[連載・馬主は語る]悪夢の始まり(シーズン3-2)

翌日、整形外科に行ってレントゲン撮影をしてみると、やはり足の骨が折れていました。あのときに聞いた、パキっ! という音は幻聴ではなかったと妙に安心しつつ、生まれて初めての骨折に心の底ではショックを受けてしまいました。小さい頃は捻挫しても大したことにならなかったのに、まさか骨折するまでとは…。

人生の悲哀を浮かべた僕の表情など全く気にすることなく、「手術してボルトで固定しますか?それとも保存療法にして様子を見ますか?」と医師は話を進めます。おいおい、捻挫して骨折で手術って、大げさじゃない?足にボルトって、俺はヤマニングローバルかよ!とオールド競馬ファンにしか分からないツッコミを心の中で入れつつ、「保存療法でお願いします」と即答しました。

競馬の世界でも良く聞く保存療法とは、つまり何もせずに放っておくということです。もちろんギブスで固定して、なるべく負荷をかけないように努めるのですが、基本的には時間の経過と治癒力に任せるという方法です。「もしそれでも骨が付かなかった場合は、手術するしかないかもしれません」と言われ、背筋が凍る思いがしました。結局、手術するしかなくなるのであれば最初からしておけば良かったなんてことにならないように、まずは安静が第一です。とはいえ、どうしても仕事や日常生活で足を使わないわけにはいきません。いつしか自然とギブスを外して歩くことが多くなり、(真っすぐ歩く分にはそれほど痛みはないため)患側の左足を引きずりながらですが、普段の2倍以上の時間をかけて移動する毎日が続きました。

病院で勧められた超音波治療(患部に超音波を当てるだけ)をして、さらに酸素カプセルにも入ってみました。酸素カプセルは、怪我の回復を早めるとされており、できることは何でもしてみよう精神で試してみました。酸素カプセルに入ると、次第に気圧が高くなっていくので、耳がキーンとなります。飛行機や高層ビルのエレベーターに乗ったときのあの感じです。そこで唾を飲んで耳を通す耳抜きをします。僕は耳抜きも上手くできて、最後は少し眠ってしまうぐらいリラックスしてカプセルの中で過ごせました。目に見えて効果が感じられるわけではありませんでしたが(何回か通っていると効果が分かるそうです)、酸素が体中に行き渡って、骨がくっつく様子をイメージしてみました。ここまでくると、神頼みというか、溺れる者は藁をもつかむです。

怪我や病気をして不自由な生活を強いられると、精神的にも鬱屈としてきます。たまには不自由を味わってみるのも良いと自分を慰めてみるのですが、何をするにも足を気にしなければならず、思うように動けず時間が掛かってしまう現実を目の当たりにすると苛立ちを覚えます。高齢の方々が怒りっぽくなる気持ちも分かりますね。足が治ったら今までどおりの踏み込みで歩けるという希望は、骨がくっつかなかったらどうしようという不安に押しつぶされてしまいそうです。

そんな鬱屈とした中、牧場からの請求書が届きました。請求書は4枚に分かれています。ダートムーアのもの、ダートムーアの仔のもの、スパツィアーレのもの、スパツィアーレの仔のもの。2頭の仔馬が生まれ、家族が一気に増えた気がしましたが、その分、お金がかかるという現実を突きつけられました。仔馬たちの分、預託料が増え、昨年からルーサンというたんぱく質やカルシウム、ミネラルの豊富な牧草を入れてもらっている関係でプラス1万円に加え、仔馬たちの治療費なども乗ってきます。

たとえば、ダートムーアの仔が立ち上がる際に膝を擦りむいてしまった箇所の治療として12,870円、スパツィアーレの仔のお腹が擦りむけて、そこから体液が漏れてしまう箇所の治療に23,210円、さらにはスパツィアーレがお腹が痛くて診てもらったときの治療費が14,124円です。先月、治療費がかからなかったのはダートムーアのみ。細かい出費も、4頭分を併せてみると、ボディーブローのように僕の懐を削ってきます。

追い打ちをかけるように、保険金の話が出てきます。当歳馬に保険金をかけるかどうか、いくらかけるのかという問題です。2種類提示された中で、僕はサラブレッド・ブリーダーズ・クラブが間に入ってくれる三井住友海上の保険に加入することにしました。碧雲牧場もこれまでは入っていなかったのが、昨年、当歳馬が事故や怪我で2頭死んでしまうことがあり、それからはかけ始めたそうです。繁殖牝馬に比べて、動き回る当歳馬や1歳馬は怪我をしたりするリスクも高いですし、病気になる可能性も高いため、やはり保険は入っておいた方が良いという判断です。

保険料は1年間で10万円をかけることにしました。もし保険期間中に当歳馬や1歳馬が死亡するようなことがあれば、300万円の保険金が支払われるということです。腰フラもしくは腰痿(ようい)といって、脊髄が圧迫されることによって起こる神経の損傷が原因となり、後ろ肢が上手く動かなくなってしまう疾病になった場合は210万円(死亡時の7割)が支払われるという契約です。腰フラは若駒の発育期に多く見られる疾患であり、発症すると競走馬としてはほとんど走れなくなってしまいます。いずれにしても、種付け料にも満たない保険金が戻ってきたところで慰めにしかならないのが正直なところですが、生産者はそれでもお守り代わりとして保険に入るのです。そして何もないことを祈るしかないのです。

骨折して不自由な生活を送らざるを得ないわ、預託料が倍増したり保険料をかけたりと出費がかさむわで、僕は世界の底を歩いているような気持ちになりました。

そんなある日の晩、碧雲牧場の慈さんから電話がかかってきました。「こんな時間に電話をかけてくるなんて、嫌な予感がしますね」と僕は第一声を放ちました。「治郎丸さん、30分後にかけなおしていいですか?」と慈さんは自分から電話をかけてきたにもかかわらず、獣医師からの電話が入ったといのことで、すぐに電話を切ってしまいました。僕はやや片足に体重を移しながら、その場に立ち尽くし、慈さんからの連絡を待ちます。今から思えば、ここからが悪夢の始まりだったのです。

(次回へ続く→)

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