ダンツシアトルのレコードVにライスシャワーの悲劇…1995年宝塚記念が映した“時代の転換点”

1995年、「阪神淡路大震災」の影響で中止となった1月21、22日の京都開催の代替開催として、本来の開催予定日から一週前倒しの6月4日、限定的に京都競馬場で行われたこの年の宝塚記念。「震災復興支援競走」と冠されたレースは、米三冠を無敗で制したSeattle Slew産駒の外国産馬ダンツシアトルが、前走のGⅢ京阪杯を含むオープン競走3連勝での戴冠を果たした。

■個性的メンバーが集ったドリームレース

このレース、メンバーを見ても豪華というか実に煌びやか。
マイルや長距離戦線など各方面から集った非常に個性的な面々での争いとなった。

前走が安田記念のマイル路線組から、同レース3着の外国産馬タイキブリザード。1994年の3歳時に、ダート戦の新馬、500万下(現・1勝クラス)を連勝しオープン入りを果たす。すると毎日杯、ラジオたんぱ賞(現・ラジオNIKKEI賞)で重賞連続2着。古馬相手の函館記念2着などを経て、1995年は始動戦の谷川岳Sを完勝していた。

安田記念で最後方から一気の差し脚を発揮してハナ差の2着に好走したサクラチトセオーも出走馬に名を連ねていた。ビワハヤヒデ、ウイニングチケットなどと同世代のチトセオーは、父がトニービンで、共同通信杯4歳Sや産経賞オールカマーで2着に好走するなど活躍したサクラヤマトオーの半弟。完成途上のまだ緩い馬体ながら、ウイニングチケットが優勝したあの日本ダービーにも出走(11着)していた。長期休養を挟んで着実に力をつけていき、GⅡの中山記念、AJCC、GⅢの京王杯AHと3つの重賞タイトルを手に、GⅠ戦線の常連となり、この宝塚記念では単勝4.4倍の1番人気に支持された。

安田記念6着のネーハイシーザーは、すでに断然人気だった同期のビワハヤヒデらを向こうに回し、前年の天皇賞(秋)を押し切った実績馬。サクラトウコウ産駒の快速馬は、全盛期の勢いこそなかったものの、塩村克己騎手との黄金タッグで築いた5つの重賞勝ち鞍を携えての出走だった。

こちらも“BNW”と同期で、GⅡのNZT4歳Sやダート戦のGⅢ平安Sなど重賞3勝を挙げている芝&ダートの二刀流ホース、貴重なRelaunch産駒の持ち込み馬トーヨーリファールの姿もあった。

古豪のフジヤマケンザンも健在。二冠馬トウカイテイオーの世代で、デビュー5戦目となった菊花賞でレオダーバンの3着に好走していた“天才”。長らく主な勝ち鞍がGⅢの中日新聞杯、そのほかにOP競走3勝を挙げたのみで、オープン大将として君臨していた。しかし渋太く逞しく日進月歩の成長を遂げ、1994年末の香港国際Cでは4着に好走して、ひと皮剥けた姿を見せると、この年の中山記念では前記のサクラチトセオーらを退けて優勝を遂げていた。

また地方の笠松競馬からは、前年のテレビ愛知OPで優勝、オールカマーでは4着に健闘していたトミシノポルンガも出走。愛知競馬では、中京の芝コースでの開催も行われていた時代で、重賞・東海桜花賞を完勝して挑んだ同馬。後にJRAへ移籍が叶い、名手として名を馳せるアンカツこと安藤勝己騎手とのコンビでの挑戦だった。

長距離界きってのステイヤーたちも数多く名乗りを上げた。1994年の日本ダービー2着馬にして、菊花賞3着馬のエアダブリン。ステイヤーズS、ダイヤモンドSと長距離のGⅢを連勝し、天皇賞(春)でも1番人気(5着)に支持されたほどの名ステイヤーだ。

GⅡで2着2回、3着3回、GⅢで2着1回と勝ち切れないながらも、あらゆる距離で好走を繰り返していた良血馬のダンシングサーパスや、1992、93年にステイヤーズS連覇を果たし、前年の2着馬アイルトンシンボリ、目黒記念の覇者ハギノリアルキングに加え、前年のオークス馬チョウカイキャロルなども参戦していた。

■前有利の高速馬場での日本レコード決着

稍重の馬場状態ながら、2開催空いた京都競馬場の芝コースは良好だった。レースは、単勝134.9倍でシンガリ17番人気のトーヨーリファールが逃げ、グレイハウンド犬のようにクビの低い姿勢で、掛かり気味に走る5番人気のタイキブリザードが2番手をキープ。その後を5.1倍の2番人気に推されたダンツシアトルが最内から追う展開となった。

直線では内から脚を伸ばして抜け出したダンツシアトルが、粘走するタイキブリザードらの追撃をクビ差で振り切ってGⅠ初制覇。道中5番手付近を進んでいたエアダブリンや、10番手追走のアイルトンシンボリが差し脚を伸ばしてそれぞれ3、5着に食い込んだものの、前々での決着は2分10秒2の日本レコード。

Seattle Slew産駒のワンツーフィニッシュとなった。後方に構えたサクラチトセオーは、最後方を追走したハギノリアルキング(9着)に次ぐ、上がり3ハロン2位の差し脚で追い込むも、7着までが精いっぱい。ミドルペースで逃げたトーヨーリファールは優勝馬ダンツシアトルから0.4秒差の4着に粘り通した。

■京都に散ったライスシャワーの悲劇と飛躍の糧にした面々

レース終盤では目を覆いたくなるような痛ましい事故が起こった。淀の3コーナーから4コーナーに向かう下り坂で、ファン投票1位で選出され、単勝6.0倍の3番人気に推されていたライスシャワーが故障を発症。左第1指関節の開放脱臼により、テレビ中継の画面上でも捉えられることになる、ガクンと崩れるようにした落馬事故。競走を中止した痛々しい姿は、GⅠの競馬史を振り返ってもたいへんショッキングなシーンであった。その場で安楽死の処置が施された悪夢は、競馬の華やかさの裏側にある一種の残酷さと冷酷さを醸し出した。このレースを見て、競馬から離れたファンも多くいたということも耳にする。

ライスシャワーは、ここまでミホノブルボンの三冠や、メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を最後の最後で阻むなど、“黒い刺客”として名を轟かせてきた。しかし、非業の死を遂げたのは、GⅠ・3勝すべての勝ち星を挙げた京都競馬場であったことは何と言うべきなのか、言葉がない。そして燦然たる実績を残したライスシャワーの功績を称え、同競馬場には記念碑が建てられ、淀の守り神となって永眠している。

そして、脂が乗り切って飛ぶ鳥を落とす勢いだった好敵手ビワハヤヒデの2着に敗れた1994年の天皇賞(春)から約1年1カ月ぶりに復帰を果たした1993年の皐月賞馬ナリタタイシンは、後方から伸び切れず16着に敗れた後、屈腱炎を発症し引退。“BNW”唯一の現役馬が退いたことで、一時代の終わりを告げた。

また一方で、この宝塚記念での敗戦を糧に飛躍していく馬も多数いた。2着のタイキブリザードは、2年後に安田記念をV。サクラチトセオーは、秋の天皇賞を制するなど躍進を遂げる。11着のフジヤマケンザンは、1カ月後の七夕賞、秋の富士S、前年から国際GⅡに昇格した香港国際C優勝の歴史的快挙を達成。翌年も金鯱賞を制すことになる。1995年のこの年、中央と地方との交流元年とも重なった競馬界は、あらゆる面で新時代に突入していくこととなった。

写真:かず

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