アメリカジョッキーズクラブカップ(以下、AJCCと略)は、1960年に日本競馬とアメリカ競馬との友好関係の一環として、ニューヨークジョッキークラブから優勝杯の贈呈を受けて創設されたレースである。1984年より芝2200m戦(1984年は降雪のためダート1800m戦で実施)で行われるようになり、中距離を得意とする馬達が狙うレースとして親しまれるようになった。
ただ、創設から1983年までは東京競馬場の芝2400mや中山競馬場の芝2500mで行われていたAJCC。天皇賞・春に向けてのステップレースとして使われることも多く、スピードシンボリ(1967年)やタケホープ(1974年)などが、AJCCをステップに同じ年の天皇賞・春を制している。
今回はその中から3頭を取り上げたい。
※馬齢はすべて現在の表記に統一しています。
アンバーシャダイ(1983年)
ノーザンファームをはじめとする社台グループは、サンデーサイレンスとディープインパクトなどの成功した種牡馬を所有していた名門である。しかし、一時期は社台グループが導入した種牡馬が不振を極め、1975年に種牡馬として輸入したノーザンテーストが成功しなかったら、社台グループの経営は窮地に追いやられていたかもしれない……という声もある。
そのノーザンテーストの初年度産駒として生まれた1頭が、このアンバーシャダイである。
生まれた直後には別の馬主に購買されていたものの、0歳時に獣医師がサジを投げるほどの裂傷を負い、競走馬としての将来を危ぶまれたために、購買がキャンセルされた。その後、社台ファームの吉田善哉氏の所有馬になったものの、怪我から1年近くは調教を行わず、放牧地で過ごす日々が続く。2歳になり一度は栗東トレーニングセンターに入厩したものの、預けた調教師が急死。吉田氏と親しい美浦トレーニングセンターの名門・二本柳俊夫厩舎に転厩したものの、怪我の経験や見栄えのしない馬体から嫌われ、担当の厩務員がなかなか決まらなかったという。
そんなアンバーシャダイであったが、3歳(1980年)の1月にデビュー。2戦目の芝1600m戦で勝ち上がり、日本ダービーにまで出走できたから、競馬は面白いものだ(結果は9着)。3歳秋は菊花賞にも出走せず、自己条件戦で走り、着実に戦績を残した。
アンバーシャダイの名前が広まったレースは4歳(1981年)冬の有馬記念。天皇賞・秋で4着と好走し、目黒記念・秋(当時は春と冬の年2回で施行)を制したアンバーシャダイ。有馬記念では3番人気に支持されたが、二本柳厩舎には天皇賞・秋を制したホウヨウボーイが有馬記念でもって引退となっていた。ホウヨウボーイの背には二本柳厩舎の主戦騎手である加藤和宏騎手。加藤騎手で目黒記念・秋を制したアンバーシャダイの背には東信二騎手が跨った。
ところが、ホウヨウボーイの引退レースとなる有馬記念。直線でホウヨウボーイが先頭に立ち、引退の花道を飾るのか? と思った次の瞬間、アンバーシャダイが一気に伸び、ホウヨウボーイに2馬身1/2(0.4秒)差を付けて先頭でゴールインした。二本柳調教師は複雑な表情を浮かべ、東騎手が困惑する中で、馬主の吉田氏は「ノーザンテーストの時代が到来した」と喜びの表情を浮かべた。
騎手が加藤騎手に戻り5歳(1982年)に行われたAJCC(当時は芝2500mで開催)を制し、アルゼンチン共和国杯(当時は4月の中山競馬場・芝2500mで開催)を2着したアンバーシャダイ。続く天皇賞・春は3番人気に支持されたが、「無冠のプリンス」と言われていた実力馬・モンテプリンスの2着に敗れる。夏にはアメリカ遠征の計画もあったが、脚元の故障のため断念。かわりに毎日王冠(4着)、天皇賞・秋(5着)を使い、連覇を目指して出走した有馬記念では、最後の直線で先頭に立ったものの、大外からヒカリデュールが急襲し、最後はクビ差の2着に終わった。
6歳(1983年)は再びAJCCから始動したアンバーシャダイ。この年のAJCCはアンバーシャダイ以外にもメンバーが揃った。名馬シンザンの子供で1981年の菊花賞を制したミナガワマンナ、1982年の菊花賞を制したホリスキー。さらには1982年の天皇賞・秋を制したメジロティターン、1982年のエリザベス女王杯(当時は3歳牝馬限定で京都競馬場・芝2400mで開催)を制したビクトリアクラウン。その他にも1979年の有馬記念、天皇賞・秋で2着に入った実力馬メジロファントム、弥生賞とオールカマーを制したトドロキヒホウなど、前年の有馬記念に出走した馬達もAJCCに出走した。
この豪華メンバーが揃った中で唯一の負担重量59Kgで出走したアンバーシャダイは1番人気に支持された。そしてレースではミナガワマンナをクビ(0.0秒)差で凌ぎきり、先頭でゴールイン。アンバーシャダイは、前年のAJCC以来1年ぶりの勝利を収めた。
続くアルゼンチン共和国杯は60Kgのハンデが影響したのかミナガワマンナの2着に敗れたアンバーシャダイであったが、天皇賞・春は1番人気に支持された。レースでは直線で早めに先頭に立ったアンバーシャダイを、ホリスキーが猛追。一度はホリスキーが先頭に躍り出たが、残り200mで再び巻き返し、最後はホリスキーに1/2馬身(0.1秒)差を付けて先頭でゴールイン。4度目の挑戦で悲願の天皇盾を獲得した。そして、獲得賞金が史上初の4億円突破と、担当厩務員が決まらなかった2歳時の評価とは一変した結果を得た。
1983年の有馬記念(3着)でもって引退したアンバーシャダイ。ノーザンテーストが種牡馬として成功し人気を集める中、なかなかノーザンテーストに種付けできない生産者から高い人気を得た。2年目の産駒からは弥生賞を制したレインボーアンバーを出し、3年目の産駒には1991年の宝塚記念を制したメジロライアンを輩出。他にも日経新春杯を制したカミノクレッセや中山金杯を連覇したベストタイアップなど活躍馬を送り出した。
ミホシンザン(1987年)
1964年の三冠馬シンザンは種牡馬としても成功を収めた、当時としては異例の名馬だった。日本調教馬で初めて芝2000mのレースで2分の壁を切ったシルバーランド、1981年の菊花賞を制したミナガワマンナなど、内国産種牡馬の評価があまり高くなかった時代でも奮戦した。その中でもシンザンの代表馬といえば、1985年の皐月賞、菊花賞のクラシック二冠と1987年の天皇賞・春を制したミホシンザンが挙げられる。
3歳(1985年)の正月開催の中山競馬でデビューしたミホシンザン。スプリングステークスを含めて無傷の3連勝を成し遂げると、皐月賞では単勝3.9倍の1番人気に支持された。しかし、ミホシンザン自身の体調は良くなかったという。レース直前の調教ではミホシンザンの騎手でもあった柴田政人騎手は直線コース以外では流す程度の動きにとどめた。そんなベストとは言えない状況で、ミホシンザンは2着のスクラムダイナに5馬身(0.8秒)差を付ける圧勝を演じた。
そうして皐月賞を制したミホシンザンだったが、レース翌日に左前脚の骨折が発生。父シンザンに次ぐ親子2代の牡馬三冠への挑戦権は断たれた。しかし骨折の程度は軽度のもので、秋には復帰が実現。復帰初戦のセントライト記念は苦手の不良馬場の中のレースで5着に敗れたが、続く京都新聞杯は勝利した。そして本番の菊花賞では2着のスダホークに1馬身1/4(0.2秒)差を付けての勝利。父シンザンに菊花賞2勝目をプレゼントした。
菊花賞後は有馬記念に出走し、絶対的王者シンボリルドルフの2着に敗れる。年が明け、4歳(1986年)初戦となった日経賞では1番人気に支持されたものの、苦手の重馬場の中、6着に敗れた。しかもレース後には、皐月賞後と同じ左前脚の骨折が判明。秋に復帰したものの、毎日王冠、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念はいずれも3着に終わった。消化不良の内容に、一部の心無いファンからは罵声すら飛んだと言われている。柴田騎手は、この時のミホシンザンを「怪我を恐れて本気で走ることをしなかった」と述懐した。
そしてミホシンザン陣営が5歳(1987年)初戦に選んだのが、AJCCであった。出走馬こそ6頭と小頭数であったが、この年もメンバーは揃っていた。シンボリルドルフと同世代で重賞競走を5勝挙げているスズパレード、前年の天皇賞・春を制したクシロキング、ミホシンザンの同世代で皐月賞・菊花賞3着のサクラサニーオーなどが出走。単勝オッズはミホシンザンが1.5倍の1番人気。以下スズパレード(3.7倍)、クシロキング(4.9倍)、サクラサニーオー(9.6倍)と続いた。
典型的な逃げ馬が不在で、どの馬が逃げるのかが注目されたが、ゲートが開くとメンバー唯一の59Kgの負担重量であったミホシンザンがハナを主張した。それまでは差す競馬で力を発揮していたミホシンザンがそのまま先頭に立ち、サクラサニーオーが2番手に。3番手にはメジロディッシュとクシロキング、そしてスズパレードが続き、最後方では追い込みに賭けるマウントニゾンが機を窺う。ミホシンザンが逃げる事もあってペースが上がらず、良馬場で行われる中、前半1000mの通過タイムが63.9秒の超が付くほどのスローペースであった。
バックストレッチから3コーナーに掛けてペースが11秒台にペースを上げたミホシンザンが、そのまま先頭で直線に入る。クシロキング、スズパレードが迫ってくるが、逃げ足は衰えない。結局、ミホシンザンがそのまま先頭でゴール板を駆け抜けた。スズパレードとクシロキングの2番手争いを尻目に1馬身(0.2秒)差を付けてのゴールイン。菊花賞以来1年2か月ぶりの勝利は、ミホシンザン自身にとっては初となる逃げで掴み取った。
AJCCで「ミホシンザン健在なり」をアピールし、次に狙うは父シンザンが達成した天皇賞の制覇である。続いて出走した日経賞は前年の日本ダービー、有馬記念を制したダイナガリバーなどの強豪が揃ったが、2着のジュサブロー(3番人気)に5馬身(0.8秒)差を付けてゴール。昨年のもどかしい結果を払拭して強いミホシンザンが戻り、天皇賞・春では単勝1.3倍の圧倒的な支持を得ることとなった。
しかし、日経賞以降ミホシンザンの状態が下降し、脚元の不安がまたしても出始めていた。レースは2周目の4コーナー。それまで外を走っていたミホシンザンが馬場のインコースに進路を取る。馬場の大外に進路を取ったニシノライデンやアサヒエンペラーとは対照的であった。ミホシンザンとニシノライデンが内と外に大きく分かれてゴール板を通過。辛うじてミホシンザンがハナ差凌ぎ切って、シンザンとの親子での天皇賞制覇となった。なお、2位入線のニシノライデンは進路妨害のため失格。GI級のレースで2着までに入線した馬が審議の結果失格処分となったのは初めての事だった。
天皇賞・春のレース直後はかけ足する事も困難な具合にまで疲労が溜まったミホシンザンは、天皇賞・春で引退し、種牡馬入りした。種牡馬になってからはNHK杯と朝日チャレンジカップを制したマイシンザン、愛知杯(当時は父内国産馬限定競走)を制したグランドシンザンを送り出した。
メジロブライト(1998年)
アンバーシャダイの子供であるメジロライアンは1992年のAJCCに出走したが、親子制覇は達成できなかった(トウショウファルコの6着)。そして引退後には種牡馬入りし、オークスなどG1レース5勝をしたメジロドーベルらを送り出した。メジロライアンの牝馬の代表産駒がメジロドーベルであるとすれば、牡馬の代表産駒にはメジロブライトを挙げる人も多いだろう。
2歳時(1996年)にはラジオたんぱ杯3歳ステークス(現在のホープフルステークス 当時はG3レース)を制したメジロブライト。翌3歳(1997年)には共同通信杯4歳ステークス(現在の共同通信杯)も制し、牡馬クラシックの主役として名乗りを上げた。しかし皐月賞、日本ダービーで1番人気に、菊花賞では2番人気に支持されたが、いずれも3着に終わった。
メジロブライトにとってターニングポイントとなったのは、3歳12月のステイヤーズステークスであった。これまで主戦騎手を務めてきた松永幹夫騎手がステイヤーズステークス当日、ワールドスーパージョッキーズシリーズという騎手の大会に出場するため乗れず、河内洋騎手が乗る事となったのである。そして新コンビの河内騎手とのコンビで出走したメジロブライトは、2着に1.8秒差の大差を付け快勝した。
ステイヤーズステークスで結果を出した河内騎手とメジロブライトとのコンビは4歳(1998年)の初戦にAJCCを選んだ。牡馬クラシックで善戦をし、ステイヤーズステークスで圧勝したメジロブライトは単勝1.8倍の1番人気に。2番人気には前年の覇者ローゼンカバリー(3.3倍)、3番人気には上がり馬のキラージョー(8.0倍)と続いた。
スタートはまずまずのスタートを切ったメジロブライトだが、後方からの競馬を選択。ローゼンカバリー、キラージョーは中団からの競馬、1コーナーを回るときにはメジロブライトは最後方からの競馬となった。前半1000mの通過タイムが62.9秒。前を行くマウンテンストーンから最後方を進むメジロブライトまではひと固まりとなって、3コーナーへと進む。
残り800mの標識を通過すると、前を行くマウンテンストーンにローゼンカバリーが並んできた。メジロブライトは依然として後ろから2番手。果たして直線で差し切ることができるのかというポジションだった。そしてラチ沿いの残雪を見ながら4コーナーを回り、最後の直線に入る。
中山競馬場の直線は短い。マウンテンストーンを交わしてローゼンカバリーが先頭に躍り出る。すると、すぐ外にはマイネルブリッジがやって来た。さらに外からメジロブライトが進出してきた。残り200mの標識を通過すると、メジロブライトのエンジンが全開。マイネルブリッジやローゼンカバリーを瞬く間に交わし、先頭に躍り出る。上がり3ハロンのタイムがメンバー中最速の34.5秒(2番目に速かったのはマイネルブリッジの35.4秒)の脚を披露し、マイネルブリッジに2馬身1/2差を付けてゴールした。
ステイヤーズステークスに次ぐ重賞連勝を果たしたメジロブライト。3歳時の詰めの甘さを払拭し、春の最大目標である天皇賞・春の有力馬に名乗りを上げた。続く阪神大賞典はシルクジャスティスをゴール手前で差し切り重賞3連勝。
天皇賞・春はシルクジャスティスの2番人気となったが、2周目第3コーナーの坂から徐々に進出。2着のステイゴールドに2馬身(0.3秒)差を付けて先頭でゴール。父メジロライアンが果たせなかった天皇賞制覇となった。
その後はG1レースの制覇こそなかったものの、有馬記念2着、翌年の天皇賞・春2着と芝中長距離界で主役を担ったメジロブライト。6歳(2000年)の秋の京都大賞典でもって引退し、種牡馬入りとなった。2004年5月に急死したが、マキハタサイボーグがステイヤーズステークスを制し、親子でステイヤーズステークス制覇となった。
写真:かず