その瞬間、その場所にいたことが、のちに密かな自慢になることがある。そして、誰かが同じ経験をしたと聞くと、妙な親近感を覚えて嬉しくなる。
「おや、あなたもそこにいたんですか。実は、私もそこにいたんですよ」と。
それは、魂を揺さぶる音楽だったり、スポーツの生むカタルシスだったり、あるいは身近な人の夢が形になった瞬間だったりする。
ある人にとってそれは、ずっと応援してきたチームが優勝を決めた試合かもしれない。
別の人にとっては、聞き惚れてきた落語家の真打襲名披露の興行かもしれない。
またある人にとっては、結成から見守ってきた『推し』のコンサートかもしれない。
あるいは、その走りに勇気をもらってきたサラブレッドが勝利したレースかもしれない。
──その瞬間、その場所で、同じ感動を共有した者だけが、誇らしげに主張することができる。
"I was there."
「私も、そこにいたんですよ」
日本競馬史上において、最も多くの"I was there."を生んだレースは、1990年の東京優駿、すなわち日本ダービーかもしれない。
和暦に直せば平成2年。まだ昭和の香りが色濃く残る頃だ。
競馬ブームの熱は、最高潮に達しようとしていた。
大井からやってきたハイセイコーが着火し、トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの『TTG三強』で熱を帯びた1970年代。
ミスターシービー、シンボリルドルフと2年連続の三冠馬誕生に沸いた1980年代。
それぞれの時代を彩ってきた競馬ブームは、昭和の終わりに笠松から来たオグリキャップで一つの頂点を迎える。時はバブル経済の絶頂期。
1990年5月27日。
日本ダービーが行われる東京競馬場には、時代の熱そのままに多くのファンが訪れていた。
その数、19万6517人。
文字通り立錐の余地もない、人、人、人……そして、人。
中央競馬の入場者数のレコードであり、30年経った2020年現在も、その数字は破られていない。
当時の府中市の人口である、約21万人に匹敵するほどの数のファンが、東京競馬場に詰めかけたということになる。
第57回日本ダービーを、目撃するために。
やはり、競馬に携わるすべての人にとって、ダービーは特別だ。
日ごとに気温は上昇し、樹木の葉の色が濃くなり、あらゆる生命が天地に満ちる「小満」のころ。
生命力に満ち溢れた3歳サラブレッドの精鋭が、東京競馬場の芝2,400mで頂点を競う。
この年のダービーは、「ヤング・ダービー」と称された。
上位人気馬それぞれに、20代前半のジョッキーが騎乗したからだ。
弥生賞1着、皐月賞3着で1番人気に支持されたメジロライアンに騎乗する横山典弘騎手が、22歳。
2番人気の皐月賞馬・ハクタイセイには武豊騎手で、21歳。
そしてNHK杯を制して臨む4番人気のユートジョージの岡潤一郎騎手も21歳。
武豊騎手はこの前年、デビュー3年目にして全国リーディングを獲得していた。
横山騎手、岡騎手にしても、すでに重賞勝ちの実績があり、東西のリーディングを賑わせていた。
若き才能が新緑のターフの上で輝くのを、期待していたファンも多かったのかもしれない。
他方で、3番人気に推されていたアイネスフウジン。
その背には、デビューからダービーまでの8戦すべての手綱を取ってきた、中野栄治騎手。
当時、37歳。
デビューから美しい騎乗フォームで知られていたものの、その頃にはスランプに陥っていたこともあって騎乗馬も減り、前年の勝利数は9勝に留まっていた。
しかし、加藤修甫調教師から紹介されたアイネスフウジンと出逢い、惚れ込んだ。
加藤修甫調教師もまた中野騎手を信頼し、彼をアイネスフウジンに乗せ続けた。
皐月賞で2着に敗れたのは、スタート直後に他馬から受けた不利があったから。
ヤング・ダービーだろうが何だろうが、歳を重ねてこそ滲み出せる味わいもある。
若さとは才能と同義かもしれないが、幾多の辛酸を舐めてこそ至れる境地もある。
中野騎手だからこそ、この大一番で雪辱を晴らしてくれるはず、と。
19万人が固唾をのんで見守る中、第57回日本ダービーのゲートが開く。
眩い初夏の陽射しの下、フルゲート22頭の優駿が、2,400m先の栄光のゴールへと駆け出した。
アイネスフウジンと中野騎手は、12番枠から出た。明確な意思を持って、1コーナーへと向かっていく。
──他の馬が行かないのなら、自ら行く。
不利を受けた皐月賞ではできなかった「逃げ」を、打つ。
他馬は、競りかけなかったのか、それとも競りかけられなかったのか。
アイネスフウジンがハナを奪う。
先頭に立てば、不利もない。ペースを緩めることなく、アイネスフウジンはその快速を維持した。
アイネスフウジンは、前年の朝日杯3歳ステークスを、それまで不滅と思われていたマルゼンスキーのレコードと同タイムで勝っている。
スピードの絶対値は、モノが違うはずだ。中野騎手の手綱は、確信を持って厳しいラップを刻んでいく。
そして3コーナー付近、後続馬が差を詰めてくる。
勝負の直線。
19万人の怒号に大地が揺れる中、中野騎手は追った。
21頭のライバルたちを従えて、アイネスフウジンは逃げた。
ハクタイセイが追いすがるが、その差は詰まらない。
残り200m。
メジロライアンが外から飛んでくる。
──だが、届きそうにない。
逃げ切りだ。
中野騎手だ。
アイネスフウジンだ。
アイネスフウジン、1着。
ダービーの逃げ切りは、カブラヤオー以来で15年ぶり。
勝ちタイム2分25秒3は、当時のレースレコードだった。
史上初めて、日本ダービーを2分25秒台で駆け抜けた。そしてこのダービーレコードは、キングカメハメハが勝つまで14年もの間、更新されることはなかった。
どよめきと、脱力が、スタンドを覆う。死力を尽くしたアイネスフウジンと中野騎手は、ゆっくりと向こう正面から引き返してきた。勝者にのみ許される、至福の時間。
そこで、彼らは競馬史上初めての光景を目にする。
「ナ・カ・ノ!!」
「ナ・カ・ノ!!」
自然発生的に起こった、勝者を称える「ナカノ・コール」。
スタンドのファンは拳を突き上げ、声を枯らし、中野騎手の乾坤一擲の騎乗を称賛し、そして祝福した。
それは怒号のようにも、波のうねりのようにも見えた。派手なガッツポーズはなく、無骨にただ左手を振る中野騎手。一時期は廃業も覚悟していたと吐露した男は、ダービーのウイニング・ランでその名をコールされるという、この上ない栄誉に浴していた。
スタンドの一体感、熱狂と喧騒、陶酔と茫然。
そして、感動。
競馬が、一つのエンターテイメントとして完成した瞬間だった。
それは、この年の年末の有馬記念、オグリキャップ感動の復活、ラストランの「オグリ・コール」へとつながっていく。
1990年5月27日、東京競馬場、日本ダービー。
きっと、あの日、あの場所にいた誰しもが、のちに誇らしげに語ったことだろう。
「あなたも、わたしも、そこにいた」と。
19万6517人の"I was there."を生んだあのダービーから、今年で30年になる。
2020年の日本ダービーは、感染症の拡大という未曽有の厄災により、無観客での施行となった。
第二次世界大戦下で行われた1944年から、76年ぶりの無観客開催でのダービーである。
19万6517人から、無観客へ。
今年の5月31日の東京競馬場には、毎年そこに当たり前にあったものが、ない。
何日も前から徹夜で待つファンは、いない。
開門と同時にスタートが切られる第0レースは、ない。
待ち望んだ第1レースのファンファーレへの拍手は、ない。
馬体重が発表された際のざわめきは、ない。
むらさき賞が終わった後に一気に張り詰めていく緊張感は、ない。
国歌斉唱でのあの高揚感は、ない。
あの美しいターフの東京競馬場のスタンドに、ファンはいない。
それでも。
それでも、サラブレッドは、走る。
日本ダービーが、ある。
至福の2分半が、ある。
第87代日本ダービー馬の誕生の瞬間が、ある。
「あなたも、わたしも、そこにいたかった」
いつの日か、ダービー・デイの東京競馬場で、そう笑って語り合える日を、心待ちにしながら。
2020年のダービーを、迎えよう。