その偉大なる戦績から気に留めることも少ないかもしれないが、エルコンドルパサーはいわゆる「マル外」だった。
「マル外」とは、すなわち外国産馬。つまりは、日本国外で生を受けたサラブレッドを指す。
昭和末期から平成初期の競馬を見てきたファンにとって、〇の中に「外」の文字で示される外国産馬の表記は、様々な感情をともなった懐古を誘う。
昭和46年にサラブレッドの輸入が自由化されたが、同時に国内におけるサラブレッド生産・流通の保護のため、日本国外で生を受けたサラブレッドが出走できるレースには大きく制限がかけられた。
その制限は、外国産馬のみならず持ち込み馬(受胎した状態で輸入された牝馬が日本国内で出産した馬)まで及んだ。
特に、優秀な種牡馬・繁殖牝馬選定のためと位置付けられるクラシック競走と天皇賞においては、長い間、持ち込み馬・外国産馬の出走が許されることはなかった。
そのような中で、主戦の中野渡騎手が「枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と、昭和52年のダービーに出走できない悲哀を周囲に漏らしたと伝えられる、持ち込み馬マルゼンスキーの悲哀などが起こる。
そうした持ち込み馬のクラシック競走への出走制限は、昭和58年に緩和。国内産と同じ扱いとなり、ニシノフラワー・ビワハヤヒデ・フサイチコンコルドといった持ち込み馬がクラシック競走を勝つようになる。
しかし、こと外国産馬に至っては国内の馬産地からの反対も根強く、クラシック競走への出走がようやく認められたのは平成13年の日本ダービーと菊花賞からであり、昭和46年の輸入自由化から実に30年の年月が経っていた。
そのような時代の流れの中において、昭和末期から平成初期は多くの個性的な外国産馬が輸入され、ターフを賑わせた「マル外」の黄金時代だった。
シンコウラブリイ、ダンツシアトル、ヒシアマゾン、ヒシアケボノ、ファビラスラフィン、タイキシャトル、シーキングザパール、アグネスワールド……GⅠを勝った名馬に限っても枚挙に暇がないほどである。
まだクラシック競走への出走は叶わなかったものの、多くの個性的な外国産馬が、その才能の輝きを見せていた。
エルコンドルパサーもまた、そのような時代に生を受け、海を渡ってやって来た「マル外」だった。
されど、その生産者は、日本人のオーナーブリーダーであった。
エルコンドルパサーの足跡と、その中でも白眉となった世界への扉を開いた平成10年のジャパンカップの名勝負について振り返ってみたい。
エルコンドルパサーは、平成7年にアメリカで生まれた。
父はKingmambo、母はサドラーズギャル。
父・Kingmanboは大種牡馬・Mr.Prospectorと1980年代の最強マイラーの呼び声高い名牝・Miespueの間に生まれた超良血であり、さらに母・サドラーズギャルの父は欧州の大種牡馬・Sadler’s Wellsなど、血統表には世界的な名馬の名前が並ぶ。
母・サドラーズギャルはアイルランドで9戦して未勝利という戦績だったが、4代母にRough Shodの名前があり、その牝系からは世界最高峰の種牡馬・Sadler’s WellsとNureyevが立て続けに出ており、世界屈指の牝系と言えた。
オーナーブリーダーである渡邊隆氏が、その母系の素晴らしさに惚れ込んでサドラーズギャルを購入し、アメリカのケンタッキーにてKingmamboと交配させて生まれたのが、エルコンドルパサーであった。
特徴的なのは、5代血統表のなかに「Northern Dancerの3×4」をはじめとして、「Special(Lisadell)の3×4×4」などの多重のクロスが成立しており、同血率は実に25%という強い近親配合であったことだろう。
さらには、父系のMr.Prospectorと母母父のSeattle Slewという組み合わせからは、シーキングザパールやヒシアケボノなどといった活躍馬が出ているような相性のよいニックス関係であり、エルコンドルパサーの血統表を引き締めていた。
名牝・Rough Shodから連なる母系に強く惹かれていた渡邊氏が、自ら強い意図を持ってデザインしたこの配合から、エルコンドルパサーは生まれた。
サイモン&ガーファンクルがカバーして有名になったペルー民謡「コンドルは飛んで行く(El Cóndor Pasa)」に寄せてその名を付けられたエルコンドルパサーは、翌年に日本に輸入され、順調に育成期間を過ごす。
平成9年、3歳になったエルコンドルパサーは、美浦の二ノ宮敬宇厩舎に入厩する。
デビューは平成9年11月8日、東京競馬場だった。
ダートのマイル戦に初出走したエルコンドルパサーは、9頭立ての1番人気に支持されたが、スタートで出遅れ、道中は最後方からの追走になってしまう。
直線入り口を向いても、エルコンドルパサーは先頭から10馬身差はある最後方のポジションにいた。
だが、鞍上の的場均騎手がスパートをかけると、他馬とは全く違うスピードで加速。一気に先行勢をまとめて交わし、2着に7馬身差をつけて圧勝する。
レース自体のラスト3ハロンのラップが13秒8-13秒2-11秒8という猛烈な加速ラップの中、最後方から軽々と差し切ったエルコンドルパサー。
後にGⅢ・京成杯を勝つ2着のマンダリンスターの上がり3ハロンが39秒6なのに対して、エルコンドルパサーのそれは37秒2と、圧倒的な能力を示した新馬戦だった。
だが同じ日、同じ東京競馬場、同じ的場騎手が騎乗した、もう一頭の栗毛の3歳馬がいた。
メインの11レース、GⅡ・京成杯3歳ステークスで的場騎手が騎乗した、グラスワンダーである。
グラスワンダーもまた、エルコンドルパサーと同様にアメリカで生を受けた「マル外」だった。
新馬、オープン特別を2連勝して臨んだグラスワンダーは単勝1.1倍の支持を受け、この日も鞭も使わずに2着馬に6馬身差をつけ、その能力の高さを見せつける。
奇しくも同じ日、同じ東京競馬場で、同じ騎手が手綱を取った、眩いばかりの才能を纏った2頭の邂逅。
されどこの2頭は同じアメリカで生を受けたというだけで、翌年の春に行われる皐月賞とダービーで、その走りを見ることは叶わない。
それは大いなる不条理ではあったが、その不条理ゆえに新たな「世界」への扉を開いたのかもしれない。
皐月賞やダービーといったクラシック競走への出走権のない外国産馬のため、そして短距離に適正のある4歳馬のため、平成8年にGⅠ・NHKマイルカップが新設された。
平成8年の第1回開催には、出走馬18頭中の実に14頭を外国産馬が占め、「マル外ダービー」とまで呼ばれた。
エルコンドルパサーとグラスワンダーの外国産馬2頭は、そのNHKマイルカップを春の目標として歩みを進める。
エルコンドルパサーは年の明けた平成10年の1月に、500万下のダート戦を9馬身差の圧勝。
これまで2戦ともダート戦への出走だったが、3戦目は芝の1,800mで行われる共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。
しかし、レース当日の降雪により芝コースからダートコースに変更となってしまい、残念ながら芝でのエルコンドルパサーの走りは見られなかったものの、中団追走からきっちりと差し切り3連勝を飾る。
一方のグラスワンダーは、暮れのGⅠ・朝日杯3歳ステークスでマイネルラヴ、アグネスワールドといったのちのGⅠ馬を相手にせずレコードで圧勝する。
年が明けて、エルコンドルパサーと同様にNHKマイルカップの前哨戦であるニュージーランドトロフィー4歳ステークスを目標に調整が進められたが、3月に骨折を発症。グラスワンダーの4歳春シーズンは休養となってしまう。
グラスワンダー不在となったため、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスにおいて、エルコンドルパサーの鞍上は従前のまま的場騎手が務めることとなった。
エルコンドルパサーは初めての芝コースにも問題なく対応し、2着のスギノキューティーに2馬身差をつける完勝を披露する。
ダートのみならず、芝の上でも、エルコンドルパサーの走りは抜きんでていた。
続く本番のGⅠ・NHKマイルカップではエルコンドルパサーを含め4頭の無敗馬が揃ったが、その中でも1.8倍の堂々の1番人気に支持される。
エルコンドルパサーは好発から好位を追走し、4コーナーで大外に振られるも、府中の直線を豪快に伸びて快勝。
デビューから5連勝でGⅠ制覇を成し遂げた。
一方、その3週間後に行われた日本ダービーを、スペシャルウィークが制した。
武豊騎手のダービー初制覇をもたらした「その1勝」で愛された、6戦4勝のスペシャルウィーク。
5戦5勝でGⅠを制したが、その舞台に立つことすら許されなかったエルコンドルパサー。
「マル外」の悲哀が、まだ色濃く残っていた、平成10年の春。
春シーズンを無敗で終えたエルコンドルパサー。
夏の休養を経た秋、始動戦には10月11日のGⅡ・毎日王冠が選ばれ、初めて古馬と対戦することとなった。
その毎日王冠には、宝塚記念を含む5連勝中だった稀代の快速馬・サイレンススズカと、春の骨折から復帰してきた怪物・グラスワンダーがエントリーしてきた。
稀代の快速馬と、無敗の4歳外国産馬2頭の、三つ巴の激突。
その対決を観ようと、東京競馬場にはGⅡとしては極めて異例の13万人を超える観客が詰めかけた。
的場騎手が、復帰したグラスワンダーの手綱を選んだことで、エルコンドルパサーの鞍上は当時関東リーディングを走っていた蛯名正義騎手に初めて乗り替わりとなった。
レースはサイレンススズカが1,000mを57秒7という猛烈なペースで逃げ、直線に入っても脚色は衰えることなく後続を完封。
圧巻の逃げ切りを見せる。
エルコンドルパサーは番手集団からサイレンススズカを追走するも、その差を縮められず、2馬身半離れた2着。
グラスワンダーは久々が響いたのか、出遅れた上にまくり気味に仕掛けたものの、直線伸びを欠き5着。
それまで無敗の外国産馬2頭は、初めて他馬に先着を許す結果となった。
初めて蹉跌を味わったエルコンドルパサーであったが、この後の陣営の選択が大きな意味を持つことになる。
秋の天皇賞は、平成10年当時には外国産馬の出走が認められておらず、無論それはクラシック最終戦の菊花賞も同じだった。
そうなると、エルコンドルパサーの次走は、外国産馬に出走が認められた混合GⅠ・マイルチャンピオンシップか、国際GⅠ・ジャパンカップが考えられる。
当初はマイルチャンピオンシップを目標とする案もあったようだが、エルコンドルパサー陣営は芝2,400mのジャパンカップを選択した。
1,800mまでしか経験がなく、またNHKマイルカップですでに実績を残していること、そしてマイラーに見える血統──傍から見れば、マイルチャンピオンシップを選ぶ要素が強いように見える。
さらに、4歳でのジャパンカップ挑戦は、あの皇帝・シンボリルドルフですら生涯初めての敗戦を喫していたように、過去日本馬が勝ったことのない条件だった。
だが陣営は、芝のチャンピオンディスタンスにエルコンドルパサーの適性があることを見抜いていた。
実績があり、血統的な裏付けのあるマイルではなく、前走から600mの距離延長となるジャパンカップを選択したことは、陣営の慧眼と言うべきなのだろう。
エルコンドルパサーのジャパンカップ出走は、生涯初距離、前人未到への挑戦でもあった。
ジャパンカップは、「世界に通用する強い馬づくり」を目標に昭和56年に創設された、日本初の国際招待競走である。
日本馬は第4回でカツラギエースが初勝利。そこから果敢な挑戦を続けて第18回を数えた平成10年当時においては、外国馬13勝・日本馬5勝という戦績だった。
迎えた平成10年11月29日、エルコンドルパサーは3番人気の支持を受ける。
鞍上は、前走から引き続き蛯名騎手。
1番人気は、同じ4歳で武豊騎手に初めてのダービー制覇をもたらした、スペシャルウィーク。
菊花賞3着からの参戦で、この日騎乗停止の武豊騎手に変わって岡部幸雄騎手が手綱を取っていた。
2番人気は、前年の年度代表馬である牝馬・エアグルーヴと横山典弘騎手。
前年に続いて夏の札幌記念を連覇した後、エリザベス女王杯3着という臨戦態勢。
その他の日本馬では、前年4歳で有馬記念を勝ったシルクジャスティスと藤田伸二騎手、同年GⅠ2着3回のステイゴールドと熊沢重文騎手、アルゼンチン共和国杯を勝ってきたユーセイトップランと河内洋騎手といった歴戦の古馬が揃う。
一方、海外からは6頭が参戦。
大将格は、前年のブリーダーズカップ・ターフ勝ち馬であり、さらに同年のGⅠを2勝していたカナダのチーフベアハートとJ.A.サントス騎手。
さらに、アメリカから参戦の牝馬マックスジーンとC.アスムッセン騎手。
ドイツからはイタリアのジョッキークラブ大賞を勝っていたカイタノに、鞍上は日本でもおなじみのO・ペリエ騎手、そしてウンガロとT.ヘリヤー騎手。
さらにイギリスからはチーム・ゴドルフィンのフェイスフルサンとF.デットーリ騎手、イタリアダービー勝ちなどの実績のあるルソーとM.キネーン騎手の2頭が参戦していた。
平成10年11月29日、国際GⅠ・ジャパンカップは5か国15頭の優駿によって、幕を開ける。
府中のスタンド前、ゲートが開く。
逃げの予想をされていたサイレントハンターが出遅れるも、ハナを切るべく先頭まで押し上げていく。
府中2,400mで重要な1コーナーまでのポジション争いだが、緑の帽子の6枠11番エルコンドルパサーと蛯名騎手はサイレントハンターの後ろ、2番手でカーブを切っていく。
3番手にドイツのウンガロがつけ、横山騎手のエアグルーヴは4番手あたり。
その後ろにステイゴールド、その内に岡部騎手とスペシャルウィーク、さらにその後ろの中団前めにイギリスのフェイスフルサンとカイタノ、ルソーが並ぶ。
シルクジャスティスはその後ろ、ちょうど中団あたりを追走して、人気の一角であるアメリカのチーフベアハートは後方から2番手あたり、マックスジーンもその前で末脚に賭けるかたち。
2コーナーを回り向こう正面に入るが、各馬各々のポジションを確保してレースは淡々と流れていく。
2番手のウンガロを5馬身ほど離して逃げるサイレントハンターの1,000m通過が60秒5と、ややスローペース。
3コーナーを迎え、各馬がサイレントハンターとの差を詰めにかかる。しかしサイレントハンターが3馬身ほどのリードを保ったまま、直線を向いた。
番手から馬なりの手応えのまま、それに迫るエルコンドルパサー。
その内からエアグルーヴ、外から追い出しにかかるスペシャルウィーク。
残り200m、十分な手ごたえのままエルコンドルパサーはサイレントハンターを交わす。
エアグルーヴも離されまいと追いすがる。
スペシャルウィークも外から襲い掛かる。
だが、エルコンドルパサーの余力は十分だった。
蛯名騎手の右鞭に応え、馬場の3分どころを突き抜けるエルコンドルパサー。
もうエアグルーヴもスペシャルウィークも、届きそうにない。
チーフベアハートの、マックスジーンンの追い込みも、まだ後方だ。
エルコンドルパサーだ。
エルコンドルパサー、1着。
2着にエアグルーヴ、3着にスペシャルウィーク。
追い込んだチーフベアハートとマックジーンが4着と5着。
勝ちタイム、2分25秒9。
かつて皇帝・シンボリルドルフでも成し得なかった、4歳でのジャパンカップ制覇。
ダート3戦3勝。
府中の芝2,400mを勝った。
ロンシャンの頂と同じ距離を勝った。
年度代表馬を、千切った。
同世代の東京優駿馬は、3馬身後方に置き去りにした。
ダート、芝、マイル、チャンピオンディスタンス……
さあ、どこへ行きたいんだ、エルコンドルパサー。
もう、お前は生まれや境遇なんかで同情されるような存在ではない。
行けよ、エルコンドルパサー。
その魂の、赴くままに。
その名の通り、その大いなる翼を広げ、飛んで行け──。
エルコンドルパサーの戦績は、ジャパンカップの勝利以後の方がよく知られているのかもしれない。
翌年の平成11年4月にフランスへと旅立ったエルコンドルパサーは、彼の地で拠点を構え、欧州競馬の王道路線ともいえる芝の中距離路線を転戦する。
5月にGⅠ・イスパーン賞2着、7月のGⅠ・サンクルー大賞1着、9月フォワ賞2着。
そして、世界最高峰のGⅠ・凱旋門賞への挑戦。
不良馬場の中、蛯名騎手は勇敢に逃げを打つも、歴史的名馬・モンジューの追い込みに半馬身だけ屈して2着に惜敗。
3着のクロコルージュを6馬身も離したその走りに、現地のメディアからは「今年のチャンピオンは2頭いた」と称賛された。
凱旋門賞を最後にエルコンドルパサーは現役を引退、種牡馬入りしたものの、平成14年に腸捻転により鬼籍に入った。
残されたわずか3世代の産駒からは、ヴァーミリアン、ソングオブウインド、アロンダイトと3頭のGⅠ馬や、トウカイトリック、サクラオリオンといった多彩な重賞馬が現れた。
その残された血の優秀さを見るにつけ、あまりにも早すぎる別れだった。
エルコンドルパサーが出走できなかったクラシック競走は、その後徐々に出走制限が緩和され、令和のいまとなっては天皇賞同様に外国産馬も出走できるようになった。
されど皮肉なことに、サンデーサイレンスをはじめとした優秀な種牡馬の輸入による内国産馬のレベル向上にともない、外国産馬の輸入は減少傾向となっていく。
令和元年の現在において、クラシックを制した外国産馬は、オークスを制したローブデコルテただ1頭のみである。
ジャパンカップにおいても、エルコンドルパサーが勝った平成10年以降、外国馬が勝ったのは平成14年のファルブラヴと平成17年のアルカセットの2回のみと、日本馬が外国馬を圧倒している。
「マル外」という言葉に張り付いた悲哀さなどはどこにもなくなり、ディープインパクトの血を求めて世界から繁殖牝馬がやってくるようになった。
時代は、変わった。
エルコンドルパサーは「マル外」だった。
皐月賞にも、ダービーにも、菊花賞にも、天皇賞にも、出走できなかった。
されど、彼の足跡を眺めると、それを気に留めることも少ない。
それこそが、エルコンドルパサーの成し遂げた偉業の大きさを示しているのかもしれない。
生まれや境遇の不条理も不合理も飛び越えていく、エルコンドルパサーの走り。
「大切なのは、何を成し遂げるかだ」ということを雄弁に語る、そんな力強い走りだった。
色づく秋もいよいよ終わりを迎えるころ、今年もジャパンカップがやってくる。
写真:かず