「柴田善臣」がいた風景 - 胸に刻まれたレースを語る

柴田善臣騎手の現役引退のニュースが駆け巡った、2026年9月15日の午後。柴田善騎手を「善臣先生」ではなく、ずっと「ヨシトミィ~」と呼び、昭和の時代から応援してきた者たちが、スマホを手に肩を落としていた。

「いつかは来ると思っていたが、とうとう来たか…」

「夏を全休して、涼しくなったら競馬場に戻ってくると思っていたのに」

「嘘や!ヨシトミィは、まだまだやれるはずや。何ゆうてるねん」

それぞれが柴田善騎手の顔を思い浮かべ、馬券を握りしめて応援した数々のレースを思い返していた。そして、今秋の府中ではもう「騎手・柴田善」の名が出馬表に並ばないという事実を、ゆっくりと受け止め始めていた。

柴田善臣騎手。1985年(昭和60年)にデビューし、今年で42年目のシーズンを迎えた。通算勝利数はJRA2,341勝、GⅠ級11勝。1982年に千葉県白井町(現・白井市)に新設された競馬学校騎手課程の第1期生として入学し、同期には石橋守調教師、岩戸孝樹調教師、須貝尚介調教師らが名を連ねる。

リーディングでは2001年から04年まで4年連続2位をキープ。04年には年間145勝を挙げたが、その前に立ちはだかったのは、同じ競馬学校の第3期生・武豊騎手。柴田善騎手のさらに上をいく211勝を記録していた。

2,341という勝利数。そのひとつひとつに、彼を同世代の仲間として応援してきた者たちの「善臣ベストレース」がある。パドック最前列でスマホを掲げ、「善臣先生」と呼ぶ若いファンとは少し違うんだと——彼らは胸を張って言う。

「俺らはなぁ、お前らが見ていない“平成の凄い善臣”を見てきたんだ」

引退発表の翌日の夕方。彼らは新橋の居酒屋に集まった。いつもなら週末の競馬の後に飲むのが習わしだが、今回は居ても立ってもいられず、予定を調整して駆けつけた。

そして、生ビールのジョッキを片手に、それぞれの「善臣ベストレース」を語り始めた。

最年長「秀さん」のベストレース・1989年桜花賞

生ビールをひと口飲んだ秀さんが、真っ先に口を開いた。

「ヨシトミィはなぁ、あの悔しい負けがあったからこそ、凄い騎手になったんや」

1989年。柴田善騎手、デビュー5年目のシーズン。前年には中山牝馬S(ソウシンホウジュ)で重賞初制覇を果たし、秋のマイルCSではサッカーボーイに4馬身離されたとはいえ、ホクトヘリオスを2着に導いた。若手の中でも少しだけ存在感を示し始めていた頃だ。

その年の桜花賞。7戦5勝、2着2回。武豊騎手騎乗のシャダイカグラが単枠指定の2.2倍で一本被りの人気を集めていた。ところが、そのシャダイカグラがまさかの大出遅れ。

柴田善騎手は、新馬戦・うぐいす賞を連勝して挑んできた6番人気のホクトビーナスに騎乗していた。スタートと同時に、先行勢のすぐ後ろという絶好のポジションを確保。

そして迎えた直線。先頭のタニノターゲットに並びかけ、残り200mでスパート。一気に突き放し、ホクトビーナスが先頭へ。差はみるみる広がり、勝利は確定したかに見えた。

ホクトビーナスの単勝馬券を握りしめていた秀さんは、テレビの前で思わず立ち上がり、万歳しかけたという。

「その時や。馬群に揉まれているはずのシャダイカグラが、グングン迫ってきよったんや」

秀さんは、当時の自分の叫びを思い出すように声を低くした。

「来るな、来るな。来たらあかん!」

しかし、シャダイカグラはあっという間に並びかけた。ホクトビーナスは抜け出す時に脚を使い切っており、もう余力がなかった。ゴール板を通過した瞬間、シャダイカグラがアタマ差で先着していた。

秀さんは、あの瞬間を今も忘れない。

「引き上げてくる時の善臣の、泣きそうな顔を見てな。この悔しさが絶対に糧になる、そう思ったんや」

それ以来、ゴール前で競り合いを制する柴田善騎手を見るたびに、秀さんは心の中でつぶやく。

「原点は、あの桜花賞や」

柴田善騎手と同年齢の英さんのベストレース・1993年天皇賞(秋)

秀さんが桜花賞の悔しさを語り終えると、英さんが静かにジョッキを置き、口を開いた。

「善臣の真の覚醒は、1993年だね」

英さんは、柴田善騎手と同世代だからこそ、あの年の空気をよく覚えているという。93年。デビュー9年目を迎えた柴田善騎手は、重賞では存在感を示しながらも、GⅠにはなかなか手が届かなかった。ホクトビーナスの桜花賞2着以降、惜しい2着は何度かあったものの、タイトルには縁がなかった。

そんななか、春の安田記念。田原成貴騎手から乗り替わってヤマニンゼファーの手綱を託された柴田善騎手は、京王杯スプリングCでシンコウラブリイとの一騎打ちを制し、その勢いのまま安田記念を勝ち切った。ついに念願のGⅠタイトルを手にした瞬間だった。

そして迎えた秋。

毎日王冠(6着)を経て、天皇賞(秋)へ。これまでマイル以下を主戦場としてきたヤマニンゼファーが、2000mをこなせるのか──そこが最大の焦点だった。

英さんは、当時のレースを思い返しながら語る。

「善臣の渾身の鞭が、ゼファーを持たせたレースだったよ」

93年の天皇賞(秋)は、ライスシャワーとナイスネイチャの争いになると見られていた。

しかし、逃げるツインターボを直線で捕まえたヤマニンゼファーは、そこからの400mを必死に粘り込む。

「最後の200mは、勝春と善臣の執念の一騎打ち。セキテイリュウオー、しぶとかった」

かつてゼファーの主戦だった田中勝春騎手(現調教師)が、セキテイリュウオーで立ち向かう。受けて立つ柴田善騎手は、ヤマニンゼファーの「未知の400m」を、人馬一体となって走り切った。

英さんは、あのゴール前の光景を今も鮮明に覚えている。

「あの時の善臣とゼファーは、夕日に映えて本当にカッコ良かったなぁ」

93年を境に、柴田善騎手の年間勝利数は一気に増えていく。

「あの天皇賞(秋)は、善臣が本当に一流へと踏み出した瞬間だった」

英さんは懐かしそうに天井を見上げていた。

馬主資格を持つ南野社長のベストレース・2000年高松宮記念

南野社長がジョッキを抱きかかえるように握っている。

「俺の“心の愛馬”、キングヘイローを一人前にしてくれたのが善臣さんだったんだよ」

南野社長は、馬主資格を取る前から毎週のように競馬場に通っていた。中でも一番熱くなったのが、98年のクラシック三強──スペシャルウイーク、セイウンスカイ、そしてキングヘイローだった。若き福永祐一騎手(現調教師)を背に挑んだキングヘイローは、皐月賞はセイウンスカイに届かず2着。日本ダービーではハイペース逃げで失速し、スペシャルウイークが戴冠。秋も善戦止まりで、どこか「ワンパンチ足りない」ままシーズンを終えた。

「キングヘイローはお坊ちゃんだから、ハングリーさが無いんだよね」

すっかり、キングヘイローに肩入れしていた南野社長の前に、転機が訪れる。

5歳(現4歳)になったキングヘイローの手綱を、柴田善騎手が取ったのだ。すると東京新聞杯、中山記念を連勝。

「ヘイローお坊ちゃまが、ようやくお目覚めになったと思ったね」

しかし、喜びは長く続かなかった。大目標の安田記念は2番人気で11着。宝塚記念、天皇賞(秋)も着外。それでも晩秋のマイルCS2着、スプリンターズS3着と、距離を変えながら浮き沈みを繰り返した。

「キングヘイローの適性距離はいったいどこなんだ?」

南野社長が心配する中、迎えた6歳(現5歳)シーズン。フェブラリーS(1番人気13着)から転戦した高松宮記念で、ついに悲願が叶う。

2000年高松宮記念。ブラックホーク、アグネスワールドという二大スプリンターが主役と見られたレースで、4番人気のキングヘイローが、柴田善騎手の手綱に導かれ、まとめて差し切った。

「始発の新幹線で中京に行ってね。あの差し切りを生で見た時は、もう感無量だったよ」

南野社長は、単勝5000円の的中馬券を換金することができず、今も大切に保管しているという。

「いつか、キングヘイローの血を引く馬の共同馬主になって、善臣さんに乗ってもらって、ウイナーズサークルで口取りしたかった——」

そう言って、南野社長は静かにジョッキを置く。その夢は、もう叶わぬ夢となった。

競馬歴の浅い菰田さんのベストレース・2014年安田記念

みんなの話を聞いていた競馬歴の浅い菰田さんが、焼き鳥の串を手にしながら照れくさそうに口を開いた。

「競馬を覚え始めた頃に一番感動したレースが、善臣さんの代打騎乗で勝った安田記念なんですよ」

菰田さんは、柴田善騎手の若い頃を知らない世代だ。それでも、あのレースで一気にファンになったという。

2014年のジャスタウェイは、すでに「名馬の領域」に入っていた。前年の天皇賞(秋)でジェンティルドンナを4馬身突き放し、年明けの中山記念を圧勝。さらにドバイデューティフリーでは6馬身1/4差のレコード勝ち。海外GⅠを制し、福永騎手とともに安田記念を凱旋レースに選んだ。

ところが──その福永騎手が直前に騎乗停止処分。急遽、代打騎乗に指名されたのが48歳の柴田善騎手だった。

「ニュース見た時、善臣さん、すごいプレッシャーだろうなって思いました」

当時は柴田善騎手の実績をよく知らなかった菰田さんも、戦績を調べて「なるほど、この人なら任せられる」と納得したという。

小雨の降る不良馬場で行われた安田記念。直線は、内のジャスタウェイと外のグランプリボスの激しい叩き合い。馬体がぴったり合ったまま最後まで譲らず、ジャスタウェイがハナ差で勝ち切った。ウイニングランで戻ってきた泥だらけの柴田善騎手を見た瞬間、菰田さんは胸が熱くなった。プレッシャーから解き放たれた、彼のホッとした笑顔が印象的だった。

「同年代の善臣さんを見て、俺もまだまだ頑張らないといけないなって思ったんですよ」

それ以来、パドックで善臣騎手の姿を見かけると、不思議と元気が湧いてくるのだという。

そして──私のベストレース・1990年中山記念

90年代前半。

午後の特別レース、重賞レースは岡部幸雄、南井克己、柴田政人といった円熟の騎手たちが上位を独占し、若手では武豊騎手が一強状態。その後ろに横山典弘騎手や田中勝春騎手が控えていた時代だった。

後に「芦毛伝説」と語られる、芦毛の名馬たちが多く登場するものの、その鞍上はいつも彼らの顔だった。

そんな華やかな芦毛の主役たちの陰で、私は「異端児ともいえる芦毛馬」に心を奪われていた。

ホクトヘリオス。マイル以下で鋭い差し脚を繰り出す芦毛のオープン馬で、ほとんどのレースで手綱を取っていたのが、若き柴田善騎手だった。

当時の柴田善騎手は、メインに乗っても人気馬に跨ることは少ない。しかしホクトヘリオスだけは違った。人気を背負い、そして惜敗を繰り返す。

マイルCS2着・3着、スプリンターズS3着、安田記念4着——「もし武豊騎手が乗っていたら…」と、つい考えてしまうほどだった。

それでも、私はホクトヘリオスと柴田善騎手のコンビが好きだった。本馬場入場や返し馬で、柴田善騎手に導かれて軽やかに駆けるホクトヘリオスを、ファインダー越しに追う時間がたまらなく楽しかった。

そして90年の春。

7歳(現6歳)になったホクトヘリオスが東京新聞杯を鋭い差し脚で勝ち、続く中山記念へ向かう。この日の柴田善騎手は、ホクトヘリオスと終始息ぴったりだった。

「テンよし・中よし・終いよし」

完璧なリズムで運び、最後は力強く抜け出して中山記念を制した。

あの騎乗を見た時、「この騎手はそのうち大きな舞台で活躍するはずだ」という予感が芽生えた。

私にとっての「柴田善臣騎手のベストレース」は、今でも真っ先に90年の中山記念が浮かぶ。

それぞれの胸にある「善臣との時間」

それぞれが、それぞれの場所で、柴田善騎手を見てきた。

「善臣なら、きっとやってくれる」

そう信じて馬券を握り、テレビの前で叫び、パドックで彼の背中を追い続けてきた。

柴田善騎手の立ち位置が、時代とともに少しずつ変わっていくように、応援してきた者たちも、いつの間にか最前列のセンターから少しずつ後ろへと場所を移しながら、それでも変わらず、彼の姿を探し続けてきた。

パドックで柴田善騎手を見つけると、「俺たちも、もうひとがんばり」。そんな気持ちが自然と湧いてきた。あれは、ただの応援ではなく、人生の背中を押してもらうような感覚だったのだと思う。

柴田善騎手の現役引退は、ひとつの時代の区切りである。しかし区切りは終わりではない。次のステージで彼がまた新しい景色を見せてくれるなら、彼を応援してきた者たちも、その様子を見ながら、もう少しだけ前へ進んでいける。

それが、競馬をいつまでも楽しむための「心得」である。

Photo by I.Natsume

あなたにおすすめの記事