[連載・馬主は語る]母ととねっ子(シーズン2-40)

ラーメン店・寳龍(ほうりゅう)を後にして、僕たちはダートムーア親子のもとへと向かいました。この時期の日高地方は一面銀世界で、どこまでが道路でどこからが牧場なのか分からないようなところを通って、自分たちの牧場を目指します。ようやく碧雲牧場の紺碧(こんぺき)の看板が見えてきました。実を言うと、僕にとって真冬の牧場は初めての風景です。春夏秋は訪れたことはありましたが、真冬の日高には来たことがなかったのです。

厩舎を訪れる前に、一旦、挨拶をしに長谷川邸の中に入ると、お母さまがいらっしゃいました。いつも同じように迎えてくれて安心します。どんなに厳しい時代でもお父さんを支えてきた、碧雲牧場にとっての影の立役者です。そういえば、先日フェブラリーステークスの日に小桧山調教師にお会いして話したとき―彼も碧雲牧場との付き合いは長いのですが―、お母さまはかつて女優だったという話を教えてくれました。初耳でしたが、「やっぱりそうでしたか」と僕は腑に落ちたようも感じました。というのも、初めてお会いしたときから、普通の人とは少し違った雰囲気を身にまとっていたからです。自慢ではありませんが、僕の母も若かりし頃の写真を見るとなかなかの美人ですが、うちの母以上に美しいのです。身と心が一致した美しさというべきか、たとえ年齢を重ねても、変わらない美しさが凛としてそこにあるのです。

ここ最近、長谷川家の犬たちは年を取ったのか、昔のように手荒なお出迎えはなくなり、拍子抜けしてしまいます。コーヒーを淹れてもらいつつ、厩舎の様子が映し出されるモニターでひと足先にダートムーア親子を見てみると、いました、大きな影と小さな影が。お母さんの影に隠れて、仔馬がお乳を飲んでいるのが分かります。

「ダートムーアは良いお母さんですよ」とお母さんがおっしゃいました。モニター越しにも、ダートムーアが仔馬のことを気遣っている様子が伝わってきます。鼻先で仔馬を触ってみたり、仔馬がおっぱいを飲んでいるときは微動だにせず静かに立ち止まっています。仔馬は母が動くとお乳が飲みにくいですし、中にはお乳を吸われるのを嫌がって逃げるお母さんもいるとのこと。特に初めて子どもを産むお母さん馬は、しばらくは子どもの世話をしなかったり、育児拒否をしたりする馬もいるそうです。ダートムーアはもう母としてもベテランであり、我が子を愛しんでくれているようで安心しました。

しばらくして、下村獣医師が到着したので、僕と慈さんと3人でいざダートムーア親子に会いに行くことにしました。彼らにとってはサラブレッドのお産は日常のひとコマですが、僕にとっては全てが初めての経験です。どんな顔をしてダートムーアに会ったら良いのかさえ分からないまま、馬房の扉が開けられました。見知らぬ人間が2名現れて、ダートムーアは少し驚き、とねっ子は怯えているように感じました。「お疲れさま。ありがとうね」と声を掛けながら額を撫でると、誇らしげなのか、気が立っているのか、ダートムーアは頭を振って僕の手を払いのけようとします。そして、慈さんがとねっ子を触ろうとすると、ダートムーアは心配そうに見つめています。僕も恐る恐る触ってみると、とねっ子はビクッと体を震わせました。人間にも慣れさせるために、小さい頃からドンドン触った方が良いと知っていても、怖がっているとねっ子を見ると躊躇してしまいます。

慈さんの妻である理恵さんも駆けつけてくれました。彼女はいつ会っても自然体で、明るく、あっけらかんとしています。北海道の大地に根を張った、しなやかな強さを感じさせてくれるのです。ダートムーアが馬房の中にいると、どうしてもとねっ子はお母さんの影に隠れてしまい、お母さんも子どもを守ろうとしてしまうので、ダートムーアを馬房に残し、とねっ子だけを馬房の外に出すことにしました。僕ももう一度勇気を出して、とねっ子を前後から抱えてみることにしました。左手をお尻に、右手は首のところに当てます。そうすると、とねっ子も逃げようとして、前後に動きます。そのときの力が僕の手に伝わり、とても昨日この世に生を受けたとは思えない、生命の強さを感じました。

私は新生子が起立する時に補助をするため彼等を抱き上げますが、新生子の出来は見て判断するものと、抱いて感じるものとに分かれると考えています。良いと思う当歳に共通して言えることは抱いて体躯の出来を判断する時に、絞られる前の果実や、焼き上げ前の膨らませる行程にあるパンのようものを想像できるかどうかではないかと思います。

──「ROUNDERS」vol.4 「馬を観る 当歳から1歳馬までのサラブレッド種の評価方法」吉田直哉著 より引用

あまりに恐る恐る抱えたので、ウィンチェスターファームの吉田直哉さんのおっしゃるように、絞られる前の果実や焼き上げ前の膨らませる行程にあるパンを想像する余裕はありませんでしたが、「飛節が大きくていいですね!」、「お世辞じゃなくて、ほんとうに大きくて力強いですよ」と下村獣医師は言ってくれました。馬の肢の長さやつくりは、大きくなってもそれほど変わらないとのことで、たしかに昨日生まれたとねっ子の肢の長さとダートムーアのそれはあまり違いません。成長するにつれて、肢以外のパーツが大きくなっていくのです。

だからこそ、生後まもなくの肢の長さや骨の太さ、構造は、将来の姿を見据える上でも重要になるとのこと。僕は生まれたばかりの仔馬を間近で見た経験がないので、この子の肢を見ても良いかどうか判断はつきませんが、たくさんのとねっ子を見てきた下村獣医師がそういうのだから、そのまま受け取ることにしました。たしかにそう言われてから見てみると、実に太くてしっかりとした飛節です。この飛節が走るパワーを生み出すのですね。

そろそろ親子ふたりきりにしてあげようということで、僕たちの面会は終わりました。扉が閉められ、ダートムーアもとねっ子も安心したことでしょう。しばらくは二人の安心した世界を楽しんでもらいたいものです。サラブレッドの親子が一緒にいられる時間は、人間の親子のそれと比べて極めて短いのですから。ダートムーアに漲る母性本能をじかに感じ、とねっ子が母を頼る仕草を見て、サラブレッドをつくりだした人間のエゴは罪深いなと僕は思ってしまいました。せめて今だけは、せめて今だけは、そう繰り返しながら、僕は馬房を立ち去りました。

(次回へ続く→)

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