砂の短距離黎明時代の輝彩~カガヤキローマン~

「もしも」が禁句とされる勝負の世界。それを「たられば」と呼ぶ。

とはいえ、レースが終わるたびに「あぁ、ワイドにしておけばよかった!」や「なんであの馬やめたんだ!」という阿鼻叫喚の様子が全国各地で散見されているのだから、我々競馬ファンがこの「たら」「れば」を言わない週末などほぼ存在しないだろう。

そしてその「たられば」を、我々は馬にも重ね合わせる。「もしもサイレンススズカが無事にゴールを駆け抜けていたら」「もしもドゥラメンテがまだ存命で産駒を残していたら」というような夢物語。それは絶対に実現することのない話で妄想に過ぎないのだが、そんな話を友人と語らい、夜を明かすのが案外一番楽しかったりするものだ。

そしてそんな「たられば」の可能性のひとつに数えられる馬が、カガヤキローマンである。

南関東のスーパースプリンター

彼が駆け抜けた1990年代前半は、地方、中央問わずまだ「中長距離路線」が重視される風潮で、短距離路線は1984年のグレード制導入以後、少しずつ整備が進められてはいたものの、現在に比べると選択できるレースが限られてしまう時代だった。

そんな中、彼が得意とした主戦場は1200m~1400mの短距離路線。短距離戦で輝きを放つスプリンターとしてこの世に生を享けた彼は、スプリント戦を求めて全国各地の競馬場を渡り歩くことになる。

北海道の旭川、山形の上山、群馬の高崎と今や地方競馬が廃止されてしまったような地にも、彼はそこで短距離レースが開催されていれば迷わず飛び込んでいった。参戦した競馬場は、優に10を超えている。そしてその行く先々で彼が見せたスピードは、当時数少ない交流重賞競走の短距離路線で輝きを放っていた。

1997年、岩手のサカモトデュラブに3馬身の差をつけて東京盃で初のダートグレード競走制覇を成し遂げると、翌98年には札幌で開催された北海道スプリントカップでも勝利を挙げる。

そして、約3か月の休養を挟んで迎えた同年の東京盃。手綱を取った森下博騎手は逃げたサカモトデュラブを行かせてファーストアロー、サントス、ワシントンカラーを真後ろにおいて2番手の絶好位を取ると、そのまま真ん中のサントスの正面につける位置を取った。

1番人気のワシントンカラーを外に、3番人気のファーストアローを内に見やるようなこの位置は、後ろの両頭ともに無理やり出していかないと番手の絶好位を取れない。狭い1頭分のポジションを走らされるファーストアローも厳しいが、それより外のワシントンカラーは相当なコースロスになる。かといって1200mの短距離戦で、無理して下げると直線で差し届かない可能性も出てくる。逆にペースを上げて交わしに行けば、スピードの絶対値が速いカガヤキローマンの格好の餌食になる──。

仕方なく、ワシントンカラーの柴田善臣騎手はそのまま外からカガヤキローマンを捉えに行く選択をした。このわずかな駆け引きが、最後の最後に響くこととなる。

直線、逃げるサカモトデュラブを追い詰めるカガヤキローマン。その外から迫るワシントンカラーは手綱をびっしり追われていたが、道中ロスなく進めたカガヤキローマンの手応えにはまだ十分余裕があった。

先頭を射程圏に入れて追い出されたカガヤキローマンは、迫るワシントンカラーに抜かさせない。道中でアドバンテージを取った分、最後の末脚には余裕がある。

逃げるサカモトデュラブを一完歩ずつ確実に追い詰め交わすと、外から追ってくるワシントンカラーも、内から強襲するファーストアローも抑え込んでゴール板を駆け抜けた。

中央のワシントンカラーら相手に東京盃連覇を成し遂げ、当時の短距離ダートグレード重賞を総なめしてしまったカガヤキローマン。

鞍上、森下騎手とのコンビ相性の良さも見せつけ、堂々南関東スプリント王者の座についたのだった。

時代が見せる、泡沫の夢

それだけ異才を見せたカガヤキローマンでも、時代には抗えなかった。

短距離の競走が少なかった当時は、それだけレース選択の幅を狭かった。「短距離レースがなかったから、使えるところがあれば行くしかなかった」と高柳恒男調教師が語るように、レースの場所を選ばなかった彼は、中央の芝にも挑戦した。

1997年の東京盃を勝利したあとには、府中の武蔵野Sから中1週で、今度は芝の1200m戦である中京・CBC賞へも参戦した。15頭立て11番人気の支持が示す通り、誰もが厳しい挑戦だと思っていたが、カガヤキローマンは雨の中後方から上り3ハロン35秒3の末脚を繰り出して6着に入線してみせた。

掲示板こそならなかったが、翌年、高松宮記念を勝つことになるシンコウフォレストや、巨漢のトップスプリンター・ヒシアケボノには先着しており、そのスピードが中央の短距離、しかも芝でも通用する片鱗は、確かに見せつけて帰ってきたのだ。

だが、結果としてこの挑戦が、彼の競走馬としてのピークを短くしてしまった。初芝に加えて雨の中スタートを切ったカガヤキローマンは、その際に脚を捻挫。幸い、競走能力に大きな影響が出るものではないとの診断だったものの、この傷は絶頂期だった7歳の冬、東京盃を連覇したちょうど4か月後に再発してしまい長期休養を余儀なくされることとなる。

翌年の冬、8歳となったカガヤキローマンは再び競馬場に帰ってきたが、もう彼に往年のスピードはなかった。

それでもカガヤキローマンは懸命に走り続けた。晩年は南関東から上山に移り、北海道スプリントカップには4歳から11歳まで、ほぼ毎年出走し続けた。最後はその北海道で出走し、門別のオープン競走で13頭立て11着と敗れたのを最後に引退した。

現在、ダート短距離路線は整備され、GⅠ競走も春のさきたま杯に秋のJBCスプリントをはじめとしてダートグレード競走のみならず、地方重賞においても各地でダートの短距離重賞が数多く開催されている。さらに2024年からは3歳短距離戦線の拡充を目的として「ネクストスター」競走も行われており、ダートの短距離戦線は若いうちからかなりの盛り上がりを見せている現代。

だからこそ、思う。

「もしもカガヤキローマンが今の時代の番組表で走ることができていたら、きっと違う結末があったのかもしれない」と。

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