障害競走略史〜世界と日本、そして〜

日本の中央競馬では、年間約3400もの数のレースが開催される。

これらのレースは多種多様な競馬場、コース形状、距離、出走条件、賞金額で開催される。JRAに所属するおよそ8000頭のサラブレッド達は、それぞれに自分に適したレースに出走し、毎週末ごとに我々競馬ファンの心を大いに揺さぶり、熱くさせ、時には歓喜させ、また時には絶望の底に叩き込む。

これらのレースを各種の条件ごとに分類するとすれば、日本競馬の場合は大きく分けて以下の5つの「路線」に分類されるのではないだろうか。

すなわち、主に2000〜3200mの距離のレースからなる「中長距離路線」。
1200mのスプリント戦と 1600mのマイル戦を中心とした「短距離路線」。
砂の上のダートコースを走る「ダート路線」
出走馬が牝馬に限定される「牝馬路線」。

そして──ハードルや急坂などの障害物が置かれたコースを走る「障害路線」。

以上5つとなる。

もちろんさらに細かい距離別の分類や、もしくは馬齢ごとなどの異なる分類が必要になる場合もあるが、大枠として以上のような分類をする場合が多いはずだ。

現状、この5つの路線の中でも最も格が高いのが中長距離路線という風潮が強い。

牡馬クラシック3冠レースや、天皇賞や有馬記念に代表される古馬王道レースは、全て2000mから3200mの距離条件で行われる。日本競馬において1着賞金が1億2000万円を超える高額賞金レースは計8レース存在するが、その全てがこの路線のレースで占められる。

この中長距離路線を制する馬が日本競馬における頂点に立つと言って差し支えないはずだ。近年では長距離と中距離の路線分離化傾向も進みつつあるものの、まだまだ日本競馬においては、この範囲のビッグレースを距離不問でことごとく勝てる馬ことこそが『真のチャンピオンホースである』という信仰が根強い。

──では逆に、最も格の低い路線は何か?

異論反論もあるだろうことは承知の上で、ここでは敢えて語弊を恐れず断言しておきたい。

個々人の思い入れを排して、あくまで客観的指標で見るとするなら……その答えは「障害競走路線」だろう。 

世界における、障害競走の歴史

障害競走の歴史は古く、その発祥は1752年にアイルランドにおいて二人の男の間で行われたマッチレースに遡るという説がある。コーネリアス・オカラガンとエドマンド・ブレークという名の二人の男が、どちらの愛馬が優秀かで言い争いになり、賭けレースで決着をつけることになった。レースは2つの教会の間を結ぶおよそ6kmにおよぶ原野で行われ、その道程は牧場の囲いの柵や小川などを越えて走る天然の障害コースであった(*1)。この「世界初」の障害競走に二人のどちらが勝利したかは記録には残っておらず、レースの勝者には敗者からワイン樽が渡されたことだけが歴史に残っている。

無論、数千年前に人類が馬を乗用動物として使役し始めて以来、馬の走力を競うこと自体は地球上の至る所で行われてきた。その中には障害競走の形をとっていたものも数多く存在しただろう。

おそらく、同時期にも似た様な賭けレースは定期的に行われていたと推測され、オカラガンとブレークの2人のレースが「世界初」や「発祥」とされるのは多分に伝説的な要素を含んだ話であろう。

しかしながら、少なくともこの時期のアイルランドにて現代の障害競走に直接つながるレースの原型が生まれたことは確かなようである。

*1:現在でも障害競走を英語ではスティープルチェイスと呼ぶが、これはこの時代の障害競走の多くがオカラガンとブレークのそれと同様に、教会の尖塔(steeple)をゴールの目印にしたことが由来とされている。

平地競馬がジョッキークラブの統括のもと専用の競馬場で規則にのっとり行われたのと大きく異なり、障害競走はその発祥に倣うかのように馬の所有者同士の私的な取り決めによって開催され、主に未整備の原野にてクロスカントリー型競走として行われていた。必然として、平地競走に比べ事故が多発し、貴族社会からは馬資源の浪費であるとの批判も多くあったと言われている。しかしながら平地競走には無いその荒々しい魅力は、イギリスとアイルランドを中心として民衆からの熱烈な人気を集め、平地競走とは異なる独自の文化として発展していった。

また、統括団体を持たずルールの統一もなされていない障害競走ではしばしば不正が横行したと言う。「紳士のスポーツ」として競馬の近代化を進めてきたジョッキークラブは平地競走を管理する一方で、障害競走の「いかがわしさ」からは距離を置き、「正式な競馬」として認めることはなかったと言われている。

しかしながら大衆人気の高い障害競走の持つ興行的資源は無視できるものではなく、19世紀に入ると各地の競馬場でも障害競走が開催されるようになる。さらに1830年頃には障害競走専門の競馬場もいくつか作られ、1836年にはイギリスのエイントリー競馬場にて現在も続く世界最大の障害競走であるグランドナショナルの第一回が開催された(*2)。

そしてそのさらに30年後の1866年、障害競走の統一機関であるナショナル・ハント・コミッティーが誕生し(*3)、これにより近代競馬としての障害競走が始まったとされる。

*2:ただし何故か1836年から1838年までの3度のレースまで開催回数のカウントはされておらず、単に「第1回グランドナショナル」と言うと実際には4回目の1839年のレースを指す。
*3:なお、このナショナル・ハント・コミッティーは1969年にジョッキークラブの傘下に統合されている。

それから、約一世紀半。

現在、レースの賞金額で言えばイギリス・アイルランドともに平地競走が障害競走を大きく上回っている。これは馬主同士が競い合う貴族のギャンブルスポーツとしては平地競走が障害競走に比べ高い「格」を持つことを意味しているのではないだろうか。

しかし一方で、現代でも、こと『大衆人気』という観点で言えば英愛両国ともに障害競走が平地競走を凌駕するらしい。

英愛競馬の馬券売り上げの上位20位のうち実に19のレースが障害競走で占められ、平地競走は英ダービーが7位程度に入るのみである。売り上げ1位のグランドナショナルはイギリス国内はおろか、全世界でも最も馬券が売れるレースの1つに数えられる一大イベントである。

イギリスの伝統ある競馬新聞レーシングポストが今世紀初頭に企画した「20世紀の人気競走馬100選」では、上位4頭を障害馬が独占する結果となった。

近代競馬発祥の地であるイギリスにおいて、平地競走は王室も参加する格式高い貴族文化として発展してきたが、大衆文化としての人気は今でも障害競走が圧倒しているのである。

日本における、障害競走の歴史

さて、一方で日本競馬における障害競走についても触れていこうと思う。

そもそも、日本における近代競馬の歴史は、江戸時代末期の横浜外国人居留地にて、イギリス人が大半を占める居留外国人らがレクリエーションの一環として始めた「居留地競馬」にその源流があるとされる。

資料に残る最古の居留地競馬記録として、1860年9月1日の開催まで遡ることができるが、この日のレースの中に平地競走に混じって障害競走が含まれていたことが当時横浜居留地に滞在していたアメリカ人商人の手記の中に記されている。イギリスからの輸入文化として始まった日本近代競馬の歴史において、障害競走の始まりは日本近代競馬の始まりと同時だったということになる。

その後日本各地で、居留地競馬を模倣する形で西洋式の競馬が開催され、日本にも競馬文化が広く定着しはじめる。その後も馬券に対する法律上の紆余曲折などもあり幾度かの衰退はありながらも、様々な有志らの尽力により日本競馬は発展を続けた。

1923年には競馬法が成立し、競馬が正式な国家公認賭博として認められるに至った。その後、1932年に東京優駿大競走、すなわち日本ダービーの第一回が開催され、さらに1936年に現・JRAの前身である日本競馬会が特殊法人として設立されたことで、現在も続く日本競馬の枠組みのおおよそが完成するに至る。

しかしながら、その流れのなかで、こと障害競走に関して言えば、その発展具合は平地競走のそれに比べると決して芳しいものではなかった。当時障害競走は一貫して極々限られた数のレースしか開催されておらず、わずかに施行されたレースも通常の平地コースに小さなハードルをいくつか並べただけのレベルの低いものがほとんどだったとされている。

居留地競馬を主催していた外国人らの趣味嗜好が大元の原因か、それとも馬資源の浪費を嫌った馬主らの意向があったのか──理由は定かではないが、黎明期の日本競馬において障害競走が平地競走に比べ発展が大きく遅れていたことだけは間違いない。

そうした状況を変えたのは、当時の軍部からの要請だった。

そもそも、賭博が原則的に禁止されている日本において早い段階から競馬が合法賭博として認められたのは軍事的理由が色濃い。日清、日露戦争でおよそ300年ぶりの本格的な対外戦争を経験した日本は、自軍が擁する軍馬が質・量ともに大陸諸国のそれと比べて大きく劣ることに気づかされ、国内の馬匹改良が急務であると考えた。

当然だが、馬はその生産と育成に相応の時間を要する。そのため、戦争が起こってから準備を始めるようではとても間に合うものではない。そこで平時における馬資源の確保と馬産振興のために競馬活用が提言されたのである。1905年の馬券販売の黙許通達、1906年の帝室御賞典(*4)創設、そして1923年の競馬法成立。これらを始めとする20世紀初頭における政府の競馬振興政策は、実のところ軍馬育成こそがその最大名目だったのだ(そのために尽力した当事者らの本音はともかくとして:*5)。

*4:後の天皇賞に繋がる日本最古の大レースと言える。勝ち馬には明治天皇から賞品が下賜された。
*5:その後、競馬法成立のために東奔西走した各地の競馬倶楽部の主要面々は、頑丈で環境変化にも強いアラブ種による競走よりも、スピード能力に勝るが繊細で飼育も難しく本来軍馬に向かないはずのサラブレッド競走の充実を進めている。

軍馬育成の目的に鑑みれば、単純なスピード能力が求められる平地競走だけでなく、原野の走破能力の選定にもなる障害競走の拡充が必要だった。当時の陸軍は各地の競馬倶楽部に対し障害競走数の増加を要請した(*6)。

これを受け、競馬法成立翌年1924年には平地競走の10分の1以下の回数しかなかった障害競走が、1935年には平地競走1075回に対して403回と大幅に増加している。その前年の1934年には中山競馬場にて高さ150cmを超える大型の固定障害や、高低差4mの坂路を備えた本格的な障害コースが完成し、同年12月には現在も続く中山大障害の第一回(*7)が開催されている。現在、日本中央競馬では計26のG1レースが施行されているが、その中でも中山大障害は日本ダービーに次ぎ2番目に長い伝統を持つレースである(*8)。

*6:この時、軍からは障害競走拡充と同時に、アラブ競走と繋駕速歩競走の拡充も同時に要請されている。この2競走が現代では既に廃止されているのはご存知の通り。
*7:第一回当時の名称は大障碍特別競走。
*8:前述の通り、天皇賞をその前身の1つである帝室御賞典まで遡るのならこれが東京優駿に先んじた最古の大レースとなるが、当時「帝室御賞典」の名称で施行されていたレースは全国各地の競馬場で年間合計10走存在し、各競馬倶楽部がそれぞれに独自に定めた条件で行われていた。これが1つに統合されたのが1937年であり、JRAはこのレースをもって「第一回天皇賞」と定めている。

このようにして平地競走に遅れる形で発展を始めた障害競走。

しかしながら、英愛の例に見るように自然発生的な独自文化として発展した欧州の障害競走とは異なり、外部からの要請により後付け的に加えられた日本の障害競走は、あくまで平地競走の傍流という位置付けから脱することは無かった。

終戦後、軍馬育成の名目も失われた障害競馬は、平地競走で勝てない馬達に対する救済措置の受け皿としての役割を担うことも多くなった。一部の競馬ファンらからは「劣った馬達の出るレース」と見なされ、障害競走人気は減少の一途を辿った。

1984年にJRAは欧米に倣いグレード制を導入し、各種重賞レースにG1からG3までの3段階の格付けを与えた。また、それに伴う形で従来は特別に格の高い大レース(*9)に限り行われていた全国馬券発売が、全重賞競走に対して適用されるようになった。しかしながら、人気の低い障害競走はこの政策の対象から外されることとなり、これがさらなる障害人気の低下を招く結果となった。

馬券の売り上げによって支えられている日本競馬の場合、馬券売り上げの低いレースが冷遇されるのは仕方のないことではある。

売り上げが悪いから冷遇され、冷遇されることでさらに人気が下がる。そんな負のスパイラルに障害競走は完全に陥っていた。

*9:この「大レース」の中には中山大障害も含まれていた。

1980年代後半にはオグリキャップの活躍に端を発する第二次競馬ブームが巻き起こり、90年代に入ると日本競馬は「最も馬券が売れた時代」と呼ばれる黄金期を迎える。世間がバブル崩壊で不景気に陥る中、JRAの馬券売り上げは増加の一途を辿った。

しかしそんな中でも、平地競走と障害競走との格差は、開く一方だった。

90年代半ばには、その競走数は中央競馬約3400レースの内およそ130という数にまで激減し、創設当初は東京優駿と並ぶ国内最高賞金額レースとして始まったはずの中山大障害も、その一着賞金は日本ダービーのそれが1億5000万を超えるのを尻目にわずか5700万円に留まっていた。

象徴的なのが1995年の中山大障害(秋)である。

この年の出走頭数はわずか6頭立て。レース中の落馬転倒により半数の3頭が競走を中止し、中盤以降のレースは3頭のみで行われた。

落馬自体は障害競走につきものではあり、それが障害競走の衰退を象徴しているというのは暴論に過ぎるが、出走馬が集まらず、完走した全馬が馬券内に入るという結果は、一年間の総決算たる大レースのそれとしては余りに寂しい内容だった。

この当時、一部では障害競走廃止の噂がかなりの現実味をもって囁かれていた。

競馬人気の高まりによりサラブレッドの生産数が向上し、その結果として各レースの出走登録馬の数が増え、出走枠のパンクが問題化しはじめていたのだ。

中央競馬のレース数は競馬法との関連があり、JRAの独断では簡単に増減できない。そこで出走頭数も少なく馬券売り上げも悪い障害競走を廃止し、浮いた分のレース数の枠を平地競走に充てるべきだという声が少なくなかったのである。

そして1995年、競馬界に衝撃的な事件が起こる。
中央競馬からアラブ系競走が完全に廃止されたのだ。

アラブ馬およびサラブレッドとの混血種であるアングロアラブ馬は、サラブレッドに比べスピード能力が大きく劣るものの、心身ともに頑丈で維持管理も比較的容易なため、サラブレッド生産が発展途上だった頃には地方競馬を中心に大きな需要があった。

60年代前半頃までは中央競馬でさえ、全レースのうち半数近くがアラブ系競走だったのだ。

しかし競馬文化の発展が進み国内のサラブレッド生産環境が整ってくると、その需要は急速に薄れていった。レースにおいてもサラブレッド競走に比べて格下と見なされるアラブ系競走の人気は、障害競走に輪をかけて低迷していたのである。

アラブ系競走が廃止されたことにより、それに次ぐ不人気カテゴリーである障害競走の廃止もいよいよ現実味を帯び始めた。

「次は障害競走の番かもしれない……」

そう覚悟した障害馬関係者や障害競走ファンの数は決して少なくなかったはずである。
その状況が一変したのは、そのわずか一年後のことだった。

1996年5月、当時のJRA理事長でありアラブ系競走の廃止を決定した京谷昭夫氏が呼吸不全のため理事長職の任期中に急逝した。
急遽後任に就いたのが、農林水産省の事務次官を務めた経験もある浜口義曠氏。そして、この人事が障害競走界を救うことになる。

浜口氏は理事長職に就くや否や、次々と障害競走振興策を打ち出し始めたのだ。

99年には障害競走に対しても独自のジャンプグレード制が導入され、各種の障害重賞も名称および競走条件の変更により大きく改組された。

中でも従来春秋に年2度行われていた中山大障害の内、春のレースが中山グランドジャンプと名を変え、障害競走としては世界でも初の国際招待競走となったのは大きなニュースとなった。

出走賞金も増額され、中山大障害の一着賞金は──有馬記念や日本ダービーなどの国内最大級レースとは流石に比較にならないものの──前年までの5700万円から8000万円へと大幅に増額された。

かねてからの課題であった出走頭数も改善され、2000年には中山大障害が創設以来初めてのフルゲートで行われるという大成功を見た。

他にも障害専門騎手・調教師の育成や調教施設の充実などのハード面での長期的な改革案も提言され、数年前まで崖っぷちに立たされていた障害競走はにわかに息を吹き返した。

しかし、それも長くは続かなかった。
ジャンプグレード制導入前年の98年、中央競馬全体の馬券売り上げが前年度比で95%という結果となった。

1954年のJRA設立以来、中央競馬の売り上げはこれまでほぼ常に前年比プラスで成長を続けてきた中での出来事だった。
例外は、設立2年目の55年と阪神大震災のあった95年の二度のみ。
それも1%程度の減少だ。

そんなJRAにとって前年比5%減は衝撃的な数字だった。

この件で農水省の不興を買い、JRA内部でも発言力を低下させた浜口理事長は、翌年の99年、障害改革元年の9月に、JG1を冠した中山大障害の開催を見届けることなく理事長職から退いている。

この年もJRAの馬券売り上げは前年比96%。それ以降も売り上げの減少は続き、以降日本競馬は、スターホースが生まれようが名勝負が繰り広げられようが馬券の種類が増えようが、売り上げ減少が全く止まらないという悪夢のような時代に突入する(*10)。

浜口氏が残した改革により一時的に復活した障害競走だが、当の旗振り手である浜口氏がJRAを去ったことで障害競走振興の流れは事実上凍結された。グレード制導入により形だけは大きく変わった障害競走だが、実質的な状況は『浜口時代』以前に逆戻りしたと言って良い。

*10:この売り上げ減は2011年まで長く続くこととなり、この年の年度総売り上げは最盛期の57%まで落ち込むという壊滅的な数字に至った。結果的には浜口氏の運営手腕云々とは無関係に、日本全体の景気低迷の波が遅まきながら競馬界にも及んだというだけの話だったのだろう。

近年の日本障害競走について

本稿の冒頭部で「日本競馬で最も格の低い路線は障害競走路線だ」と述べた。
その根拠が何かといえば、およそあらゆる客観的指標がその事実を示している。

現在、J・G1である中山大障害および中山グランドジャンプの一着賞金は改革時の8000万円から6600万円まで減額されている。

これより低額のG1レースは牝馬限定の2歳G1である阪神ジュベナイルフィリーズのみであり、古馬混合G1で1億を切っているのは両J・G1の2レースだけである。

J・G1以外の障害競走も概ね似たような状況にあり、悪夢のような減益が続く中でも平地競走の賞金減額だけはされない一方で、障害競走に対してだけは一律した減額が淡々と進められた。

改革時には目玉施作の1つであった中山グランドジャンプも、いつのまにやら外国馬招待制度は廃止され、平場のレースはローカル開催へと押しやられている。

JRAが発行するポスター等のG1競走一覧でも、多くの場合、中山大障害と中山グランドジャンプの両J・G1は省略され、毎年季節ごとに作られるG1レース用テレビCMの中に、J・G1が含まれることは無い。
JRAの公式ウェブサイトでは、トップページに通常その週開催の重賞競走が記載されるが、J・G1以外の障害重賞はここに名前を載せることがない。
JRAの障害競走に対する冷遇は、率直に言えば多くの競馬ファンの障害競走に対する関心の低さの反映と言えるだろう。

馬券売り上げにおける平地競走との差は、賞金額の差どころではない。

例えば、2016年。

全平地G1レースの馬券売り上げの平均がおよそ170億円前後であり、最高額が有馬記念の約459億、最低額の阪神ジュベナイルフィリーズが121億だ。

それに対し中山大障害と中山グランドジャンプはと言えば、15億円を少し超えた程度である。

桁が一つ違うのだ。繰り返すが、日本競馬が馬券売り上げに支えられている以上、売り上げの低い障害競走が冷遇されること自体は仕方のないことではあるのだ。

これが、障害競走の現実である。
いつまた廃止論が声高に叫ばれるようになってもおかしくないのが、障害競走をとりまく現状なのである。

しかし、である。
そんな障害界が、突如現れた一頭の競走馬によって少しずつ変わり始めている。

言うまでもなく、ご存知オジュウチョウサンの存在だ。

本稿にてオジュウチョウサンの障害史に残る戦績と、日本競馬史に残るであろう挑戦の記録について、あえて多くは語らない。ここで注目したいのは彼の成績そのものについてではなく、彼が障害界に与えた影響についてである。

1つのデータを示す。以下はオジュウチョウサンが2016年から2018年にかけて果たした中山大障害コース5連覇記録(*10)における、各レースの馬券売り上げである。

*11:中山大障害コース連覇記録はフジノオーとグランドマーチスの持つ4連覇が従来の最高記録。

 2016年 中山GJ    15億4805万8400円

 2016年 中山大障害    15億1124万1000円

 2017年 中山GJ    20億5299万8000円

 2017年 中山大障害    22億379万9500円

 2018年 中山GJ    22億6885万2000円

2015年以前の両J・G1の馬券売り上げに関しては、2016年時と同様に15億前後を推移している。
この3年間にかけて起こった大幅な売り上げ増は、とりもなおさずオジュウチョウサンの功績であると言えるだろう。そもそも、中山大障害の最高売り上げ記録そのものが1974年の約26億円にまで遡らなくてはならないのだ。

オジュウチョウサンの走りによって、平成以降の競馬史において、かつてない程の注目が障害競走界に集められているのである。

そしてさらに注目すべきは、オジュウチョウサンが有馬記念出走のために回避した2018年の中山大障害の売り上げだ。

 2018年 中山大障害    20億1892万1200円

オジュウチョウサンの不在により前年比自体は減収となったが、それでも20億を超える売り上げをたたき出したのだ。

もちろん、平地のG1レースと比べればまだまだ比較にならない額面でしかない。

しかしながら、現役屈指のスターホースであるオジュウチョウサンが出走せずとも3年前を大幅に上回る売り上げが維持されたという事実は、障害界にとって輝かしい希望であるように思う。
それはオジュウチョウサンに魅せられて、障害競走そのものの魅力に気付いた競馬ファンがそれだけ存在したということであろう。

さらに言えば、今のオジュウチョウサンの人気そのものが、オジュウチョウサン一頭のカリスマ性によるものだけでなく、彼を負かす事を目指して死力を尽くした、アップトゥデイトを始めとする各陣営がいたからこそ──ということの、証明でもある。

これからの日本障害競走について

2019年春、オジュウチョウサンは再び戦場を障害競走路線と向け、阪神スプリングジャンプを快勝。

そして今日この日、中山グランドジャンプに出走し、同レース4連覇──そして中山大障害コース6勝という歴史的快挙(*12)を果たした。

今後は、春のグランプリ宝塚記念で再度の平地挑戦を視野に入れるとされている。宝塚記念でも、オジュウチョウサンが話題の中心的存在の一頭になるであろうことは確かであろう。 

*12:中山グランドジャンプの連覇記録はカラジの持つ3連覇が、中山大障害コース最多勝記録はバローネターフの持つ5勝がそれぞれ過去最高。

オジュウチョウサンも2019年、8歳となった。

おそらく、彼に残された現役馬としての時間も、そう多くはない。

馬主の長山氏が目標と公言する種牡馬入りを見据えるならば、平地実績を残せるかどうかに関わらず今年いっぱいが目処となる公算が高いはずだ。

オジュウチョウサン引退後も、障害競走への注目度はしばらくの間維持されるとは思うものの、それも長くて1、2年程度ではないだろうか。

問題は、その後どうなるか、だろう。

平成の終わりに突如現れたスターホースの存在で、にわかに息を吹き返した日本競馬障害競走界だが、その将来にわたる存続の可否は、おそらく向こう数年にかかっていると言っても、過言では無い。

参考文献

優駿1999年1月号、2月号
「競馬の文化誌 イギリス近代競馬のなりたち」山本雅男(2005)
「競馬の世界史-サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで」本村凌二(2016)
「ジェントルマン文化と近代2-イギリス近代競馬の成立-」山本雅男(1998)
「日本陸軍と馬匹問題-軍馬資源保護法の成立に関して-」杉本竜(2003)
「横浜居留地のフランス社会(1)-幕末・明治初年を中心として-」澤護(1993)
日本経済新聞 2002年11月25日「専門記者の競馬コラム:官と民のはざまで―問われるJRAの自浄能力」野元賢一(2002)

写真:がんぐろちゃん

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