アン、ドゥ、トロワゼトワル - 夏の残り香、微笑むような一番星

夏の終わりに、まばゆい光を残した1頭の牝馬

夏の風物詩といえば、何が思い浮かぶだろうか。

競馬ファンなら札幌記念やアイビスSD、あるいはそれらを含めたローカル開催時のグルメ巡りなどを真っ先に思い浮かべる人もいるかもしれない。

では、競馬を少し離れた夏の思い出なら、どうだろう。

夏祭りに線香花火、海水浴やプール、宿題に追われる夏休み、あるいは陽炎の中で悪戯っぽく微笑んでいた友達の面影…。

私の記憶の片隅には、幼い頃に連れて行ってもらった山奥のキャンプ場がある。

街の喧騒とは縁遠い山の奥深く、深夜にふと目が覚めてバンガローを抜け出したときに見上げた、あの星空。吸い込まれそうな暗闇の中で、やけに眩しく輝いていた星々を前に、まるで世界の時間が全て止まったかのような錯覚を得たのを覚えている。その中でも「夏の大三角」を形作るベガ、デネブ、アルタイルの強い輝きは、子ども心に強く焼き付いて離れなかった。

三つの星──

星空を見上げるたび、私はかつてターフを疾走した1頭の牝馬を思い出す。馬名に、フランス語で「三ツ星」の意味を冠された競走馬。

夏の終わりに強烈な輝きを残した一番星をトロワゼトワルという。

夏の始まり - まだあどけない君を見つけて

2017年、本格的に夏が始まろうとしていた7月上旬の中京で、彼女はターフに姿を現した。

まだあどけなさが残る2歳の牝馬は、先頭から2番手でレースを進め、最後の直線で前を捉えると、後続に迫られるもののクビ差を凌いでゴールイン。目が覚めるような末脚や後続を何馬身も突き放すような派手さはなくとも、無事にデビュー戦を勝利で飾った。

その後、アルテミスSは4着、フェアリーSは5着と続き、世代戦ではどうも善戦マンという印象が強かった。しかし、ある時は先行し、またある時は追い込み、東京に中山、京都、阪神と競馬場を転戦しながらも掲示板には確実に馬番を載せてくる彼女の走りには不思議な魅力があった。

誰もが知る一等星のような爛々とした輝きではない。それは、煌めく星々の一つにあって、どこか健気でつい追ってしまう、そんな素朴で愛おしい輝きを持った馬だった。

冬が過ぎて、芽吹きの季節

2019年、4歳の春。

トロワゼトワル陣営は、デビュー戦以来に中京競馬場でのレースとなる賢島特別を選択する。この時点でのキャリアは10戦2勝。まだ一度も掲示板を外したことがないトロワゼトワルは、2番人気に支持されていた。結果は快勝。逃げた2着のメイショウモウコを捉えると、そのまま突き放してゴールインという強い勝ち方だった。

その後の活躍は目覚ましく、昇級初戦の春興Sでは2着と好走。続く豊明Sを勝ち、ついにオープン入りを果たす。もちろん、これからの相手はさらに強くなるだろう。それでも、彼女らしい懸命な走りで見せ所を作り、もしかすると重賞を勝つような姿を見られる日が来るかもしれないと淡い期待を抱いていた。

だが、そんなささやかな愛おしさを覚えるファンを置き去りにするように、彼女は想像を遥かに超えた輝きを放つことになる。

一ツ星 - 夏の終わりに刻みつけた衝撃

夏の終わりと秋の訪れを感じさせるハンデ戦、京成杯AH。

オープンクラスでの実績に乏しいトロワゼトワルの負担重量は52キロだった。最軽量ハンデに加えて開幕週の良馬場、鞍上は逃げの戦術に定評がある横山典弘騎手。今思い返せば、天地人の全てが揃っていたのだと思う。

スタートから果敢にハナを主張したトロワゼトワルは、最初の600mを33.3秒というハイペースで逃げる。そして、そのまま2番手を5馬身、6馬身と引き離して3、4コーナー中間へ。逃げて競馬をするのはキャリア初のはず、しかし、到底そのようには思えないほどに、優雅で軽やかに彼女はターフを駆けていた。そして、その軽やかさは直線でも変わらない。

「さぁ、捕まえられるものなら、捕まえてごらん」

そのような声が聞こえてきそうな気がした。そして、彼女はセーフティーリードを保ったまま中山の坂を駆け上がり、後続に3馬身以上の差をつけて決勝線を通過する。

掲示板に映し出されたのはレコードの赤い文字と1分30秒3の勝ち時計。その数字は、世界レコードだった。つまり、彼女は古今東西のあらゆる競走馬の中で、最も早く芝1600mを駆け抜けたのだ。

アン──

トロワゼトワルが掴み取った1つ目となる重賞での勝ち星。それは、夏の終わりの中山に衝撃的な印象を残すものとなった。

掴みどころのない君に魅せられて

重賞勝ち馬となったトロワゼトワルだったが、年末のターコイズSでは2番手追走からの16着。翌年4月の阪神牝馬Sでは逃げて15着となった。そんな大敗が続く中、ヴィクトリアマイルでGⅠ初出走を迎える。

出走メンバーには、ラヴズオンリーユーやダノンファンタジー、前年の覇者でもあるノームコアといったGⅠ馬の他、前年2着のプリモシーン、重賞3連勝中のサウンドキアラという豪華な顔ぶれが名を連ねていた。

そのような強豪ひしめく中で単勝1.4倍という圧倒的な支持を得ていたのは、アーモンドアイだった。トロワゼトワルと同じロードカナロアの初年度産駒にして、このときすでにGⅠを6勝。当時の日本競馬を牽引する…まさに一等星の輝きを放つ絶対女王だ。一方でトロワゼトワルは、相手関係が強化されたことに加え、直近2走の大敗も響いたのか12番人気にとどまっていた。

レースが始まると、京成杯AHでの走りを彷彿させるような逃げを披露し、残り200m地点でアーモンドアイにこそ交わされるものの、後続に対してはしぶとく粘って4着入線。GⅠという大舞台であることやメンバーレベルを考慮すると、「やはり、レコードホルダーの実力は健在だった」と思わせるには十分な活躍だった。

その後、中京記念ではヴィクトリアマイルでの好走が評価されたのか4番人気という支持を集めたものの、結果は17着。続く関屋記念では、前走の大敗もあって8番人気まで評価を落としたが、果敢に逃げて最後まで粘り込みサトノアーサーの2着と奮闘してみせる。

この頃にはもう「トロワゼトワルといえば逃げ馬」というイメージがすっかり定着していた。そして、逃げる競馬をするようになってからを振り返ると見えてくるのは、大敗と好走を繰り返す極端な戦績。しかし、あの堅実でつい応援したくなるような走りとはまた少しニュアンスの違う魅力……次はどのような走りを見せてくれるのかと、ファンの心をどこまでも惑わせる唯一無二の輝きがそこにはあった。

やがて、2020年の夏にも終わりがやってくる。そう、トロワゼトワルが世界の誰よりも早く駆け抜けたあの京成杯AHから丸1年が経とうとしていた。

二ツ星 - 悪戯っぽく微笑むように

2020年、京成杯AH。

トロワゼトワルを取り巻く状況は、世界レコードを更新した前年とは異なるものだった。

まず負担重量は、最軽量52キロから重賞勝ち馬に相応しい55キロへ。次に馬場状態。良馬場の発表ではあるものの前日の雨の影響が残っているのか、前年ほど時計の出ないタフなコンディションとなっていた。そして、他陣営からの視線。これは推測の域を出ないが、比較的にノーマークだった前年と違い「警戒すべき逃げ馬」としてマークされることが考えられた。一方で、前年と変わらないものもある。それは、5枠10番という枠順と鞍上の横山典騎手だ。

1年の時を経て、変わったものと変わらないもの。その全てを背負って、レースの火蓋が切られる。

まずハナを奪ったのは、トロワゼトワルではなくスマイルカナだった。スマイルカナはすでにフェアリーSを制している重賞勝ち馬であり、前々走の桜花賞でも逃げ粘って3着という実績を持っている実力者だ。そして、最軽量52キロで逃げの手に出た姿は、まるで前年のトロワゼトワルと重なるものがあった。それに対して、トロワゼトワルも追いかけるように2番手につけるが、決して競りかけるようなことはなく冷静に前を見据えるような競馬をする。

迎えた直線、トロワゼトワルは先頭に競りかけようとするが、スマイルカナは逃げた分のリードが無くなる前に再スパートをかけ、なかなかその差を縮ませない。さらには、外からはボンセルヴィーソが追い上げてくる展開となった。

そして、3頭の混戦のまま決勝線が迫ってきたそのとき…。

「ふふ、去年の私と同じ戦法だったみたいだけど、悪いね」

人馬ともに必死の攻防であることは分かっているつもりだった。けれど、ゴール直前でちょこんと顔を覗かせ、ハナ差だけ交わした彼女の姿には、どこかそんな言葉が重なって見えた。意地悪さなど微塵もない、ただ、悪戯っぽく微笑むような声とともに。

ドゥ──

前年の自分自身を越えていくように、トロワゼトワルは2つ目となる重賞での勝ち星を手にしたのだ。

夏の続きは、未来に託して

京成杯AHの連覇を達成したトロワゼトワル陣営は、次走に府中牝馬Sを選択する。ここでも、彼女は逃げ粘った末に4着と奮闘。続くターコイズSでは、16着の大敗を喫する。このときの勝ち馬は、かつて京成杯AHで共に火花を散らしたスマイルカナであった。そして、このレースを最後にトロワゼトワルは引退することになる。

夏の終わりに衝撃的な世界レコードを残し、好走と大敗を繰り返しながらも魅力的な逃げでファンを魅了した1頭の牝馬。彼女は、その馬名が意味する「三ツ星」には1つ足りない重賞2勝でターフを去った。夏の続きは、まだお預けということなのだろう。

トロワゼトワル──3つ目の星は、次の世代にとっておくよ。

写真:横山チリ子、みき

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