「大外から何か1頭突っ込んでくる!」

数々の名実況を生み出してきた、杉本清アナウンサーが叫ぶ。

「トップガンきた!トップガンきた!トップガンきた!」

観衆が沸いた。叫び声や声援が膨れ上がる。

大外から、栗毛の馬体が猛然と追い込んできた。

「さあ差し切るか、やっぱり三強の争いか!?」

実況の名手の声すらもはっきり聞こえなくなるほど、観客のボルテージは最高潮に達していた。

競馬場も、ウインズも、お茶の間も──全国の競馬ファンが湧き立つ。

第115回天皇賞(春)の最後の直線。

先頭では、早めに抜け出した2頭が激しい叩き合いを繰り広げていた。

昨年の覇者で、前走有馬記念1着、骨折休養明けのサクラローレル。

G1勝ちこそないものの、前走大阪杯(GⅡ)では見事1番人気に応えたマーベラスサンデー。

実況が耳に届かなかった人は、この2頭で決着するかと思ったかもしれない。

しかし、忘れてはならないことがある。

1997年天皇賞(春)は「三強対決」と言われていたレースだったということだ。

サクラローレルとマーベラスサンデーと、もう1頭。

その「もう1頭」こそが、最後の直線で強襲を見せる栗毛の馬──マヤノトップガンだった。

マヤノトップガンは大外から弾丸のように飛んでくると、競り合うサクラローレルとマーベラスサンデーの2頭をスッと追い抜き、1着でゴールした。

競馬を長く応援していると、忘れられないレース、というのがある。

大逃げ、大外一気、大接戦──。

誰が見ても「すごい」と思うようなパフォーマンスは、人々の心に残っているものだ。

1997年、マヤノトップガンが勝利した天皇賞(春)のゴール前強襲も、そんな忘れられない名シーンのひとつ。

名勝負として心に刻まれた人は多いだろう。

その力強い末脚に、感動で身震いする。

何度でも見返したい、気持ち良さすら感じられるゴールシーン。

まさに、日本競馬史に残る瞬間だ。

そんな名勝負を演じたマヤノトップガンが、2019年11月3日、その生涯に幕を下ろした。

27歳──高齢による老衰だったという。

マヤノトップガンは1992年3月24日、北海道の新冠町でこの世に生を受けた。

父ブライアンズタイム、母アルプミープリーズ、母の父Blushing Groomという血統だ。

当時、ブライアンズタイム産駒はナリタブライアンを輩出した直後。新進気鋭の種牡馬が父とあって、マヤノトップガンも期待されつつ成長を遂げた。

しかし、体質があまり強くないこともあり、デビューは3歳になった1995年1月と、同世代の中ではゆっくりとした滑り出しとなった。

人目をひくほど筋肉質な馬体のインパクトからか、当初はダートの短距離を使われていたマヤノトップガン。

3歳5月末までの戦績は、7戦して2勝3着4回5着1回と、掲示板は外さないもののレースではイマイチ決め手に欠けていた印象のある馬だった。

しかし5月末にダート500万下を勝利して以降、芝路線に転向することに。同じく鞍上も、5月以降は田原騎手に固定となった。

それらの挑戦が大当たりし、マヤノトップガンの才能は開花する。

3歳秋、神戸新聞杯・京都新聞杯をともに2着となったマヤノトップガンは、菊花賞に挑む。

この年の菊花賞は皐月賞馬ジェニュインが回避、ダービー馬タヤスツヨシも出走していたが、牝馬ダンスパートナーが1番人気。

上位6頭が単勝オッズ10倍を切り、重賞勝ちのないマヤノトップガンが3番人気という混戦模様だった。

スタートから好位につけたマヤノトップガンは、道中は折り合いをつけ、粛々と抜け出しの機会を狙う。

動いたのは、3コーナー。

徐々に押し上げていき、最後の直線に向いたときには堂々先頭に立つ。

トウカイパレス、ホッカイルソーらが迫り、大外からはダンスパートナーも脚を伸ばすが、マヤノトップガンがそのまま後続を引き連れ、1着でゴール板を駆け抜けた。

デビューは遅くとも、クラシック最後の一冠を獲得したマヤノトップガン。

次走は古馬の一線級との対決として、有馬記念に定めた。

有馬記念では12頭立ての6番人気と、菊花賞馬としては評価はそれほど高くなかった。

1番人気はヒシアマゾンで、2番人気以降もナリタブライアンやジェニュインなど、年末の大一番として名馬が集結。まだG1を1勝したばかりのマヤノトップガンがその評価となったのも頷ける。

しかし蓋を開けてみれば、なんと、マヤノトップガンの逃げ切り勝ち。3歳馬の大金星で、暮れのグランプリは終幕を迎えた。

スタートから先手をとったマヤノトップガンに、ヒシアマゾンもナリタブライアンも、とうとう最後まで届かなかった。

鞍上の田原騎手はゴール後にテレビカメラに向かって投げキッスをしてみせ、勝利を噛み締めた。

この勝利で、マヤノトップガンは1995年の年度代表馬、最優秀3歳牡馬に選出。

マヤノトップガンにとっては、全てが自身のデビューした年に起きた出来事である。

夏まで全くの無名だったはずの馬が、秋冬の大躍進でなんと年度代表馬まで上り詰めたのだった。

さらには翌年の夏、宝塚記念を制覇したマヤノトップガンは、現役馬最強クラスという立場を揺るぎないものとした。

マヤノトップガンの名勝負と言えば冒頭の天皇賞(春)と、1996年阪神大賞典を挙げる人は少なくないだろう。

そう、ナリタブライアンが復活を遂げた、あのレースである。

1995年年度代表馬、マヤノトップガン。

1994年年度代表馬、ナリタブライアン。

同じブライアンズタイム産駒であり、同じ年度代表馬。共通項の多い2頭の対決に、阪神競馬場には6万を超す競馬ファンが詰め掛けていた。

ファンファーレが鳴り、盛大な歓声の中、ゲートが開く。

レースは終始、ゆったりとした落ち着いたペースで進んでいた。

4番手にマヤノトップガン。それをマークするように、直後にナリタブライアン。

そしてついに、ラストの3コーナーを回りながら、マヤノトップガンが動く。

呼応するように、ナリタブライアンも上がっていく。

そこからは、もう、2頭のマッチレースだった。

内、マヤノトップガン。

外、ナリタブライアン。

お互い一歩も譲らない、永遠とも思えた、息が詰まるようなあの直線。

2頭の強豪馬が、しのぎを削る。

濃密な時間が競馬場全体を包み込む。

ナリタブライアンか、マヤノトップガンか。

マヤノトップガンか、ナリタブライアンか。

最後は、ナリタブライアンがアタマ差だけ前に出ていた。

マヤノトップガンは惜しくも2着に敗れ、ナリタブライアン復活の立役者となった。

しかしあの壮絶な追い比べは、紛れも無い名勝負。3着以下につけた差は9馬身だった。

2着に敗れたとはいえ、マヤノトップガンの誇る名勝負のひとつだったと言えるだろう。

マヤノトップガンの勝利したG1で、彼の脚質を見返すと、まさに変幻自在の脚質だったことがわかる。

好位より抜け出し、悠々とゴールをした菊花賞。

逃げ戦法で、最後まで先頭で駆け抜けた有馬記念。

4角先頭、正攻法の競馬で勝利をあげた宝塚記念。

前を行く2頭へ、大外から一気に襲いかかった天皇賞(春)。

この自在な脚質こそ、マヤノトップガンの代名詞とも言える。

しかし、何でもこなせたというよりは、気性が良くなく掛かり癖もあったため、鞍上がその時々での最適解を選択してきた結果なのだろう。

それだけパートナーである田原成貴騎手も苦労した、乗り難しい馬だったということなのかもしれない。

生涯戦績は27戦8勝。

掲示板を外したのは一度のみという、堅実な走りだったマヤノトップガン。

冒頭の天皇賞(春)を勝利したのち屈腱炎を発症し、残念ながら引退の運びとなった。

引退後は種牡馬として優駿スタリオンステーションに供用され、種牡馬引退後も功労馬として余生を過ごしていた。

ナリタブライアンは1998年没。

天皇賞(春)で三強対決となったマーベラスサンデーは2016年にこの世を去っている。有馬記念で激突したヒシアマゾンは、マヤノトップガンより一足早く2019年4月に亡くなった。

マヤノトップガンの27歳というのは、大往生と呼べるのかもしれない。遅咲きの名馬が、早逝したライバルたちの元へと向かったようにも思えてならない。

マヤノトップガンの見せてくれた「すごいレース」は、これからも語り継がれることだろう。

ナリタブライアン、サクラローレル、マーベラスサンデーといった並み居るライバルの存在が、マヤノトップガンの競馬を更に「すごい」ものにしていることも忘れてはならない。そしてまた、マヤノトップガンも彼らの競馬を「すごい」ものにしたのだ。

競馬は1頭だけでは成り立たない。

勝つことだけが競馬ではない。

だからこそ、当時の競馬を面白くしてくれたマヤノトップガンへ、最大級の「ありがとう」を。

変幻自在なその走りは、いつまでも私たちの記憶の中で、光り輝いている。

写真:かず

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