凱歌が揚がった瞬間、中山競馬場は大きな歓声に包まれた。
方々で拍手の音も聞こえる。
いわゆる「馬券勝負」に勝った観客だけでなく、負けた観客すら拍手を送った。観客全体がこれだけ一体となって当日の主役を祝福するという場面は、鉄火場の代表格たる競馬場においては当時あまり見られない光景だった。まるでそこにいる観客全員が歓びを等しく分け合っているかのような……そういった空気が、肌寒いはずの冬空の下をうっすら暖めていた。
1993年1月24日のことである。
この日、中山11Rに組まれたG2・アメリカジョッキークラブCの目玉は、何と言ってもら前年暮れの有馬記念でハナ差2着の上がり馬・レガシーワールドであった。
伸び盛りの、5歳セン馬。今までの重賞勝ちはセントライト記念1つだけながらも、その日集まっていたメンバーのなかでは勢いが群を抜いていた。管理する戸山為夫調教師にさらなる勲章を与えるであろう馬だ……そんな見解が大方を占めた。
単勝オッズは1.4倍。
単勝のシェアの半分以上は彼の馬券であった、ということになる。
メンバー9頭の中に、この年で明け7歳を迎えた芦毛の人気者ホワイトストーンもいた。
「白い稲妻」タマモクロスと同じシービークロス産駒。
美浦・高松邦男厩舎所属の彼は、差し脚が自慢で、実績もある馬だった。
前年秋の天皇賞では5着に食い込んでいたし、4歳時には菊花賞2着、日本ダービー3着、ジャパンC4着、そしてオグリキャップが蘇ったあの伝説の有馬では、1番人気に推されたほどの馬だったのだ。
千載一遇のチャンスだったグランプリを勝ち切ってさえいれば、この歳まで現役を続けることも無かっただろう。
同期のメジロライアンやアイネスフウジンのように、種牡馬としてシンジケートが組まれて華々しく故郷に錦を飾っていたはずだった。
しかし、オグリキャップ奇跡の復活に遭い3着に終わった後の彼は、G1で馬券に絡めずにいた。24戦して3勝、セントライト記念と産経大阪杯の両G2を勝っただけの成績では種牡馬として訴求力に欠けるし、そもそも馬を見る目にシビアな生産地から声が掛かるかも怪しいものだった。
そのホワイトストーンと似たような立場に置かれたシャコーグレイドとレオダーバンが、同重賞の2、3番人気を占めていた。2頭は共に6歳の牡馬で、前者は2年以上、後者は1年あまり勝ち星が無かった。だが、レオダーバンは肝心なG1という勲章を引っ提げていたし(1991年の菊花賞)、重賞勝ちの無いシャコーグレイドにしても、1つ年上のホワイトストーンと比べれば将来性が感じられた。何よりも単勝6番人気という序列が、当時の競馬ファンが下したホワイトストーンに対する評価の指標ではないだろうか。
同時代を生きたナイスネイチャに匹敵する人気者でありながら、2年近く勝ち星から見放されている彼……眼前に広がる未来は、どうにも暗かった。
そうこうしているうちに発走時刻がやってくる。
レースが始まると、先行脚質の大本命レガシーワールドが大方の予想通りハナを叩いたが、1コーナーを行くあたりで最内枠のホワイトストーンがニュッと先頭に立った。
少頭数のスローな流れを嫌った鞍上の柴田政人騎手が、本来の脚質を捨てた奇策に出た形だ。
どよめくスタンド。
しかしながら柴田騎手は冷静さを失わずに先頭をキープし、淡々とした絶好のイーブンペースを作り出した。一方、2番手で折り合う赤い帽子のレガシーワールド。
前半5ハロンは、62秒フラットを刻んだ。
3コーナーでシャコーグレイドが外からマクりを試みたが、前を行くホワイトストーンの手応えは衰えを見せない。やがて4コーナーを前に早々と仕掛ける柴田騎手。ワンテンポ遅れてレガシーワールドの小谷内秀夫騎手がゴーサインを出したが、直線に向く頃にはセーフティリードがもう完成してしまっていた。
それから十数秒後、白い馬体のホワイトストーンがゴール板をトップで駆け抜けた。
彼の通算4勝目、そして3つ目のG2勝ちは、驚きの逃げ切り。前年のトウショウファルコでの勝利に続き、柴田騎手は2年連続で同重賞を逃げ切ってみせたのであった。それも、誰もが全く予期せぬ形で。
「長い間、ご迷惑のかけっぱなしで……ファンに何分の一かのお返しが出来たかと思うとホッとします(高松師:談)」※1
「今年はビッグタイトルを取りたいですね」※2とインタビュアーに今後の抱負を語る柴田騎手。
朴訥な彼の頭の中に、この日復活を果たしたホワイトストーンの過去の姿が次々と浮かび上がった。
高松師が2歳馬セールで競り落とした頃の、あまり見栄えのしない様子。
430kgそこそこの華奢な体で奮闘した3歳時。
人間関係のしがらみから弟弟子の田面木博公騎手に乗り替わりとなり、ホワイトストーンが3着に健闘する姿を遥か後方から眺めたダービー。
ひと夏越して見違えるほどたくましくなったセントライト記念。
距離不適ながらもメジロマックイーンを相手に真っ向から挑んだ菊花賞。
あわやの競馬で日本馬最先着を果たしたジャパンC。
本命視されたが、奇跡の前になすすべ無く敗れ去った有馬記念。
遠く中山競馬場のモニターで目にした、産経大阪杯における田面木騎手とホワイトストーンの勇姿。そして、その後の長い不振。緩いレースの流れに引っ掛かる素振り、年々白さを増していく芦毛の馬体……。
それら全てを心の奥底に仕舞い込んだ柴田騎手は、万雷の中山競馬場でそっと目を閉じ、馬上で物思いにふけった。
ホワイトストーンはそれ以後8歳夏の札幌記念まで走ったが、勝ち星はもう二度と得られなかった。引退後は幸いなことに、父シービークロスをかつて繋養していた新冠農協畜産センターに迎え入れられた。種馬としての評判は上々であったが、1998年2月に小腸癒着のため12歳で早世した。
遺された3世代の産駒の中から大井・東京王冠賞を制覇したアローウィナーが出たものの、繁殖入りした産駒は牡牝通じておらず、現在彼の血を継ぐ馬は競馬場に存在しない。
(馬齢表記は旧表記で統一)
※1「Gallop臨時増刊・週刊100名馬27ホワイトストーン」
※2「優駿」1993年3月号
写真:ウマフリ写真班