逃げる馬になぜか心が動く。それもただ1頭で群れから離れ、孤独をひた走る逃げ馬に揺れる。
なぜ、そんなに孤独なのか。なぜ、独りぼっちの世界にいられるのか。群れで生活する馬にとって、仲間といることが安心であり、孤独であり続けるのは不安ではないのか。受け入れがたい独りぼっちに進んでなる理由はなんなんだ。私も独りは嫌いじゃない。ひとり旅もひとり焼肉も苦にならない。できれば独りでいたい時間は多い。しかし、それは仲間がいるからできることであり、実は孤独ではない証拠だ。
逃げ馬のそれは真の孤独に感じる。群れから離れたい。そこに一緒にいたくない。孤独を受け入れるのは気楽じゃない。気楽にできる「ひとり」は孤独とはちがう。いつから孤独を受け入れるようになったのか。なぜ一緒にいたくないのか。いや、いったいなにから逃げているのか。逃げ馬に聞いてみたいことがあふれてくる。それは私自身が孤独を受け入れていないからだろう。きっと、孤独を受け入れられる者にとっては愚問にちがいない。
メイショウボーラーという馬がいる。
芝ダート問わず29戦して7勝をあげ、重賞5勝。全7勝のうち逃げずに勝利したのは2つ。控える競馬を教えても結果は残せず、逃げることで自分の道を切りひらいた生粋の逃げ馬だ。
2歳時は1200m戦で3連勝。小倉2歳Sは前半600m32秒9で飛ばした。鞍上の福永祐一騎手が行かせたわけではなく、馬が自分から先頭を目指して突き進んだ。速く走れることへの気持ちよさを謳歌するかのようだ。競走馬の走るフォームは天性による部分が大きく、スピードは才能でもある。メイショウボーラーはスピードという才に満ちていた。
しかし、ライバルとの出世争いを勝ち抜くにあたり、スピードは諸刃の剣でもあった。勝ち進むということはより長い距離への挑戦を意味する。距離が延びれば、気分よく一気に駆け抜けられなくなる。ひと息入れる必要がある。メイショウボーラーも鞍上から速く走るなと指示されるようになった。長い距離を走るためにはそうせざるを得ない。
先頭を走ってもいいが、速く走らないように。
メイショウボーラーはこれをどう受け取ったのだろうか。成績は連勝から一転し、連敗。先頭を譲る現実、先頭でゴール板を駆けられない歯がゆさはメイショウボーラー自身だけでなく、関係者も感じたにちがいない。メイショウボーラーがもつ天性のスピードをどんな形で表現できるか。
ダート戦転向は4歳冬のことだ。1200mのガーネットSはナムラビッグタイムにハナを譲るも2着。きっかけが見えた。メイショウボーラーがその力を余すことなく出すにはあと一つ足りない。次走根岸Sはその答えを確かめる競馬になった。
「行っていいぞ」
福永騎手の手綱操作からそんな声を見てとれる。メイショウボーラーも競馬を経験していくなかで、かつてのように喜び勇んで先頭を進む気持ちは薄れていた。加減しながらも久々に先頭を行く気分を謳歌したメイショウボーラーは止まらない。2着ハードクリスタルにつけた7馬身差は根岸Sの最大着差であり、このレースを逃げ切ったのはあとにも先にもメイショウボーラーだけだ。
いよいよGⅠフェブラリーSを迎える。芝では手がとどなかったGⅠの舞台はスピードを活かせる不良馬場とメイショウボーラーにとってこの上ない状況で迎えた。ただし、距離は根岸Sより200m延びる1600m。かつて阻まれた距離延長という壁が待ち受ける。
根岸Sに続き、福永騎手は先頭へ行くように促し、メイショウボーラーは鋭いダッシュでそれに応える。距離を意識した福永騎手は先頭に立つと、スピードを落とそうと考えたにちがいない。しかしGⅠに向けて研ぎ澄まされたメイショウボーラーは絶好調に達していた。スピードも最高潮だったメイショウボーラーは簡単にスピードを落とさない。であれば抑え込めば、人馬が衝突しかねない。
福永騎手は冷静にメイショウボーラーと喧嘩しない落としどころを探り、結果的に気分よく行かせることにした。メイショウボーラーを信じ、天性のスピードを邪魔しない。これまでマイル戦を乗り切ろうと、我慢させようとしてきたことを考えると、勇気ある決断であり、その道のりがあったからこそ判断できた。思う存分、走ってみろ。メイショウボーラーに委ねた。
前半600m34秒2、半マイル45秒8。メイショウボーラーが踏んだラップは芝と変わらず、後ろはついて来られない。最後の直線を迎えた時点で後ろに5馬身差つけていた。残り400mは12秒3-12秒7。さすがにメイショウボーラーの脚力に翳りがみえる。ここから福永騎手が扶助し、叱咤しながらメイショウボーラーに手を貸した。
「よくやった。あとは自分がどうにかする」
懸命に両手で手綱を押し込む福永騎手からそんな意志が伝わる。理想的な人馬の在り方とはこういうことなんだろう。人は馬に力を出させるために存在し、馬は力を存分に出し、それに応じる。互いの意思がゴールへ向かってひと筋の道を作り出したようだった。
シーキングザダイヤとヒシアトラスの追撃をしのいだメイショウボーラーは東京マイルを1分34秒7で乗り切った。これは当時のレコードタイムだった。芝からダートへ転向し、3戦目。レース内容と同じく頂点まで一気に駆けあがった。
メイショウボーラーの逃げは解放だった。天性のスピードを解き放ったとき、他馬を寄せつけない世界が目の前に広がった。逃げはなにかから逃れるのではなく、ゴールに向かって駆け抜けることだ。そしてそれは決して孤独ではなく、福永騎手というパートナーがいたからこそ、成し遂げられた。メイショウボーラーの逃げには潔さがあった。ただ、ゴールへ行きたいから、行く。競馬の根本がそこにある。
写真:I.Natsume