高円寺・競馬居酒屋「なで厩」のこれまでとこれから(後編)- 今だからこそ見えてきた景色と新店舗に込める思い

2020年、コロナ禍の真っただ中に産声を上げたこの店は、その後6年間で多くの競馬ファン、日本酒ファン、そして地域の人々を迎え入れてきた。

では、その6年間で「なで厩」は何を得たのだろうか。

そして今、なぜ移転という決断に至ったのだろうか。

店を続けてきたからこそ見えてきた景色と、新店舗に込める思いについて、なでさんに話を聞いた。

なで厩が目指した空間

6年間という時間の中で、「なで厩」は競馬ファンが集まる店として知られるようになった。
しかし、なでさん自身は最初から「競馬ファンだけの店」を目指していたわけではないという。

「自分と妻がイメージしていたのは、旅行先でふらっと入る居酒屋だったんですよね」

旅先で偶然見つけた店の暖簾をくぐる。
カウンターに腰掛けると、店主や隣に座った客と自然に会話が始まる。
そんな経験をしたことがある人も多いだろう。

「知らない人同士でも、一緒に話せるような空気が理想でしたね」

競馬という共通の話題はある。
しかし、それはあくまで入口の一つに過ぎない。
競馬の話から始まり、日本酒の話になることもあれば、仕事や趣味の話へ広がることもある。
そうした偶然の会話が自然と生まれる場所。

それが、なでさんの思い描いていた「なで厩」の原型だった。

実際、店を訪れる客層も幅広い。
府中競馬場や大井競馬場の帰りに立ち寄る人。
遠征先の一つとして高円寺を訪れる人。
あるいは、自身の出資馬が出走するタイミングに合わせて東京へやってくる人もいる。

「旅行の途中で寄ってくれるのは、やっぱりうれしいですね」

競馬居酒屋でありながら、どこか旅先の居酒屋にも似ている。
その独特の空気感が、多くの人を引き寄せてきたのかもしれない。

そして、その空間づくりにはもう一つの側面がある。

「テーマパークみたいな感じもあるかもしれないですね」

店内を見渡せば、競馬グッズが所狭しと並ぶ。
カウンターには懐かしい馬券コレクションが飾られ、Nゲージを改造して作られた馬が走る。
壁には馬のゼッケン、ポスター、時計が飾られ、トイレにはライスシャワーの記事が貼られ、当時の実況音声が流れる。

ただ酒を飲み、競馬を語るだけではない。
店の中を見て回るだけでも、競馬ファンなら思わず足を止めてしまう仕掛けが散りばめられている。

競馬居酒屋であり、旅先の居酒屋でもある。
そして少しだけ、競馬のテーマパークでもある。

「なで厩」という店の空気は、そうした様々な要素が混ざり合うことで形づくられてきた。

カウンター席から一枚 懐かしい馬名が刻まれた馬券が並ぶ(2025年撮影)

6年間で見たもの

コロナ禍の真っただ中にスタートした「なで厩」だが、なでさん自身は当時をあまり特別なものとして捉えていなかった。

「競馬が無観客という特殊な期間だったっていう記憶が、あんまりないんですよね」

前編でも触れたように、開業直後から営業自粛という異例の状況に見舞われた。

しかし、なでさんの感覚は少し違う。
最初から底辺を知って耐えれれば、後は少しでもプラスに捉えられるだろう、と。

また開業当時は、価格設定も現在とは異なっていた。

「最初は今よりだいぶ安かったですね(笑)」

その後の物価高騰もあり、現在は適正な価格へと見直されている。
店も、世の中も、少しずつ変化していった。

営業が軌道に乗ってからも、ずっと同じ景色が続いたわけではない。

「最初の2年くらいは同じような感じだったんですけど、そのあと妻が店を手伝えなくなって」

前編でも語られたように、「なで厩」は夫婦二人三脚で始まった店だった。
だからこそ、その変化は決して小さくない。
営業スタイルも、日々の動き方も、少しずつ調整が必要になった。

それでも店は続いていく。
そして気づけば、6年という時間が流れていた。
長く店を続けていると、見えてくるものがある。

「ずっと来てくれる人がいるのは、本当にありがたいですね」

競馬の話をするために来る人。酒を飲みに来る人。ただなんとなく立ち寄る人。
理由はさまざまだが、何年も通い続けてくれる客がいる。

一方で、予期せぬ別れもあった。

「悲しい別れもありましたね」

いつも通ってくれていた常連さんの訃報。

店を続ける前には想像していなかった出来事だったという。

飲食店でありながら、人生の一部を共有する場所でもある。
それは、日常の中に存在する居酒屋という空間ならではの側面かもしれない。

もっとも、なでさんの口から出てくるのは、別れの話ばかりではない。

「それでも出会いの方が多いですからね」

競馬をきっかけに知り合う人。
日本酒をきっかけに知り合う人。
あるいは、その両方をきっかけに知り合う人。
「なで厩」には、今日も初めて顔を合わせる人たちがやってくる。
旅行先の居酒屋を理想に掲げていた店は、気づけば本当にそんな場所になっていた。

誰かが店に入り、誰かと出会い、また次の誰かを連れてくる。
6年間で積み重なったのは、料理や酒のメニューだけではない。
そこに集まった人たちとの時間そのものだった。

日替わりの3種のおばんざい

なぜ移転するのか

6年という時間を積み重ねてきた「なで厩」だが、現在の店舗との別れは突然決まったものではない。

「青天の霹靂みたいに見えるかもしれないですけど、覚悟はずっとしてましたね」

現在の店舗は、高円寺高架下の再開発エリアにある。
もともとの契約期間は2年。
その後、延長を重ねながら営業を続けてきた。

「2年契約だったんですけど、それが3回延びたんですよ」

結果として6年近く営業することになったが、いつかは区切りが来ることも分かっていた。
だから今回の移転も、完全な想定外ではない。

「いつ来てもおかしくないとは思ってました」

むしろ、ここまで続けられたことの方が大きかったのかもしれない。
とはいえ、感情が動かなかったわけではない。

なでさんが印象的だったと語ったのは、意外な場面だった。
保健所への手続きである。

「移転なんですけど、書類上は“閉店届”を出さないといけなくて」

法律や契約の都合上、それは当然の手続きだ。しかし、なでさんにはどうしても引っかかるものがあった。

「終わるわけじゃないんですよね」

移転であり、閉店ではない。店を畳むわけではない。それでも書類には"閉店"と書かなければならない。

「なんか、それが悲しかったですね」

少し意外な答えだった。厨房や内装の話ではない。売上や経営の話でもない。
書類上の一言に寂しさを感じる。それは、この場所に積み重ねてきた時間が本物だったからなのかもしれない。

もっとも、客の立場から見ると印象は少し違う。
実際、移転の話を聞いても「店をやめる」という感覚はほとんどなかった。

むしろ聞こえてくるのは、

「次はどうなるんだろう」という期待の方だ。私自身もそうだった。

今回の話を聞いていても、「終わる」というよりは「次が始まる」という感覚の方が近い。

なでさんも、その認識に「そうですね」とうなずく。

そして話題は自然と、新店舗の構想へと移っていった。
今の「なで厩」を残しながら、何を変えるのか。
そして、どんな場所を目指すのか。6年間で積み重ねてきたものを抱えながら、新しい「なで厩」の話が始まった。

閉店後のなで厩の前で 2026年4月撮影

変わらないもの

移転と聞くと、多くの人は「どこが変わるのか」を想像する。
店の広さ、内装、料理、お酒のラインナップ。
実際、新店舗では大きく変わる部分も少なくない。
しかし、なでさん自身は意外なほど落ち着いていた。

「何を変えるかっていうのは、あんまり考えてないかもしれないですね」

少し考えてから、そう答えた。

「ベースは『なで厩』のままだと思います」

それは、店の根っこにある部分だ。
競馬があって、酒があって、人がいる。

そして、どこか雑然としている。

「おしゃれな感じというよりは、ゴチャゴチャした感じですね(笑)」

店内を見渡せば競馬グッズが並び、壁にも棚にも様々なものが置かれている。
整然とした空間ではない。
しかし、それが「なで厩」らしさでもあった。
話を聞いているうちに、ある言葉が浮かんだ。

──子供の秘密基地みたいな感じですか?

私がそう聞くと、なでさんは「それですね」と笑い、続けて新店舗のテーマを話してくれた。

「今回のテーマは『おもちゃ箱』なんですよ」

子供の頃に憧れたもの、やってみたかったこと、作ってみたかった空間、それらを詰め込んでみたいという。

「初心に帰ろうかなと思って」

もちろん、居酒屋であることは変わらない。
競馬居酒屋であることも変わらない。
ただ、これまではスペースの制約もあり、実現できなかったことが多かった。

「前の店は狭かったですからね」

だからこそ、新店舗では少しだけ自由になれる。
興味深いのは、その発想が「新しく生まれ変わる」というものではないことだ。
むしろ逆に近い。
新しいものを目指すというよりも、昔から頭の中にあったものを形にする。
拡張であり、原点回帰でもある。

「やりたいことを実現していく感じですね」

変わる、けれど、変わらない。
少し矛盾しているようにも聞こえる。
しかし話を聞いていると、それが最もしっくりくる表現のように思えた。

新店舗になっても、「なで厩」は「なで厩」のまま。
その前提があるからこそ、なでさんは大きな変化にもどこか自然体で向き合っているのかもしれない。

新店舗は「おもちゃ箱」

では、その「おもちゃ箱」とは何なのだろうか。
話を聞いていくと、それは単なる内装コンセプトではないことが分かってくる。

「子供の頃にやりたかったことを、やってみようかなって思ってるんですよ」

なでさんはそう語る。
競馬居酒屋であり、日本酒の店でもある。
その軸は変わらない。
ただ、新店舗ではこれまでスペースの都合で実現できなかったことにも挑戦できるようになる。

「前はどうしても限界がありましたからね」

その言葉の通り、新店舗は現在の店舗よりも広くなる。
席数自体は劇的に増えるわけではない。
カウンター席は7席から6席へ。

一方でテーブル席は増え、より多様な使い方ができるようになるという。
さらに、新たに個室も設ける予定だ。

「接待というよりは、親を連れてくるとか、特別な日に使えるような部屋ですね」

日常から少し離れた時間を過ごすための空間。
それもまた、「おもちゃ箱」の一部なのだろう。

変化は客席だけではない。
むしろ、なでさんが特に力を入れているのは厨房だ。

「厨房は今の2倍から3倍くらいになります」

動線にも徹底的にこだわった。
設計図を保健所へ持ち込んだ際には、「これ、誰が考えたんですか?」と驚かれたという。

「考えたのは、自分です(笑)」

前編でも感じたことだが、この人は思い立つと徹底的に考える。
10年間店を夢見ていた人らしいエピソードだ。

そして、その広くなった厨房が意味するものは明確だ。
料理である。

「今までは正直、できなかったことも多かったんですよね」

新店舗では新たに板前が加わる予定だという。
料理の選択肢も広がる。

「むしろ、料理はこれからの方がこだわるかもしれないですね(笑)」

競馬居酒屋としてスタートした店が、より本格的な飲食店としての顔も持ち始める。
それは「競馬を薄める」という意味ではない。
むしろ逆だ。
競馬も、酒も、料理も。
全部を楽しめる場所に近づいていく。

その象徴の一つが、日本酒だ。
現在の店舗では保管スペースの都合もあり、置ける本数には限界があった。
しかし新店舗では、その数が大きく増える。

「たぶん4倍くらいにはなりますね」

ただし、なでさんの興味は「たくさん売ること」ではない。

「一杯をたくさん飲むより、いろんな種類を飲んでほしいんですよ」

高価な日本酒も増えている。
だからこそ、一種類を大量に飲むよりも、少量ずつ多くの銘柄を楽しめるようにしたいという。
深く掘る楽しみと広く知る楽しみ。

新しい「なで厩」は、その両方を用意しようとしている。
さらに、構想は店の中だけに留まらない。

店外での料理提供。これまで出来なかったことにも挑戦したいという。

話を聞いていると、「おもちゃ箱」という言葉が少しずつ腑に落ちてくる。
子供がおもちゃを一つだけ選ばないように。

競馬だけでもない。酒だけでもない。料理だけでもない。
面白そうなものを詰め込んでみる。

そんな発想が、この新店舗の根底にはあるようだった。
そして不思議なことに、それを聞けば聞くほど

──なで厩らしいな。

という感想しか出てこなかった。

姉妹店「Rinqride」で1枚(2024年撮影)

店主・なでさんという人

ここまで話を聞いていると、ふと気になることがある。
これだけ店を広げる。
新しいことも始める。
料理も強化する。
日本酒も増やす。
正直、一人でやるには大変そうだ。

「コピーが欲しいですね」

なでさんは即答した。
どうやら本人もその自覚はあるらしい。
もっとも、その言葉の裏には単なる冗談以上の本音も見え隠れする。
現在も映像制作の仕事は続いている。
店だけをやっているわけではない。

「映像の仕事で呼ばれたときに、“今日はいないんですか?”ってなることはありますね」

店を空けなければならない日もある。
そういうときのために、自分の等身大パネルでも置いておこうか。
そんな話で盛り上がった。

「写真くらいは撮れるようにしておきたいですね」

さらに話は妙な方向へ転がる。近頃、巷では「武豊AI」というものが話題だ。武豊騎手のこれまでの歩みをAIに学習させ、疑似的に同騎手と会話ができるというもの。これはデビュー40周年を記念して、2026年に各地で行われている「武豊展」などでお披露目されている。

それに近いものを作ればいいのでは、と私がなでさんに問いかけたところ

「なにそれ、めっちゃやりたい!」と答えが返ってきた。

どこまで本気でどこまで冗談なのか、わからないがこのやり取りもどこかなで厩らしい。
競馬の話から始まり、気が付けば別の話題になっている。
それでも誰も置いていかれない。
そんな空気がある。
一方で、店づくりに対する考え方は意外なほど頑固だ。

一般的なビジネスであれば、事業を広げる際には「自分がいなくても回る仕組み」を作ろうとする。
しかし、なでさんは少し違う。

「そこは難しいんですよね」

そう言って苦笑する。

「自分で味見したいんですよ」

料理も、酒も、空間も。

可能な限り自分の目で見て、自分で確かめたい。
そしてもう一つ。

「会う人は、全員と会いたいです」

この言葉は印象的だった。
非効率かもしれないが、それが「なで厩」という店の成り立ちでもある。

競馬好きの友人と仲良くなりたくて競馬を見始めた高校時代。
人と話すのが得意ではないからこそ、競馬という共通言語を頼った開業当初。
そして今も、店に来る人とはできるだけ直接会いたいと思っている。
振り返ってみると、なでさんの店づくりは一貫している。
店を大きくしたいわけではない。
人との距離を近くしたいのだ。

だからこそ「なで厩」は、ただ競馬を観る場所でも、ただ酒を飲む場所でもなく、人が集まる場所になったのかもしれない。

新しい「なで厩」へ

最後に、新店舗を楽しみにしている人たちへメッセージをお願いした。
なでさんは少し考えてから言葉を選ぶ。

「前のなで厩を知っている人も、新しい人も、居やすい空間にしたいですね」

移転と聞くと、どうしても変化の方に目が向く。
しかし、話を聞いている限り、なでさんが守ろうとしているものは明確だった。
居心地の良さ、偶然の出会い、そして人が自然と集まる空気。
それらは新店舗になっても変わらない。

「逆に『前のなで厩ってどんな感じだったんだろう』って思われるくらいになりたいですね(笑)」

もちろん、新しい挑戦もある。
広くなった店内、強化される料理、増える日本酒。
そして、これまで実現できなかった様々なアイデア。

「やりたいことは全部やりたいですね」

そう語る表情は、前編で聞いた10年越しの野望を語る姿とどこか重なって見えた。
そして、最後に新しい店の理想像について尋ねてみた。

すると返ってきたのは、実に「なで厩」らしい答えだった。

「料理を目当てに来た人が競馬にハマったり、競馬を目当てに来た人が、お酒にハマったり、お酒を目当てに来た人が、料理を好きになったり、そんな価値のある店にしたいですね」

競馬、酒、料理。
本来であれば別々の趣味や楽しみ方かもしれない。
しかし、この店ではそれらが自然に混ざり合う。

前編でなでさんは、人と話すのが得意ではないからこそ、競馬という共通言語を頼ったと語っていた。
その結果として生まれたのは、競馬好きだけの店ではなかった。
酒好きも、料理好きも、ただ誰かと話したい人も。

気が付けば同じ空間を共有している。
「なで厩」が6年間かけて作り上げてきたのは、料理や酒のメニューではなく、そんな空気そのものだったのかもしれない。

新しい店舗は、その空気を残したまま、もう少しだけ大きなおもちゃ箱になる。
2026年8月8日、そのおもちゃ箱が開かれようとしている。

店の前でなでさんと筆者のツーショット 2024年撮影
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