[エッセイ]天皇賞春を受け、感じたこと。真面目と呼ばれた私を元気付けてくれた名馬、タイトルホルダーへ。

2021年10月24日、私はダラダラとテレビの画面を観ていた。

「つまらないメンバーだな、今回のレースは」

そんなことを思いながら。これは、菊花賞でのことである。


──その前に私のことを語ろう。
この日を振り返る前に、語らなければならないことがある。私の、辛く苦しかった記憶のことだ。

『君さぁ、真面目すぎるんだよねぇ〜』

以前の職場にいた先輩に言われた。
元々、声が大きくて、上から目線で、気がつけば私をいじってくる苦手な人だった。

その人は無理矢理、私に面白い・小洒落たことを言わせようと、支配した。ちょっとでもおどけて隙を見せると、ニヤニヤとしながら「そうそう、それなんだよねぇ」と嫌味ったらしい口調で言ってきた。

それからだ、私が『真面目』という言葉を呪うようになったのは。

「真面目だよね」
「あなたは真面目だからね」

真面目、真面目、真面目…。そんな言葉で私を評価するな。心をナイフで刺し続けるな。その度に、呪った。自分を呪った。私はここにいる価値がないと、消えたいと思った。そして、ある日、何かがプツンと切れた。

「私は真面目という言葉が嫌です」

その時、色々と気にかけてもらっていた上司にそう打ち明けた。上司はそんなことはない、真面目なのは良いことだよと励ましてくれた。

でも…正直なことを言うと、受け入れられなかった。空っぽな言葉だったように感じたから。気にかけてくれていたのかもしれないけれど、私じゃなくて上司の都合の良いように解釈されているように感じてしまったのだ。

それから間も無く、私は転勤をした。丁度、緊急事態宣言でこの国に暗雲が立ち込めていた頃だ。慣れない日々、自分勝手な当時の上司たち、何も仕事を教えてもくれない環境。体調をよく崩すようになったのもこの頃だった。生きる気力を失った。

その時、決まって思い出した。

『君さぁ、真面目すぎるんだよねぇ〜』

その度に私は苦しまずにこの世からいなくなりたいと思った。わざとおどけて振る舞った時もあったけれど、その度にまた傷ついた。こうしないと自分を保てないのか、と。

競馬にハマって、毎週欠かさず観るようになったのはこの頃からだ。

ウマ娘をきっかけに始めた競馬だったが、幸運な時期に当たったと思う。無敗の三冠馬のコントレイルやグランアレグリア、クロノジェネシス、ラヴズオンリーユーといった歴代でも有数の名馬たちが活躍し、下の世代にもソダシやエフフォーリアなど魅力的な馬が多くいた。毎週彼らの活躍を見るのが楽しみになった。好きな馬も増えていった。

けれど、一つ問題があった。2021年の競馬界は、私目線では、どちらかと言えば牝馬がレベルが高かったように見えていた。私の好きになる馬も牝馬ばかり。牡馬で「これだ!」と思う馬は中々現れなかった。

──2021年10月24日の、菊花賞までは。

「このレースってエフフォーリア(皐月賞馬)もシャフリヤール(ダービー馬)も走らないんでしょ。つまらないな」

皐月賞馬とダービー馬が、最後の一冠を巡って走る姿が見たかった。前年はコントレイルが最後の菊の称号を賭けて過酷な長距離に挑んでいた。アリストテレスとデッドヒートを繰り広げたのを知っていたから、今年は何だか味気ないレースだと思っていた。

そうしているうちにゲートが開いた。まず目に入ったのはグイグイと押して先頭に立った馬だった。

「なんて無茶なことをしているんだろう、あの馬。こんなに飛ばしたら、最後抜かされるよ」

その馬のことは知っている。あの小さなアイドルホースのメロディーレーンちゃんの弟だ。多分この時はそういうイメージの方が優っていたと思う。彼の馬券も買ったことはあったけれど、それは彼自身ではなく、メロディーレーンの弟だからという理由に過ぎなかった。

一周目のホームストレッチも先頭、第二コーナーを曲がっても先頭。でも流石にもうもたないだろう。後続の馬との差が縮まってきたからだ。後方で力を溜めていた馬に差されるに違いない。ぼんやりと眺めながらそう確信していた。最終コーナーを曲がるまでは。

「何だこれ!?」

後続の馬がぐいぐい押している。しかし、先頭を走る彼の手綱は、ほとんど動いていなかったのだ。
同時に信じられないことが起こった。差が、再び開いたのだ。

『後ろからオーソクレース、牝馬ディヴァインラヴもやってきた! 2着争いは接戦! しかし、差が詰まりません!』
『これは一頭ケタが違った! タイトルホルダー!』
『タイトルホルダー、阪神3000メートル一人旅!』

「化け物だ……」

圧倒されてしまった。主役が不在と言われていたはずの、菊花賞で。
そして、何故だかその時、涙が出てきた。その涙の理由は何だろう。

メロディーレーンちゃんの弟がG1馬になったから? それとも、この年に急逝したドゥラメンテが掴めなった菊のタイトルが獲れたから? 

それも理由ではある。けれど、私にとって最も大きな理由は、それではなかった。

当時、彼に騎乗していた横山武史騎手のインタビューに、その答えはあった。
うろ覚えだが、彼はこのようなことを言っていたように記憶している。

「ありがとうございます! この馬は真面目すぎるところがあるんです。(中略)馬の力を信じて走りました」

“真面目すぎる馬が、菊花賞を勝った“

その言葉を聞いた瞬間、私は両目からボロボロと涙をこぼした。

──認められた。

菊花賞は“最も強い馬が勝つ“と言われている。
その最も強い馬が、真面目すぎる彼であったのだ。

振り返れば、彼は前しか見ていなかった。ただゴールを目掛けて、ひたむきに、懸命に走っていた。それは、最も説得力のある事実であり、私を勇気づけた。

『君は、君のままでいいんだよ』と、言われた気がした。

その後、タイトルホルダーは2022年の天皇賞(春)を7馬身差で勝利、続く宝塚記念も勝利し、阪神三冠を達成した。凱旋門賞にも挑戦した。有馬記念は22世代のイクイノックスに屈してしまったが、翌年の日経賞で圧勝。彼はどんなレースで自分の走りを崩さなかった。先頭に立って、ひたむきに前を向いて走る。真面目すぎるとも言える走りに魅了されたファンもきっと多いだろう。

私も変わった。あの頃大嫌いで仕方がなかった“真面目“という言葉。その言葉は今では私の“誇り“だ。タイトルホルダーがそう“言って“くれたと思っているから。あの頃よりも、少しずつ前を向いて歩けるようになっていた。

……けれど、悲しい出来事が起こってしまった。

2023年、天皇賞(春)。
私はタイトルホルダーの連覇を信じ、期待していた。舞台が変わろうとあの強さを見せてくれるのだ、と。

しかし、最終直線に、彼の姿はなかった。
そして、各馬がゴール板を駆け抜けていく中、衝撃的な言葉が流れた。

「タイトルホルダーは、競走中止です!」

他にも、アフリカンゴールド、トーセンカンビーナがジョッキーが下馬し、競走を中止していた。

言葉が出なかった。いつものように走って、先頭を駆けてくる姿が観れると信じていたのに。姉のメロディーレーンと隣の枠になって、もしかしたら、もしかしたら、叩き合いをしてくれるかな──という夢すら、抱いていたのに。

どうしてこんな残酷な結果が準備されていたのだろうか。現地で見ていた競馬関連のフォロワーさん達が「競走を中止した3頭は自分で歩いているからとりあえずは大丈夫なのではないか」と、情報をくれた。でも、私は辛かった。辛くて泣くしかできなかった。その後、ゼッケンを外して、ジョッキーが寄り添っている彼の写真が流れてきた。それが目に入って何とも言えない気持ちになってまた涙が溢れた。

私は馬を見るプロではないから、些細な異変に気が付けないのは自覚している。
それでも後悔した。万全の状態じゃなかったかもしれないのに、期待を、夢を抱いてしまったことに。ごめんなさい、と何度も謝った。こんな私に応援されて、果たして彼は嬉しかったのだろうか…。

天皇賞(春)が終わった後、ツイッターに様々な声が流れてきた。
「タイトルホルダーにゆっくり休んでほしい」「どうかまた復活が見たい」そういう声がほとんどように思う。でも、誹謗中傷とも捉えられる言葉も飛び交っていたらしい。中でも、タイトルホルダーが競走を中止したのを他の馬のせいにしていたという話を聞いた時、言い表せないぐらいのショックを受けた。誰のせいでもないのに。タイトルホルダーだけではなく、あの天皇賞(春)に出走していた馬達はみんな一生懸命、夢に挑み、掴むために走っていたのに…。

その時、ふと、思い出した。

『だが…伝えるべきものは優れた血だけじゃない…競走馬の力を決めるのは血だけじゃないんだよ』
『オレはオレの競走馬としての意志というか、魂を伝えなきゃならないんだ』
『血だけじゃねえんだ!!!オレ達ターフで命を懸けている者にしかわからねえものがあるんだよ!!!』

──『みどりのマキバオー(集英社)』より引用

私の好きな漫画『みどりのマキバオー』に登場する主人公ミドリマキバオーの好敵手カスケードの言葉である。

ターフを駆ける人馬は命懸けで走っている。競馬に関わる人々も日々、命懸けで彼らと向き合い、寄り添い、レースに挑む。レースは魂のぶつかり合いだ。魂と魂がぶつかり合うからこそ、見る者の胸を打つのだ。

だから、その魂を私たちは大切にしなければならない。魂に貴賎などない。誰かの魂を持ち上げるために他の誰かの魂を貶めるのは、間違っている。賭け事の側面があったとしても、決して行ってはならない。どの馬も誰かの想いを、夢を乗せて、走っているのだから。

 『魂を伝えなきゃならないんだ』

私に出来ることはこれだ。

私は競走馬のようにターフ走ることはできない。けれど、こうして言葉を綴ることはできる。だから、私は、タイトルホルダーという競走馬が示してくれた魂を伝えたい。そんな想いで、このコラムを書いた。

どの馬に対しても言えることだろう。競馬ファン一人一人に好きな馬、思わず応援したくなる馬、人生を変えてくれた馬…そんな存在がいるはずだ。そして、馬たちは、彼らに様々な走りという言葉で“魂“を伝えてくれる存在だ。

競馬は時々残酷なことも起こるけれど、その事実に直面した時に、立ち直るには時間が掛かるかもしれないけれど、少しずつ前を向いていきたい。馬が、騎手が、携わっているホースマン達が伝えた魂が胸の中で燃え続けているのだから。

タイトルホルダーは私に伝えてくれた。“真面目“であることがいかに素敵なことか。だからこそ、私は私に宿ったこの魂を胸に生きていきたいと思う。彼が作ってくれた道を私も歩けば、きっと永遠に受け継がれていくだろう。

タイトルホルダー、貴方は私のヒーローです。

写真:ぉりゅぅ

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