競馬にはたくさんの“格言”があるが、そのなかにこんな言葉がある。
『ダービー馬は、ダービー馬から』
ダービーを制する馬のお父さんは、やはりダービーを勝っているというもの。それでこそ競馬は血統のスポーツだということを証明することができるのだ、と。
日本の競馬史を紐解くと、ダービーの父子制覇はこれまで10組以上ある。最も古いのはカブトヤマ・マツミドリの親子によるもので、令和になってからはディープインパクト・ロジャーバローズ親子が父子制覇を達成している。
一方で、騎手による親子ダービー制覇という記録もある。
日本競馬史上、最初の「騎手による父子ダービー制覇」は中島時一・啓之親子。父の時一さんは1937年のダービーをヒサトモで、子の啓之さんは1974年にコーネルランサーで、それぞれダービーを勝利している。偶然の一致なのかもしれないが、親子共々「31歳」という年齢で日本ダービーを制している。そして、父子は互いのダービー優勝を見ていない、という稀有な例でもある。父が制したときは啓之さんが生まれておらず、啓之さんが勝ったとき父はすでに他界していたのだ。そんな日本の競馬史にも残る、そして古くからの競馬ファンには記憶にも残る中島啓之騎手にスポットをあてて、話を書き進めていきたい。
1943年6月。
啓之さんは東京で生を受けたがその直後に父の故郷である、広島県高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に移り住むことになったのは、当時の時代背景が大きく影響していた。
父・時一さんは、戦争の影響で競馬から離れざるを得なかった。時一さんの主戦場は馬の背中ではなく、広島にある田んぼと畑に移っていた。
長男である啓之さんは、漠然としか父の元の職業を理解していなかったという。馬の背に乗って写真に納まる父の姿を見ながら、貧しい生活からの脱却を図ることばかりを考えていた。父の田畑を受け継いだところで当時の極貧生活が改善されるわけではないと悟った啓之さんは、父が馬に乗った写真をヒントにして、思い切った策を練る。
「騎手になりたい」
この時代の多くの騎手たちと、ほとんど同じ志望動機である「貧困からの脱出」を目指して、啓之さんは馬事公苑の門を叩いた。
長男でありながら父の田畑を継がずその土地を離れるということは、当時「恥ずかしい」ことでもあったのだが啓之さんはそれを百も承知で、上京して騎手を目指したのである。
おそらく今の時代なら、啓之さんは世間の注目を集めていただろう。
「父子二代ダービージョッキーを目指して」
などという記事が、新聞を賑わせていたかもしれない。けれど、啓之さんが騎手免許を取得した1960年代の日本の競馬は表舞台で取り上げられることも少なく、まだまだ陽の目を見ない時期だった。
そして、ごく僅かな人たちでしか盛り上がらない競馬の世界においても、啓之さんはとてもとても、地味な存在だった。
デビューから3年目の1965年。
ジンライという馬で東京アラブ障害特別を勝ったのが、彼の初重賞制覇。その翌年、キヨシゲルでクイーンステークスを制して平地重賞初制覇を飾った。
「中島啓之騎手」の名が一躍全国区になったのは1973年。ストロングエイトに騎乗して、ハイセイコーやタニノチカラといった有力馬を抑えて、10番人気ながら見事に有馬記念を制した時だった。
今でこそ、騎手が新聞や雑誌、テレビの前でにこやかにインタビューを受けるシーンが流されるのは当然のように感じるが、それは長い競馬の歴史における最近の出来事でしかない。昭和の競馬関係者は、それこそ貝のように口を閉ざしていたのだ。
けれど啓之さんは遅咲きの苦労人らしく、人情に厚く誰からも好かれるタイプだった。相手に対して気を遣ったり、マスコミ相手に真摯に対応したりと、その時代においては珍しいと言われるほど好人物と評されており、競馬サークル内では親しみを込めて『アンちゃん』と呼ばれていた。
そんな啓之さんの人柄を評価するオーナーも現れた。
トウショウの冠号を持ち、馬主協会会長も務めた藤田正明さんは同郷でもある啓之さんを大変かわいがったという。そして自分の持ち馬を優先的に啓之さんに乗せるようになったのだ。
啓之さんの騎手人生は、順風満帆に見えた。1974年には先述したコーネルランサーでダービー制覇、翌年にはコクサイプリンスで菊花賞を勝利。さらに1982年の皐月賞もアズマハンターで勝利を収め、史上11人目の「三冠ジョッキー」の称号も手にした。
そして1985年、啓之さんが懇意にしている奥平厩舎にメジロラモーヌが入厩。これまでメジロの馬は奥平厩舎に入ったことが無かったのだが、これは
「メジロのオーナーが中島の人柄に惹かれて、ラモーヌに乗せるためだ」
というのが、厩舎関係者の一致した意見だったというのだ。けれど、啓之さんがメジロラモーヌの背に乗ってレースに臨むことは一度も無かった。
その年の春、啓之さんの肝臓がガンに侵されていることが判明。とてもじゃないが、馬に乗れるような状況ではなかったのだ。それでも啓之さんは周りの人間にその事実を漏らすことなく、馬に乗り続けた。
この年の5月19日に行われたオークスでは、ナカミアンゼリカに騎乗し2着に導いた。その翌週。トライアルであるNHK杯(当時)を勝ったトウショウサミットとのコンビで臨むダービーのゲートが開いた。啓之さんとトウショウサミットは、他馬には目もくれず一目散に馬群の先頭に立って逃げたのだ。
人間は、いつか死期を迎える。
それが早いのか遅いのかは、人それぞれだけれど、必ずどこかで「死」というものと向き合わなければならないときがやって来る。きっと年齢や置かれた状況などで、考え方が変わるのだと私は思う。例えば、20代や30代前半では「怖い」と思う人が多いのではないだろうか。逆に、60歳を過ぎた年齢に差し掛かると「死」はもっと現実的な問題として自分に降り掛かってくるのだと思う。
一般的に、年齢が若ければ若いほど恐怖に感じ、年齢が上がれば上がるほど悠然と構えられるようになる気がする。そんな「死」に対して恐怖心を抱いている人に死期が迫ったとき。その恐怖から逃げるために、傍から見ると無謀に映るような振舞いをするのだと思う。
これは私の想像でしかないのだが、トウショウサミットと臨んだダービーのとき、啓之さんはすでに自分の死期がそう遠くは無いことを悟っていたのではないだろうか。どうしても、そのように感じて仕方が無い。
ダービーで7番人気という評価は、決して低いものだとは思わない。この年のダービーは26頭が出走していたのだから、人気は上から数えた方が早い。さらにトライアルレースを勝ってダービーに駒を進めているわけで、馬券を買う側からすれば充分に「勝負になる馬」という位置付けだったはずだ。
けれど、おそらく啓之さんの中では勝つことで記録に残るのではなく、印象深い走りをすることで多くの人の記憶に残ろうとしていたように、私には思えてならない。
なぜなら、このトウショウサミットのダービーの逃げは、悲壮感を感じるのだ。
私も競馬という種目を(過去のVTRを含めれば)何百何千という数を見てきた。そのなかでも、先頭に立って走る逃げ馬にシンパシーを感じて肩入れすることが多いのだが、この年のダービーのトウショウサミットの逃げほど「悲しげな走り」は、他に見たことが無い。おそらく啓之さんはダービーというレースで逃げるだけでなく、自分の心にある
【死への恐怖】
すらも振り切ろうとしていたような気がするのだ。
結果として、トウショウサミットは18着に惨敗を喫してしまうのだが、馬群を引き連れて先頭を走っていた2分弱の時間は、啓之さんが職業として長く居続けた馬の背の上で味わう、最後の至福のときだったのでは無いだろうか。
思い残すことが無くなったのか、啓之さんはこのダービーからわずか16日後に鬼籍に入ることになってしまう。まるで、年に一度のダービーという祭典が終わるのを待っていたかのように、天国へ召されてしまったのだ。
私が競馬を始めてから、自分なりに過去の競馬を学んでいた際に何度も彼の名前を目にした。
「トウショウの勝負服が、日本一似合う男」
「伝説の名ジョッキー」
「85年のダービーでの逃げは、語り草」
そんな文字を目にするたびに、私は『騎手・中島啓之』の騎乗がリアルタイムで見られなかったことが、とてもとても口惜しかった。
そしてまた新しく、ダービーの季節がやってくる。天国に居る競馬関係者と、ダービーについてあれやこれやと話が盛り上がっているに違いないと思う。奇しくも、これを書いている2020年の私は、啓之さんが亡くなった年齢と同じになった。
まだこちらの世界にしばらく居続けるであろう自分は
『かつて中島啓之という素晴らしいジョッキーが居たこと』
を語り継いでいきたいと思う。