[オルフェーヴル伝説]雨のダービー。悪条件が引き出したオルフェーヴルの輝き

三冠達成や阪神大賞典での逸走、凱旋門賞での連続2着──。
あの個性派名馬の歩んだ現役時代を振り返り、父として活躍する現在の日々を紹介するファン必読の一冊、競馬書籍『オルフェーヴル伝説 世界を驚かせた金色の暴君』(星海社新書)。池江泰寿調教師や森澤光晴調教助手をはじめとした当時の関係者インタビューも多数掲載されているほか、栗山求氏による血統解説、治郎丸敬之氏による馬体解説など、バラエティ豊かなライター陣がオルフェーヴルの強さ・魅力を語り尽くす充実の内容となっている。

今回は、執筆者の一人である勝木 淳さんに、オルフェーヴルが駆け抜けた雨中のダービーについて振り返っていただいた。

※本記事は『オルフェーヴル伝説 世界を驚かせた金色の暴君』には収録されていないオリジナル原稿となります


雨の競馬場にはあらゆる我慢が散りばめられている。外ラチの内側では傘は差せない。繊細な心を持つ草食動物が極限まで闘争心をたぎらせており、気分転換に傘を回そうものなら、どんな反応を示すかわからない。馬場を管理する作業員たちはひたすら雨に打たれながら、晴れた日以上に丹念に馬場に目を凝らす。ぬかるんだ馬場はレースが終わるたびにボコボコになる。安全な競馬のため、作業員は気を張り続ける。馬たちも装鞍からパドック周回とひたすら雨に体を濡らす。首筋にまとわりつく鬣は鬱陶しいにちがいない。雨のパドックを歩く馬たちはクビを下げ、じっと耐えているようにさえみえる。おまけに馬場は芝もダートもたっぷり水分を含んでおり、走りにくい。よくつんのめることなく、走れるものだと感心する。私なら、走り出して2、3歩ですっころぶ。あれだけ不安定な路面で全力疾走する姿こそ、芸術だ。もちろん、苦手で前に進まない馬もいるが、それはもう同情しかない。道悪の凡走は我慢の果てのこと。早く厩舎に戻って、体を休めてほしい。ただでさえ不安定な馬上にいる騎手だって、走りにくい馬の上は危険も多い。ゴーグルも汚れ、視界も相当悪い。見えにくい世界での手綱さばきはもちろん、レースが終われば泥だらけで戻ってくる。1日に何度も何度も泥まみれになる世界は日常ではありえない。これも我慢だ。

スタンドで見守るファンも傘を片手にじっとレースを見つめ続ける。スタンド一面に広がる傘の下には、競馬ファンの馬券の我慢も毎レース観戦し続ける我慢が隠れている。雨が止むそのときまで、競馬場のあらゆるところで我慢の時間が続く。雨よ、止んでくれ。空に向かって無言の祈りを放つ。競馬は自然と共生し続ける競技。雨から逃れることはできない。いや、雨がないとできない。自然の恵みが大地に沁みこんでくれないと、芝生は育たない。みんな分かっているから、我慢できる。

ダービーもまた同じ。生涯一度の晴れ舞台は抜けるような青空がふさわしいが、当日の天候は選べない。人類は天気を操れず、自然とはあくまで共生するしかない。雨のダービーといえば、オルフェーヴルの2011年を思い出す。2011年5月29日。前日からパラついた雨は日付をまたぐころから強くなり、競馬開催時間にはさらに強まった。府中の森方向から吹く北東風が競馬場に集う人々の体温を奪っていく。気温は朝からほぼ横ばい。太平洋岸を通過する台風2号に向かって吹き込む風とその前面にできた前線がダービーデーを過酷な環境へと変えていった。

前日は稍重で終わった芝は4Rには不良馬場へ。未勝利馬が1800mを1.51.0で駆けた。ダービーの目安になる芝2400mの青嵐賞は2.31.8。13秒台が4度も記録され、ラスト200mは12秒7。悪条件で試される根競べの色が濃くなり続けた。ようやく迎えた日本ダービー。風も雨も一向に弱まる気配がない。傘の隙間から天を睨んでも、祈っても届かない。与えられた条件を受け入れるよりほかにない。空との付き合い方を思い知る一日でもあった。

主役は4週間前、いつもより1週遅れの皐月賞を勝ったオルフェーヴル。中山から東京へスライドされた皐月賞の勝利は心強い。だが、デビュー戦の重馬場以外はすべて良馬場。池添騎手の指示を受け入れない姿から想起させる我がままっぷりが走りにくい馬場でへそを曲げはしないかと気を揉む。皐月賞2着サダムパテック、わざわざデットーリ騎手を配したダーレーのデボネア、オルフェーヴルと同じステイゴールド産駒ナカヤマナイトら逆転候補もそろっていた。

スタートで脚を滑らせ、遅れをとる馬が数頭いるなか、オルフェーヴルは中団馬群の後ろにつける。馬群で揉まれることを避けるような位置ではあるが、先頭をいくオールアズワンから14、5馬身ほど離れた。池添騎手の手綱はかつてほど張りつめていない。オルフェーヴル特有の姿勢を低くした走りはぬかるんだ馬場を着実にとらえていく。だが、4コーナー手前で目の前のサダムパテックと隣にいたナカヤマナイトが外へ広がり、内へ押し込められる体勢をつくられてしまう。ナカヤマナイトは意地でも外へ出させまいとプレッシャーをかけてくる。サダムパテックとナカヤマナイトによってつくられたポケットに入る形はかなり厳しい。闘争心を切らせてもおかしくない状況下がむしろオルフェーヴルの闘志に火をつけた。サダムパテックが下がり、壁が崩れ、馬場の真ん中に進路を見出すと、オルフェーヴルはさらにフォームを低くし、溜めてきた脚を爆発させる。ナカヤマナイトを置き去りにし、独走態勢に入った残り200m。外から猛然とウインバリアシオンが襲いかかる。対照的な少し頭の高い走りだが、追い詰める迫力はむしろオルフェーヴルをしのぐほど。だが、ウインバリアシオンの気配を悟ったかのようにオルフェーヴルがもうひとつギアをあげた。これ以上ない悪条件、直線半ばの攻防を思えば、どこにそんな末脚が残っていたのかと唖然とするしかない。だが、これがオルフェーヴルの真の姿なのだ。ライバルたちがもっとも苦しい場面、我慢の限界でこそ光を放つ。この後、私たちはリミッターが外れたオルフェーヴルの恐ろしさを何度も目撃することになるが、そのはじまりがダービーの直線にあった気がしてならない。

オルフェーヴルはその後、良馬場以外を5度経験する。逸走して戻ってきた阪神大賞典、フォワ賞連覇、そして2度の凱旋門賞。ソレミアに敗れた最初の凱旋門賞での直線半ばの瞬発力は重馬場で繰り出された。道悪だったのが信じられないほどの切れ味はそれこそ伝説といっていい。色々と逸話の多い馬だったが、あのギアが入った瞬間の沈み込むような姿勢と力が前にしか伝わらないようなフォームは理想の走りとして記憶に刻まれる。

あの日の雨はオルフェーヴルの我慢強さと底力を引き出した。なぜ、雨は降るのか。その答えなど考えても意味がないかもしれない。それでもあえて考えるなら、晴れた日では見られない我々のなかにあるなにかを引き出すために降るのではないか。雲に覆われた暗い世界でこそ輝くなにかがある。オルフェーヴルが勝ったダービー当日はその象徴のような一日だった。


新書『オルフェーヴル伝説 世界を驚かせた金色の暴君』(星海社新書)好評発売中!

※本記事は『オルフェーヴル伝説 世界を驚かせた金色の暴君』には収録されていないオリジナル原稿となります

第一部 オルフェーヴルかく戦えり

最強を証明し続けた遥かな旅 文・構成/手塚瞳

2010ー2011 新馬戦│スプリングS
2011 クラシック三冠│有馬記念
2012 阪神大賞典│凱旋門賞│ジャパンC
2013 大阪杯│凱旋門賞│有馬記念

第二部 一族の名馬と同時代のライバルたち
[一族の名馬たち]
ステイゴールド
メジロマックイーン
ドリームジャーニー
オリエンタルアート
8号族

[同時代のライバルたち]
ウインバリアシオン
ゴールドシップ
ジェンティルドンナ
ホエールキャプチャ
グランプリボス
レッドデイヴィス
トーセンラー
ギュスターヴクライ
ビートブラック
ベルシャザール
サダムパテック
アヴェンティーノ

[主な産駒たち]
マルシュロレーヌ
ウシュバテソーロ
ラッキーライラック
エポカドーロ
オーソリティ
シルヴァーソニック
メロディーレーン

第三部 オルフェーヴルを語る

血 統 競馬評論家/栗山求
馬 体 『ROUNDERS』編集長/治郎丸敬之
育 成 Tomorrow Farm 齋藤野人氏に聞く
厩 舎(前・後編) 池江泰寿調教師に聞く
海外遠征 森澤光晴調教助手に聞く
種牡馬 社台スタリオンステーション 上村大輝氏に聞く

第四部 オルフェーヴルの記憶

震災の年の三冠馬は「希望の星」
オルフェーヴル産駒の狙い目
穴党予想家が振り返る「オルフェの印」
記者席で見た「阪神大賞典の逸走」
国内外で異次元名馬が生まれた世代
歴代三冠馬を生まれ月で比較する

座談会 語り尽くそう! オルフェーヴルの強さと激しさを

書籍名オルフェーヴル伝説 世界を驚かせた金色の暴君
著者名著・編:小川隆行+ウマフリ
発売日2024年02月19日
価格定価:1,350円(税別)
ページ数192ページ
シリーズ星海社新書
あなたにおすすめの記事