2021年6月13日、東京競馬場第9レース。観客が、そしてネット上が大きなどよめきに包まれていた。
シンガリ人気、単勝333.5倍のリキサンダイオーが2番手から直線押し切って勝ち星を挙げたのだ。
いつも冷静なグリーンチャンネルの司会者が、いつもよりやや高揚した声で勝ち馬プロフィールを読み上げた。
「勝ちましたリキサンダイオーは、父キングカメハメハ、母リキサンピュアティ、その母プリンセスリーベですから、2004年京都大賞典、2005年京都記念の重賞2勝、ナリタセンチュリーの甥にあたる血統……」
不意を突かれた。
こんなところでナリタセンチュリーの名前を聞くとは。
二人三脚
私を競馬に連れてきてくれたステイゴールドが2002年、淀の引退式でターフを去ってから彼の仔がデビューするまでの間、たくさんの名馬が私を競馬に引き留めてくれた。
その中でも「ステイゴールド=熊沢重文騎手」派だった私の琴線に触れたのが、「ナリタセンチュリー=田島裕和騎手」のコンビだった。
私が単純なだけかもしれない。「判官びいき」が強いのかもしれない。しかし騎乗数が年間3ケタにも届かなくなった田島騎手が、遅咲きのナリタセンチュリーとともに、眼前にたった一本垂れて参った蜘蛛の糸を手繰り寄せるがごとく高みを目指していく過程は、肩入れせずにいられなかった。
ナリタセンチュリーは、父トニービン、母プリンセスリーベの初仔として、1999年3月20日に北海道早来町(現安平町)のノーザンファームで生まれた。
当歳時のセレクトセールにおいて、2,152万円で「ナリタ」「オースミ」の冠名で名を馳せる山路秀則オーナーが落札。ナリタブライアンのクラシック三冠から5年後のことであった。そしてナリタセンチュリー栗東の藤沢則雄厩舎に入厩──当時厩舎所属だったのが、田島裕和騎手である。
1974年有馬記念、ともに引退レースであったハイセイコーとタケホープを5馬身以上ぶっちぎったタニノチカラの鞍上を務めた田島日出男騎手を父に持ち、今やJRA現役最年長ジョッキーとなった柴田善臣騎手らとともに1985年、競馬学校1期生として騎手デビューを果たした田島騎手。
田島騎手は地道にキャリアを重ね、90年代後半には快速馬スギノハヤカゼで重賞4勝。96年スワンステークスでは芝1400m1:19.3の大レコードをたたき出すなど、GⅠ制覇にあと一歩のところまで迫ったが、本番では運と馬場とに泣かされ続けた。
98年の高松宮記念。半年前、同じ中京競馬場のCBC賞を良馬場1分7秒9でぶっちぎった田島騎手とスギノハヤカゼはやや重の馬場で1分10秒8の11着に沈んだ。スギノハヤカゼは渋った馬場を苦手にしていた。
「GⅠの時計じゃないよ」
翌朝のスポーツ紙、田島騎手の悔しさがにじみ出たコメントが忘れられない。
その後、落馬による長期離脱もあってか田島騎手の騎乗数は激減。21世紀を迎えるころには年間騎乗数二桁、そして年間勝ち鞍一桁という状況だった。
一方で田島騎手は当時としては珍しく、インターネット上に自らのホームページ「tajihiro HP」を、自らの管理のもとで開設していた。Twitterもインスタグラムもない時代、「タジヒロ」騎手が飾らない文章でつづった「diary」は、外部のファンが当事者の思いに直接触れられる、数少ない「窓」であった。私も、更新を楽しみにしていた。
3歳3月に初勝利を挙げたナリタセンチュリーは4歳春に500万下、1000万下を連勝。夏の降級を挟んでさらに1000万下、1000万下、1600万下と勝どきを上げ、都合6勝を積み上げて5歳春、オープン馬の仲間入りを果たした。もちろん勝ち星はすべて田島裕和騎手の手綱である。
「diary」には田島騎手の期待が溢れはじめた。
(前略)
特に今年は「ナリタセンリュリー」で重賞を勝ちに行きます。この馬は非常にうるさく調教助手を振り落とし病院送り、私自身も1回だけ調教中に落とされました。普通の馬は驚いたり、物を見て暴れて落馬するのですが、この馬はわざと鞍上を落としに来るのです。私が落とされた時は、ロデオしていきなり止まり、何回も立ち上がり、その時馬の頚に顔面を強打して落とされました。
落馬して落とされると馬は逃げて行くのですが「ナリタセンチュリー」は逃げずに私の前に立ち上から見下してるのです。その事を思い出したら今でも屈辱です。でも、それだけ気が強いからどんなレースも出来るから安心です。
次走は3月7日の中京記念の予定ですので応援して下さい。
──tajihiro HP「diary」 2004年2月15日
重賞初挑戦となった芝2000mの中京記念。中段から内をさばいて猛然と差し込んだが、単勝161.9倍のシンガリ人気、メイショウキオウの逃げをとらえきれず2着に終わった。「差し損ね」にも見えた。
期待の愛馬「ナリタセンチュリー」は、中京記念では残念ながら勝てなく2着でした・・・ すみません。
(中略)
最後の直線で有力馬を視線に入れた時「よし」と思って追っていたのですが、まさかあの馬が逃げ残るとは思っていませんでした。全くの予想外でした。
──tajihiro HP「diary」 2004年3月8日
更に次走のGⅡ産経大阪杯では見せ場なく敗れたナリタセンチュリー。春の大目標、天皇賞(春)を前に、地方名古屋の吉田稔騎手に乗り替わりとなってしまう。
田島騎手の「diary」は、4月20日の投稿を最後に、約2か月の間、更新されることはなかった。