分たちの馬や競馬に自信と誇りを持っているのだが、一方で忘れられない“悪夢”もある。
1995年10月10日。
この日の南部杯でトウケイニセイが3着に敗れる、という信じ難いことが目の前で起こったのだ。勝ち馬はJRAのライブリマウント。成長途上のこの馬と、すでに9歳(現表記では8歳)となって競走馬として晩年を迎えていたトウケイニセイ。
「あと2年、いや、1年でも早く南部杯が交流重賞となっていれば……」
岩手の競馬ファンはそんな思いと共に、最強だと信じていた地元のトウケイニセイが敗れたことに、大きなショックを受けた。

そんな岩手の競馬ファンが失いかけていた誇りやプライドを、フェブラリーステークスのメイセイオペラと菅原勲騎手によって再び中央から奪い返すことになったのかもしれない──そう思わせる興味深いデータがある。
このフェブラリーステークスの馬券は水沢競馬場でも場外発売が行なわれたのだが、そこに7000人もの人が集まったのだ。しかもそこで買われた単勝馬券のうちおよそ75%が、メイセイオペラに投じられていたという。

そしてもう一人、このメイセイオペラの勝利に感慨深い思いを抱いていた人物が府中の競馬場に居た。
有限会社明正商事の小野寺明子さん。この馬のオーナーだ。
当初は彼女の夫である良正さんが奥さんに内緒で馬主になったという。ところが、これに烈火のごとく反対をした夫人だったが、彼はこう言って憤る彼女を納得させた。
「競馬以外の遊びはすっぱり辞める。自分の道楽は、もう競馬だけにするから」と。
そしてお互いの名前から一文字ずつとって『明正商事』という会社を立ち上げ、本格的な馬主業を始めることになった。

──けれど、このメイセイオペラのフェブラリーステークス制覇という快挙を、良正さんは見届けることが出来なかった。メイセイオペラがデビューして1ヵ月後の1996年8月、病気のためにこの世を去ったのだ。
フェブラリーステークスの最後の直線、夫人の明子さんは高々と遺影を掲げ
「あなたの馬が、先頭を走ってます! メイセイオペラが中央のG1レースを……」と、亡き夫に愛馬の晴れ姿を見せていた。


幼少時代のメイセイオペラを見た牧場主が、オーナーに成長過程を報告する際に「褒めるべき点がない」と悩んでいたことがあったというエピソードがある。
3歳のユニコーンステークスに出走する直前に、頭蓋骨の骨折で馬房の中で血だらけになっていたこともあった。

それでも関係者はメイセイオペラの力を信じ、岩手の競馬ファンの思いを乗せて戦い続けた。

同じ国内なのに<中央>と<地方>とに完全に切り離されていた日本の競馬だったが、95年を境に交流レースが一気に増えることとなった。これまでは自分たちの地元で強いパフォーマンスをしても、一部の辛口なファンからは「所詮は、お山の大将」と見られていた地方の有力馬が、ここぞとばかりに中央や他の地区へ遠征をして交流G1は真の実力馬を決めるレースとなった。

メイセイオペラは98年の南部杯を勝っていて、すでに交流G1を制覇していた経験があった。けれどこの日、府中の競馬場から帰る電車の中で、私はこう思った。

『水沢の』メイセイオペラが、ついに『日本の』メイセイオペラになった——。

98年から2年間だけ、フェブラリーステークスは冬の府中の開幕週に施行されていた。曜日の並びの関係で「1月に行われたフェブラリーステークス」はこの99年の1度だけだったが、そんなレアケースの競走を制したのはメイセイオペラだった。

そしてフェブラリーステークスに限らず地方競馬所属のままJRAのG1競走を制したのは、令和の時代になった今でもメイセイオペラ、1頭だけしか成し遂げていない快挙である。

写真:かず、並木ポラオ

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