天才と天才の別れ~サイレンススズカ~

1994年5月1日。

その日、イタリアのイモラ・サーキットではサンマリノGPが開催されていた。
のちに「赤い皇帝」の異名をとるミハエル・シューマッハ、日本人の片山右京、ミカ・ハッキネン、ルーベンス・バリチェロらが参戦していたそのレースは、今では「呪われた週末」「イモラの悲劇」と呼ばれる。
そのレースで「音速の貴公子」と呼ばれた名ドライバーのアイルトン・セナが大事故を起こし、亡くなったからである。トップを快走していた中での大クラッシュ──そして王者の訃報は、F1界を大きな悲しみで包んだ。

同じく1994年5月1日、小雨の降る北海道で1頭のサラブレッドがこの世に生を受けた。
サラブレッドとしてはいわゆる「遅生まれ」とされる時期に生まれたその馬は、その後天才として競馬界に名を馳せることとなる。

サイレンススズカ。

あまりにも速く、あまりにも早い──その馬は途轍もないスピードで、ターフを駆け抜けた。

最高の相棒と出会い、最高のライバルに恵まれた「最強の逃げ馬」は、悲運の英雄と入れ替わるようにして誕生したのであった。

天才と天才は、常に惹かれあっていた。

生まれが遅かったサイレンススズカのデビューは、年明けの2月1日。
京都での新馬戦で、南井騎手・河内騎手・松永騎手・藤田騎手・福永騎手……そして武豊騎手といった、新旧トップジョッキーが顔を揃えていたレースであった。サイレンススズカの鞍上は、5年目の上村騎手。

調教内容の素晴らしさから前評判も高く、単勝人気は1.3倍という高い支持率を示していた。
結果は、2着に7馬身差をつけての圧勝。
2着の馬は、後に白百合Sを制覇し重賞でも3度の2着を経験する実力派のパルスビートで、決して楽なメンバーではないなかでの着差だった。

サイレンススズカから10馬身以上離された5着馬プレミアートに騎乗していた武豊騎手の目に、その背中はどう映っていたことだろうか。

──しかし、武豊騎手VSサイレンススズカの第2戦目は、武豊騎手の勝利となる。

新馬戦の約1ヶ月後に開催された弥生賞で、サイレンススズカは2番人気、武豊騎手とコンビを組むランニングゲイルは3番人気という評価を受けていた。2戦目にして、京都3歳Sを勝利し朝日杯3歳Sでも4着に食い込んでいた実績馬・ランニングゲイルよりも、サイレンススズカは高い支持を集めていたのだった。

だが、サイレンススズカはレース前にゲートをくぐってしまうトラブルを引き起こす。
さらにはスタート直後の大出遅れが災いし、結果的には武豊騎手・ランニングゲイルから10馬身以上離された8着に敗れることとなった。

武豊騎手とサイレンススズカを結ぶ縁は、この時期から始まっていたのだろう。
3戦目でも、両雄は激突。

条件戦を、単勝1.2倍に支持されたサイレンススズカが圧勝し、武豊騎手はそこから約8馬身差の4着。
4戦目となったプリンシパルSでは、サイレンススズカがランニングゲイルと武豊騎手にリベンジを果たした。
そしてこのレースで、サイレンススズカは初めて「スタートが成功してもハナを切らない競馬」を試みていた。

サイレンススズカが持つスピードの扱い方の難しさと試行錯誤を感じさせる挑戦で、結果的に勝利は収めたものの、逃げた際の圧勝劇とは違い、2着馬マチカネフクキタルとはクビ差の接戦だった。

逃げか、先行か。
ポジショニングの難しさ、気性の幼さという課題を抱えながら、サイレンススズカはダービーへと向かった。

ダービーの敗北と5連敗、そして出会い。

名種牡馬・サンデーサイレンス。
言わずと知れた、サイレンススズカの父である。

アメリカからの輸入種牡馬の彼は、未知数な存在ながらも初年度から2歳王者フジキセキや皐月賞馬ジェニュイン、ダービー馬タヤスツヨシ、オークス馬ダンスパートナーを輩出。さらには2年目産駒からもダンスインザダークやバブルガムフェロー、イシノサンデーといったG1ホースが登場し、「種牡馬サンデーサイレンス」の評価は上がる一方だった。

しかし3年目産駒における大物は晩成型が多く、ダービーへの出走を果たしたのはサイレンススズカとビッグサンデーの2頭。その翌年から3年連続でダービー馬(スペシャルウィーク・アドマイヤベガ・アグネスフライト)を輩出するサンデーサイレンスとしては、少し物寂しい出走頭数で、それだけにサイレンススズカにかかる期待はさらに大きくなっていた。

しかし結果は、ブライアンズタイム産駒──サニーブライアンとシルクジャスティスのワンツー。

皐月賞馬・サニーブライアンが「逃げ」をうって勝利を掴み取ったのだった。
引き続きランニングゲイルとコンビを組んでいた武豊騎手は掲示板を確保したものの、3番手からの競馬を試みたサイレンススズカは9着と大きく敗れた。

逃げるべきか、控えるべきか。

ダービーを逃げ切った二冠馬・サニーブライアンの走りを目の当たりにし、サイレンススズカは改めてその課題と向き合うこととなる。

そしてそこから、天才・サイレンススズカの連敗は始まった。

秋初戦の神戸新聞杯では勝ちをほとんど手中に収めながらも2着に敗れ、鞍上を名手・河内騎手に変更して挑んだ天皇賞秋では6着に沈んだ。
天皇賞秋で勝利したエアグルーヴの鞍上は、武豊騎手。
ここまで6度ぶつかり、互いに3度ずつ先着し合うという、一進一退の攻防だった。

どちらも見せ場をつくり、天才の名に恥じないレースをしていた。
そんなサイレンススズカと武豊騎手が揃って大敗したのは、天皇賞秋から中2週で開催されたマイルCSだった。

そのレースには、サイレンススズカをはじめ、タイキシャトル・マイネルマックス・キョウエイマーチ・スピードワールド・トーヨーレインボーといった有力な4歳馬(現表記:3歳馬)が揃っていた。
デビュー戦以来となるマイル戦となったサイレンススズカは、逃げるキョウエイマーチを追う形で2番手を追走。武豊騎手と1番人気・スピードワールドは、後方からの競馬を展開していた。

ハナを切ったキョウエイマーチは、非常にハイペースなラップを刻んでいく。
彼女自身にとって厳しいレース展開であったはずが、先に沈んだのは2番手集団だった。
好位で追走していたヒシアケボノ・サイレンススズカが直線沈んでいく中で、武豊騎手・スピードワールドもなかなか末脚が繰り出せない。
結局、同い年のタイキシャトルが逃げ粘るキョウエイマーチをかわして快勝するのを、両雄は10馬身以上離されて見守るしかなかった。

武豊騎手が12着、サイレンススズカが15着──。
4歳馬が上位3着を独占したレースで、天才と天才は、4歳馬としての最下位・ブービーを取る形となった。


サイレンススズカと武豊騎手が初めてコンビを組むのは、その次走・香港カップとなる。

そしてその異国の地で「無聲鈴鹿=サイレンススズカ」と武豊騎手は5着に食い込み、その翌年の6連勝への足がかりを掴んだ。
連敗は「5」に伸びたものの、確かな手応えがそこにはあった。

遂に、天才と天才が互いの手を取り合った瞬間だった。

古馬での開花と、6連勝。

自身の得意とするレース展開・距離を把握し、鞍上に武豊騎手を迎えた古馬・サイレンススズカは、遂に開花。

オープン競走・バレンタインSを4馬身差で快勝すると、中山記念・小倉大賞典・金鯱賞でも影を踏ませぬ逃げ切り勝ちを披露。特に金鯱賞では11馬身の差をつけての圧勝。「古馬最強格」という印象を、見る人全てに植え付けるような走りだった。

しばらくぶりのG1となった宝塚記念では、メジロブライト・メジロドーベル・シルクジャスティス──そして遅れてきた実力派の同期・ステイゴールドらと対決。

特にステイゴールドとは初対決となっていたが、ここも勝利。

初めてのG1タイトルを獲得することとなった。

そしてこれが、サイレンススズカにとって唯一のG1タイトルとなる。

古馬としてG1を制覇したサイレンススズカの、次の敵は──次世代の強豪たちであった。
「最強世代」と呼ばれることの多い98年クラシック世代には、2頭の素質溢れる外国産馬がいた。
当時は外国産馬のクラシック参戦がルール上不可能であり、ダービーへの出走が叶わなかった2頭。

4戦全勝馬・グラスワンダー。
5戦全勝馬・エルコンドルパサー。

若き頃に敗北を続けたサイレンススズカとは、あまりにも対照的に映る2頭だった。
そんな「三強対決」となった毎日王冠であったが、結局はサイレンススズカが1.4倍の1番人気に収まり、それをグラスワンダーが3.7倍、エルコンドルパサーが5.3倍で追う形となっていた。

4番人気のサンライズフラッグは重賞馬であり、前走も3着と悪くない戦績であったが、それでも32.9倍という離された単勝オッズであり、上位3頭の人気がどれほどのものだったかを物語っていた。

全勝馬2頭VS武豊騎手・サイレンススズカの構図に、毎日王冠はG2とは思えない盛り上がりをみせたが──結果は、サイレンススズカの快勝に終わる。2.5馬身離された2着にエルコンドルパサーが食い込み、その5馬身後方に3着サンライズフラッグがなだれ込んでいた。道中サイレンススズカに勝負を仕掛けようとしたグラスワンダーは、5着という悔しい敗戦を喫していた。

そうして、未対決の実績馬を残しながらも「現役最強はサイレンススズカ」という共通認識が、競馬を見守るものの多くに広がっていた。

どこまでも勝ち続けられそうな勢いが、彼らにはあった。
誰にも影を踏ませることのない軽快な走りが、いつまでも続きそうに思えた。
その時はまだ誰も、翌月にサイレンススズカを襲う悲劇を、予期していなかったであろう。

そして、天へ。

11月1日、東京11R、天皇賞秋。
1枠1番に、1番人気のサイレンススズカは収まっていた。

出走するステイゴールドやメジロブライト・シルクジャスティスらとは既に勝負がついていると考えられていたため、サイレンススズカは単勝1.2倍という圧倒的な支持を集めていた。
デビュー時436キロと小柄だった馬体も、その時には450キロまで成長。ピカピカに光る馬体から漂うのは、まさに王者の風格そのものだった。

宝塚記念では先約を優先しコンビを組めていなかった武豊騎手にとって、その日が、サイレンススズカと初めてのG1制覇を達成する日になるはずだった。それは、それからも続く連勝街道における1勝に過ぎない……そう思わせるほどの自信と輝きに満ち溢れた人馬であった。

ゲートが開くと、サイレンススズカのひとり旅がはじまった。

誰も競りかけず、悠々と──しかし異様なまでのハイラップで、サイレンススズカはレースを進めていた。
天才が天才と出会い、互いの才能を極限まで引き出しあっているのを、観衆は目の当たりにしていた。
サイレンススズカの走りはその瞬間、確かに完成していた。あまりにも、完成していた。

サラブレッドにこれ以上、何を求めるべきか?

そんな疑問すら浮かぶ、大逃げ。
決して奇策ではない王者の逃亡劇は、そのままゴールを迎えるはずだった。

しかし、3コーナーで10馬身以上の差をつけていたサイレンススズカは、突如レースを中止した。

左前脚、手根骨粉砕骨折。
その怪我は、天才と天才が出会い作り上げた奇跡の賜物を、突如奪い去っていった。

サイレンススズカ、安楽死。
かのF1ドライバーのように、別れは突然だった。

自らの血を残すこともなく、鮮烈な印象をそのままに、彼はこの世を去った。

天才は去りゆき、競馬はまだ続く。

天皇賞秋での悲劇があっても、競馬は毎週やってきた。
翌月、エルコンドルパサーがジャパンカップを制覇。
さらにその翌月、グラスワンダーが有馬記念を制覇。

そこに、サイレンススズカの姿はなかった。

スペシャルウィークやセイウンスカイといった内国産馬との直接対決も実現しないまま、天才は天に召されていた。様々なG1馬を輩出したサンデーサイレンスだったが、サイレンススズカと同世代のG1馬はステイゴールドのみだった。

天皇賞秋の悲劇から3年経った2001年──引退レースとなった香港ヴァーズで、遅咲きのステイゴールドは念願のG1馬となっていた。
その鞍上は、武豊騎手。
ステイゴールドは引退後、多くの名馬を輩出。

オルフェーヴル、ゴールドシップ、オジュウチョウサン……本当に、数え切れない名馬が登場した。
しかし示し合わせたかのように、天皇賞秋の勝ち馬は輩出できていない。

サイレンススズカ、競走中止。
ステイゴールド、2着。

あの日の天皇賞秋の答えは、まだ模索中なのだろうか。

そして2015年に、21歳で天寿を全うしたステイゴールド。
サイレンススズカとともに、天から競馬界を見下ろしているところを想像してしまう。

今の競馬界は、2頭にとって、どう映るだろうか?

2017年に6度目の天皇賞秋制覇を達成した武豊騎手を見て、満足そうに笑っているだろうか。
それとも、まだまだ走り足りないと思っているだろうか。
サイレンススズカとステイゴールドの2頭が生きた平成は終わり、2019年5月1日、令和の時代が訪れた。

奇しくも新元号の開始日とサイレンススズカの誕生日が重なっていた。
平成の終わりの日と重なるのではなく、新時代・令和の幕開けと重なるのが、彼らしいという気持ちにさせられる。

令和になっても武豊騎手は、現役を続けている。今もなお、トップ騎手の1人として。
平成の競馬が終わり令和の競馬が始まり、これからも多くの競走馬が生まれ──それでも競馬は続いていく。

我々の、多くの想いをのせて。

天才と天才が出会い、散っていた芝を、新たな世代が駆け抜けていく。

きっとこの次の世代でも、また次の世代でも、新たな天才と新たな天才が出会うのだろう。

その天才たちがともに重ねてゆく輝かしい日々が、どうか、1日でも長く続けばいいと思う。

そしてファンは彼らをみて、とある平成の名馬を思い返すかもしれない。あの日のレースの「たら、れば」を語り、懐かしみ、悼むかもしれない。自らの血を残すことは叶わなかったが、大いに名を残した、あの馬を襲った悲劇のことを。

天才的な逃げ馬が散った、あの天皇賞秋の出来事を。

サイレンススズカ。
いつまでも忘れられない──あの美しき6連勝と、幻の7勝目を。 

写真:かず

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