「カツハルが乗ると、馬が楽しそうだよな」 - 田中勝春騎手引退によせて

「カツハルが乗ると、馬が楽しそうだよな」。

若い頃、ウインズ錦糸町の東館6階で福島競馬を観ていた私に60歳前後のベテランがそう話しかけてきた。

最近、競馬場でもウインズでも知らない人に話しかけられる機会は減った。自分が年齢を重ねたからだろうか。それとも時代へ変遷というものだろうか。私が若い頃、ウインズに行けば、ほぼ必ず誰かおじさんが話かけてきた。「今の何倍つくの?」と私のスポーツ紙をのぞき込むおじさんや積極的に自分の馬券を見せて、我流の馬券攻略法を滔々と語るその息から漏れる加齢臭は懐かしさすらある。自分の年をとり、吐く息に異臭を感じるようになった。そんな時の流れに抗うがごとく変わらない男がいる。それが田中勝春だ。もうすぐ調教師になる方に失礼にあたるかもしれないが、ここではあえて親しみを込めてカツハルと呼ぶ。

向こう流しで見つけられる男、田中勝春

カツハルは関東の馬券親父が愛してやまない騎手のひとりだ。勝って引き上げてくるときに見せる笑顔は何年経っても輝いている。「カッチースマイル」にオヤジどもはやられてきた。北海道の牧場で生まれ育ったカツハルは馬乗りが上手な騎手として知られている。冒頭のおじさんの発言はそんなカツハルの生い立ちに関係している。とにかく馬が嫌がらない。カツハルの競馬を観ていて思うことはこれだ。カツハルが乗ると、引っ掛かる馬がまずいない。折り合いとは人馬の間に生じる余裕が肝心だと勝手に解釈している。だが、馬に余裕があれば、それは闘争心を欠いて、進んでいかないことを意味する。大事なのは人間の余裕だろう。乗り手のゆとりが馬が伝わり、折り合いは成立する。抑えるのと折り合いは別物だ。

いまは抑え込む競馬が主流のようだが、カツハルは折り合える騎手のひとり。ゆとりをもって馬上にいるから、馬は安心する。カツハルが気分よく走らせるから、楽しそうに走る。向正面の馬群のなかで、カツハルはすぐに見つかる。少しだけ背を丸める独特のフォームは唯一無二。昔は新聞に目を落とさずとも、各騎手の位置取りが把握できた。個性の強い時代を生きた一人がカツハルだ。

折り合い名人カツハルは2023年12月17日終了時点で、JRA1810勝をあげた。
このうち重賞は51。GⅠは2。少ないと感じるかもしれないが、これもまた自然体のカツハルらしい。遮二無二に高みを目指していれば、どれほどの実績をあげられたか。だが、きっとそうなってしまえば、馬は楽しく走れない。カツハルの余裕は肩ひじ張らず、目の前のレースを満喫するから生まれる。そんなカツハルのGⅠ勝ち星は2つ。ヤマニンゼファーの安田記念は11番人気、ヴィクトリーの皐月賞は7番人気だった。
これもまた、カツハルらしい。

カツハルが伝えたヴィクトリーの余裕

15年ぶりのGⅠ制覇になった皐月賞はこれぞカツハルといった競馬だった。ヴィクトリーは1、2、1着と崩れず走り、皐月賞を迎えた。この戦歴で7番人気は冷静においしい馬券だ。しかし一方で、ヴィクトリーの成績の裏には気難しさが同居していた。グレースアドマイヤの血統はリンカーンなど能力は一級品も、気性のコントロールが難しい馬も多かった。ヴィクトリーも例外ではない。若葉Sでも折り合いを欠きながら勝利とGⅠ出走権獲得と同時に不安も残した。

アドマイヤオーラ、フサイチホウオー、ドリームジャーニーが三強を形成するなか、伏兵評価を脱せないヴィクトリーの背にはカツハルがいた。折り合い名人のカツハルに陣営が白羽の矢を立てたのは、いまにして思えば納得できる。前進気勢が強いヴィクトリーをなだめられ、中山競馬場を知り尽くした騎手となると、カツハルしかいない。レースは若武者松岡正海とサンツェッペリンが正面スタンド前で先手を主張して、幕を開けた。外枠のヴィクトリーは中団位置から進めるも、やはりスタンド前で歓声に反応し、行きたがる素振りを見せる。すると、カツハルは馬群に入れることなく、馬の行く気に任せ、外を進出させる。「行きたいんなら、行っちゃうか」これがカツハルの余裕だ。ヴィクトリーが燃え盛る前にその炎をそっと消してあげる。まるで蝋燭の火にそっと吹きかける吐息のような騎乗だった。

2コーナーで先頭を奪ったヴィクトリーは前を進む馬がいなくなったことで、ふと我に返ったようだった。カツハルの手綱から緊張は消え、リズムが生まれていく。行きたがるヴィクトリーを抑えることをあきらめたのか。後ろの騎手にはそのように映ったのか、残り600mを切るまで差を詰めてこない。直線に向くまで、カツハルの手綱は動いていないというのに。

カツハルの余裕はいつしかヴィクトリーの余裕にもなっていた。直線に向いてからカツハルがスパートを合図すると、食い下がるサンツェッペリンとの競り合いになる。この時点で、後ろは厳しかった。激しく追う松岡正海に負けずとファイトを促すカツハル。関東の手練れと若武者のぶつかり合いは、ハナ差、カツハルに軍配があがった。カツハルとヴィクトリーの余裕が成せる勝利だったといえる。

カツハルが騎手を辞める日がきた

カツハルはいつも、馬に安心を伝えて走らせる。それはきっと牧場育ちだからだろう。馬に安らぎを与える地で育ったカツハルに染みついたものがある。カツハルから感じる北海道の香りに馬は郷愁を感じるかもしれない。

2023年12月28日。カツハルは34年続けた騎手を辞める。長い間、関東の馬券オヤジたちを楽しませた男の最後はどんな形になるだろうか。カツハルらしい自然な別れを期待したくなる。そして、最後にもう一度、カッチ―スマイルが見たい。勝負の世界に34年も身を置いた男の最後の笑顔、その深みを味わってみたい。

カツハルは調教師になる。あれほど馬に安心を与えてきた男が管理する競走馬を見ることには、楽しみしかない。厩舎に漂う北海道の香りに馬たちは心底安らげるのではないか。

写真:かぼす

あなたにおすすめの記事