イングランディーレ〜長距離が繋いだ縁と血〜

『長距離競馬』は、近年の競走形態の短距離化に伴って、その重要性が薄くなりつつある。

デルタブルース、ジャガーメイル、マイネルキッツ、ビートブラック、ビッグウィーク……。
これらの馬はGⅠ競走を制覇しながら、ただ1シーズンすら種牡馬として繋養されることはなかった馬たちだ。

今ではクラシック競走の最終戦である3000m級の競走が古馬に解放され、クラシック競走形態の崩壊もしくは形骸化している国も少なくない。
日本でも、かつては春同様に3200mで施行されていた天皇賞・秋が1984年に2000mに短縮された。
そして残された長距離最高峰の天皇賞・春でさえ、未だに距離短縮論が絶えることはない。
それほどに、長距離競馬というのは現代競馬の流れから取り残されつつある。

しかし、長距離には長距離の面白さがあると、私は思う。
長い距離を走る分、仕掛けどころや駆け引き、ペース配分で騎手の腕が顕著に出る。
短距離のスピード勝負では陽の目を浴びることのなかった馬たちが、ある時は大逃げ、ある時は捲り、またある時はバラけた馬群を縫うように追い込んでくる。
粘り強く、泥臭く、自身の持つスタミナの限りに最後の一完歩まで脚を前に伸ばす。
長距離競馬の魅力とはまさに、そういったところにあると言えるだろう。

3月末、1953年からの長い歴史を持つ長距離重賞が、中山競馬場で施行される。それが『GⅡ 日経賞』だ。

主に関東馬による天皇賞・春の前哨戦として、その地位を確立している伝統の一戦である。
フェノーメノやライスシャワーらがこの日経賞から天皇賞・春を連勝している他、本番での勝利はできなくともアドマイヤデウスやウインバリアシオン、アルナスラインらが勝ち馬と際どい勝負を繰り広げるなど、近年でも天皇賞・春との関連性はそう浅くはない。

2003年の勝ち馬も、ここを勝って自らのポジションを確立し、のちに天皇賞を制した馬だった。
さらにその馬は、海を渡り国外のレースに挑戦した他、種牡馬として一国のダービー馬の父にもなった。

父ホワイトマズル、母マリリンモモコ、その父リアルシャダイ。
イングランディーレである。

2001年夏にデビューを迎えたイングランディーレは、2歳時はダートの短距離を中心として6戦1勝の成績をあげた。
明けて3歳になってからは徐々に距離を伸ばし、3月のダート1800m戦で2勝目を掴むと、4月には芝の2400mの青葉賞、6月にはダート1600mのユニコーンSなど重賞にも名を連ねたものの、結果は出なかった。
11月にダート戦で久々の勝利を飾ると、イングランディーレのスタミナを評価した陣営が格上挑戦ながら3600mの長距離重賞ステイヤーズSへの出走を決断した。

この決断がイングランディーレの未来を大きく動かすことになった。

このレースを勝ち馬と0.2秒差の4着に健闘し、長距離に確かな手応えを掴むと、翌年はダート戦を一戦挟んでから再び格上挑戦で長距離重賞ダイヤモンドSへ出走。
8番人気の低評価ながら軽ハンデと雨が降ってぬかるんだタフな馬場を味方につけ、スタートから果敢に逃げる。そして自慢のスタミナを存分に発揮してそのまま逃げ切り、待望の重賞初制覇を記録した。

次走には天皇賞・春を見据えて伝統の一戦『日経賞』を選択。
ダイヤモンドSがフロック視され、ここでも5番人気の低評価での出走だったが、スタートを五分に切って4番手につけると、先頭が立て続けに入れ替わる激しい展開の中を残り600mの標識の前あたりから果敢にロングスパート。
最内を通って早仕掛けからのスタミナ勝負に持ち込み、最後の直線を先頭で迎えると最後までしぶとく伸び続け、抜けた1番人気だったバランスオブゲームの追撃を1馬身半凌ぎ切って重賞連勝。
この勝利で、イングランディーレは長距離なら、スタミナ勝負なら、確かな実力があることを証明してみせたのである。

本番の天皇賞・春では前年の菊花賞馬ヒシミラクルの前に9着と惨敗するも、今度はダートに戻ってブリーダーズゴールドC(2300m)、白山大賞典(2100m)と、長距離重賞を再び連勝。
その後はJBCクラシックでアドマイヤドンの前に6着、芝に戻ってステイヤーズSを4着、ダートの名古屋グランプリを1番人気で5着と勝ちきれない競馬が続くが、年明けの初戦ダイオライト記念を2着として復調の兆しを見せると陣営は再び長距離の大一番、天皇賞・春への出走を決定する。

2004年、この年の天皇賞・春は前年のクラシック2冠馬ネオユニヴァース、菊花賞馬ザッツザプレンティに加え、菊花賞・有馬記念で2着のリンカーン、ダービー2着・有馬記念3着のゼンノロブロイの明け4歳勢が揃って参戦し「4強」の構図を作りあげていた。
人気はその「4歳4強」が分け合い、イングランディーレは長距離重賞4勝の実績ながら10番人気に甘んじていた。

好スタートを切ったイングランディーレは直後から気合を付けられると、果敢に先頭を奪って後続17頭を引き連れる。
1周目のゴール板を通過する時、カメラは思い思いのポジションを進む4強をじっくりと映し出す。
ゼンノロブロイ、ザッツザプレンティ、リンカーン、そして1番後ろにつけた1番人気ネオユニヴァースまでを映し終え、そしてカメラが馬群全体を捉えようとしたその時だった。

「先頭の……」
実況が一瞬、言葉に詰まった。
それもそのはずだ。
先頭を行くイングランディーレのリードは既に20馬身はあろうかというほどにまで広がっていた。
しかし、それでもカメラは再び4強にフォーカスを合わせた。
当然である。このままイングランディーレが逃げ切るなどということは、誰も想像していないのだから。

そのうち垂れる──。
そのうち捕まる──。

それよりも4強がいつ、どこで、どの馬から動くのか、その方が遥かに重要だった。

例の如く1番後ろに控えたネオユニヴァースまでじっくりと、舐めるように映し出したカメラが再び馬群全体を捉えた時、歓声とは違う低いざわめきが京都競馬場を包み始めた。
そのざわめきはイングランディーレが800m標識を通過したところで大きくなった。
競馬場全体が明らかにその異様な光景に気が付いた。

2周目の4コーナーに差し掛かっても、イングランディーレが作り出したリードは依然として10馬身ほどを保ったままだった。
ざわめきがどよめきに、そして悲鳴に変わった。
「流石にまずい!」
周囲が気が付いた時には、もう遅かった。
異変にいち早く気がつき、その差を詰めにかかっていたゼンノロブロイを除いて、ザッツザプレンティ、リンカーン、ネオユニヴァースが馬群の外を押し上げて来たその時には、イングランディーレは既に直線の半ば、外回りと内回りの合流地点に差し掛かっていた。

「この馬はスタミナがあるぞ!」
実況は興奮気味にそう叫んだ。
4強と目された各馬はイングランディーレの遥か後方でもがき、早めに動いたゼンノロブロイがかろうじて離れた2番手にあがるのみだった。

──逃げ切りだ。

「4歳4強も全て退けて、イングランディーレのひとり旅!」
実況を務めた馬場鉄志アナウンサーが3200m、時間にして3:18.4の長旅をそう言って締め括ると、満面の笑みを浮かべながら左手を突き上げる横山典弘騎手と心なしか誇らしげにターフを駆けるイングランディーレの姿が画面いっぱいに映し出された。

「馬と話をしながら、歌いながら乗っていた」
「後ろは見ないで、馬と楽しく楽しく二周り行ってこようと思っていた」
横山典弘騎手はレース後のインタビューでそう語っている。

有力各馬が牽制し合っている隙をつく「大逃げ」という選択は、決してその場の偶然の産物などではなく、イングランディーレの持つ確かなスタミナとベテランジョッキーの豊富な経験値によって裏付けされた「強者を負かすための最適解」だったのである。

これこそ、長距離競馬の素晴らしさではなかろうか。

「天皇賞馬」の実績を引っ提げたイングランディーレはその後、日本馬として初めて、天皇賞のモデルと言われるイギリスのアスコットゴールドカップに参戦した。
彼は世界の舞台でも果敢に逃げスタミナ勝負を挑んだが、最後の直線では世界の強豪を相手に全くと言っていいほど抵抗できずに大敗した。
帰国してからはダートのブリーダーズゴールドカップに出走して1番人気で2着と好走したが、直後に屈腱炎を発症して長期休養を余儀なくされる。1年3ヶ月もの休養ののち復帰するも、全盛期の走りはついに戻らず、翌2006年のブリーダーズゴールドカップでの6着を最後に現役を引退。
結果として、天皇賞・春が最後の勝利となった。

GⅠ勝利を含む芝・ダート重賞5勝という実績をあげ、競走馬として輝かしい成績を収めながら、その勝ち鞍がスタミナの要求される長距離であったこと、また血統面でも種牡馬としての日本競馬への適性が疑問視されたこともあり日本での種牡馬入りは破談となった。

一時は乗馬転用の話も出たイングランディーレだったが、ダート重賞を制していたことが評価され、最終的にダート競馬が主流で、競馬文化のまだ若い韓国へ輸出され種牡馬として繋養されることが決まった。

こうしてイングランディーレは海を渡った。

産駒からは活躍する馬も現れ、2012年には産駒のチグミスンガンがコリアンダービーを勝ち、のちにイングランディーレの後継として種牡馬入りを果たした。
イングランディーレの血は今もなお、韓国で確かに繋がれている。
それは、もし海を渡らなかったとすれば、繋がることのなかった血、繋がることのなかった歴史だったのかも知れない。
そしてそのきっかけは、日経賞の勝利であり、その後の天皇賞・春での勝利でもある。長距離への対応力とスタミナが、彼の馬生を大きく変えた。

2020年12月12日、イングランディーレは21年の生涯にひっそりと幕を下ろした。
日本で生まれ、GⅠを制し、海を渡って、一国のダービー馬の父となる──その生涯は、決して誰もが歩める道ではない。まさにあの天皇賞・春のような彼だけが歩める長い長い優雅な「ひとり旅」だったと言えるだろう。
ともすれば彼の韓国での生活が、“あの道中”のように「楽しく楽しく」、「歌いながら」過ごせる日々であったことを祈りたい。

長いひとり旅を終えた彼は今、どこか遠い場所でゆっくりと脚を休めているのだろうか。
もしかすると、すでに新たなひとり旅に出かけているかもしれない。

写真:Horse Memorys

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